躓き

零時を過ぎて、日付が変わった。
そんな時間なのに、君は空腹感を覚えていて、どうしようか、と先ほどから思案している。
どうしようか、というのは、何か食べにいくか、行かずにこのまま我慢して寝るか、迷っているのだ。
何か食べに行くといっても、こんな時間では、徒歩で十分弱のところにある牛丼屋くらいしか、営業している店はない。
実質的に選択肢は、ひとつだけだった。
要するに、もう風呂も入ってしまったし、明日も休みではないから、牛丼を今から食べに行くか行かないか、そのことで君は迷っているのだった。
カップラーメンの買い置きでもあればそれを食べればいいのだが、あいにく食べ物の在庫はスナック菓子すらないし、コンビニは牛丼屋よりも遠い。

普段であれば、こんな時間からわざわざ出かけて行くのは面倒くさいし、大抵は我慢するのだが、今夜の君は極限的に空腹で、このままその空腹感をごまかして寝られるとは到底思えなかった。
そもそも今日は夕食として、職場で残業中にコンビニのサンドイッチを食べただけだったから、もうそれから六時間近くが経過しているし、そろそろ腹が空いて当然だった。
そんなことを考えていると、君はますます空腹を感じてきた。

結局、君は牛丼を食べに行くことにして、スウェットの上下の上にブルゾンを着ると、財布だけを持ち、ローカットのコンバースを履いてアパートの自室を出た。
外に出ると、11月の夜のこんな時間ともなれば涼しいを通り越して肌寒さを感じ、君はポケットに両手を突っ込み、若干背中を丸めた。
誰ともすれ違わずに住宅街の中を進み、国道に出る。
さすがに国道には車が行き交っていたが、歩行者の姿は見えなかった。
君は舗道を歩いていった。
よく通る道なので、牛丼屋までの所要時間なども、無意識のうちに計算できた。

やがて前方に二十四時間営業の牛丼屋が見えてきた。
オレンジをベースカラーにした看板が、夜の中に浮かび上がっている。
日本中、どこにでもある全国チェーンの牛丼屋だ。
店の前に広く駐車場が作られているが、この時間では車も殆ど止まっていない。
君は駐車場を抜けて牛丼屋に入った。
ガラスのドアを開けると、カウンター席だけで構成された広い店内に、客は四人しかおらず、閑散としていた。
客の四人は、全員男のお一人様で、適度な間隔を保って座り、黙々と牛丼を食べている。
君が店に入ると、カウンターの端のレジのところにいた中年の男の店員がちらりと顔を向けて「いらっしゃいませ」と言った。

君はそのレジの近くのストゥールに腰を下ろし、店員に「並ひとつ、ください」と注文をした。
もう夜も遅い時間だし、みそ汁は付けず、ガラスケースの中から漬け物の小皿も取らなかった。
中年の店員は君と目を合わせようともせず、注文を復唱すると、奥の調理場へと消えた。

店の中は、静まり返っている。
BGMも流れておらず、客はお一人様ばかりなので喋っている者もいない。
君は手持ち無沙汰な調子でカウンターにひとり座り、とくに意味もなく壁に貼られたポスターを見ていた。
そうしているうちに、客のひとりが店員を呼んで会計を頼んだ。
カウンターの間の狭い通路を中年の店員がその客のところまで行って代金を受け取り、お釣りを戻しているようだったが、やはりその店員は一度も客と目は合わせなかった。
店員は何度も何度も必要以上に頭を下げながら会計していた。

やがて会計作業を終えたその店員が君のところへ牛丼の並を運んできた。
この時間帯は、彼ひとりでフロアを切り盛りしているらしい。
もちろん調理場には他の人間がいるのだろうが、店内に店員は彼の姿しかない。
中年の店員は「お待たせしました」と言って君の前に牛丼のどんぶりを置いた。
そのときも、彼は何度も頭を下げ、そして君と目は合わさなかった。

君は箸を取り、牛丼を食べ始めた。
おいしいとかまずいとか、そういうレベルは既に超越している、普遍的で日本全国画一的な、食べ慣れた牛丼の味だった。
君は深夜の牛丼屋の片隅で並盛りを黙々と食べながら、自分の人生においていったいこのチェーンの牛丼を何杯食べているだろう、とふと思った。
物心がついた時にはもうこのチェーン店は日本中にあって、子供の頃から食べているし、もちろん大人になってからも昼食や夕食に食べまくっている。
君にとっては、マクドナルドやモスバーガーやケンタッキーやミスタードーナッツと同じくらい生活上で重要なレベルの外食チェーンだ。

そして三分の二ほど食べた頃、店のドアが開いた。
何気なく見やると、若い女性が一人、携帯電話で喋りながら入ってきた。
歳の頃はおそらく二十歳前後、かわいいというか綺麗な顔立ちだが、どことなくやんちゃな雰囲気の、ヤンキー風の女の子だった。
栗色の長い髪はストレートで、ピンクのジャージを着て、白いクロックスを履いている。
女の子は、右手で携帯を持って耳に当てて喋りながら、左手に分厚い折財布を持って、カウンターの端にあるレジの近くまで歩いてきた。
そのレジの近くに座っている君との距離が縮まり、彼女が背後を通り過ぎる時、香水の香りがふっと流れた。
女の子は携帯で喋り続けたまま君の背後を通過し、レジの近くまでくると、立ったままカウンターに寄りかかり、通話を続けたまま、財布を持った左手でどんどんとカウンターの天板を叩いて、イライラした様子を隠そうともせず「おい」と店員を呼びつけた。
ただでさえ卑屈なまでに平身低頭なスタイルを貫いている中年の店員が、その女の子の態度に更に恐縮するようにぺこぺこと頭を下げながら近づいてきて「いらっしゃいませ」と言った。
女の子はその店員の言葉には応えず、心底から軽蔑したような冷たい目を向けて(このクズは何?)みたいな露骨な態度で唇の端を歪ませながら、携帯の向こうにいる通話相手に向かって「ちょっとまた後で電話する」と言って電話を切ると、「牛丼の並ふたつ」とぞんざいな口調で注文した。
「牛丼の並、おふたつですね。かしこまりました。お待ちください」
店員は女の子の顔を見ないまま注文を復唱して伝票に書き込むと、やはり数回続けて頭を下げてから、それを持って奥の調理場へ向かった。

君はそんな店員と女の子のやり取りをなんとなく眺めながら、その女の子の傍若無人な態度に「素敵だな」と感じていた。
君はマゾだから、こういう女の子の高飛車な態度にはついつい惹かれてしまうのだ。
とはいえ、同時に超がつくほどの小心者でもあるから、そういう女の子と知り合いになる機会は全くなく、密かに盗み見るようにしてそっと心をときめかせるだけだ。
しかし、ついつい君は彼女をじっと見てしまって、次の瞬間、不意に目が合ってしまった。
君はもちろん壮絶に焦り、すぐに目を逸らしたが、少し反応が遅れてしまった。
女の子が「あ?」と眉間に皺を寄せながら君に顔を向け、「何見てんだ?」と言った。

「い、いいえ、別に……」

瞬間的に汗が噴き出し、君は極度の緊張状態に陥りながら、少し吃りがちになってこたえた。
当然、彼女の顔を見ることはできず、視線はカウンターに落としたままだった。

「ふざけんな、てめえ」
女の子は言い、唐突に、君の座っているストゥールの脚を蹴った。
「謝れ」

「えっ?」
君はストゥールを蹴られたことに恐怖と戸惑いを覚えながら、同時に彼女の剣幕にビビりつつ、何に対して謝るのだ? と思ったが、そのことについて彼女に何かを言うことはできなかった。
だから黙っていると、女の子は再びストゥールを蹴り、「じろじろ見てすいません、だろ」と唇を尖らせて言った後、おもむろに君の頭を掌で叩いた。
「おまえ、アホか。さっさとちゃんと謝れよ」
「は、はい、すいません」
君は体を硬直させながら言い、カウンターに両手をつくと、頭を下げた。
「じろじろ見てすみませんでした」

なんとも理不尽な仕打ちだった。
屈辱感で体が震えたが、怖くて彼女には何も言えなかった。
店員は遠くにいたが、近づいてこなかったし、何も言わなかった。
他の客も、関わり合いになることをさけるように、まるで何も目に入らないみたいな態度で牛丼を食べている。

まるで永遠のように感じるほど重苦しい沈黙の時間が流れた。
君はカウンターに視線を落としたまま、じっと体を強張らせていた。
すると女の子はおもむろに、君の牛丼の中にペッと唾を吐いた。
しかし君はそんなことをされても何も言い返せず、動けなかった。
女の子はそんな微動だにせず固っている君を無言のまま見下ろし続けた。
君はフリーズしたまま、自分の後頭部に注がれているその視線の気配をひしひしと感じていた。
そして、密かに勃起していた。

やがて、店員がふたつの牛丼をビニール袋に入れて現れ、代金を告げながら女の子に手渡した。
女の子はもう完全に君の存在を無視して代金を支払うと、そのまま店から出て行った。
その間、君はカウンターに視線を落としたまま微動だにせず、ただ時間が過ぎ、女の子が立ち去るのを待っていた。

女の子が完全に店の外へ消えてから、君は女の子の唾が吐かれた牛丼の残りをそそくさと食べ終えると、精算を済まし、逃げ出すように店を後にした。
女の子の唾は嬉しかったが、彼女の姿が消えたら、強烈な恥ずかしさに突き上げられてしまったのだ。
大の大人が、若い女性から理不尽な因縁をつけられて何もできず、それだけでなく、衆人環視の中で謝罪までさせられ、牛丼の中に唾まで吐かれたその一連の行動が、どうにも恥ずかしかったのだ。
気が急いていたからか、スウェットパンツの下で固くなっているペニスのせいで歩きにくかったからか、ガラスのドアから外へ出る時、君は躓いてよろめいてしまった。
幸い転倒することはなく、つんのめっただけで体勢を立て直すことができたが、その一瞬に汗がどっと噴き出た。

店を出ると、女の子の姿は既にどこにもなかった。
女の子の冷たい視線や怖い口調やその表情の印象が強烈に残っている。
マゾの君にとってその印象は甘美で、勃起は全く収まる気配がなかった。

夜風が冷たかった。
君は早く家に帰り、今の女の子の雰囲気を忘れてしまわないうちにオナニーをしよう、と思いながら、自宅に向かって急ぎ足で歩き出した。

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カテゴリー:金の鎖、銀の鞭
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