越境者

君はこれまでに二度、越境している。
一度目は、もう随分以前だ。
「大人」と呼ばれる年齢になってさらに時間が経った頃、君は一度目の越境を果たした。

あれは雪がちらつく二月の寒い夜だった。
その日、君は仕事を終えて既にいったん帰宅していたのだが、午後十時を過ぎた頃、突如、不退転の決意で部屋を出た。
唐突に、SMクラブへ行こう、と思ったのだ。
急に思い立ってそのまま行動に走ったきっかけは、わからない。
ただそれまでの君は妄想系の変態M男で、実践経験は全くなかったのだが、その夜、何かが変化した。
理由は思い当たらない。
風俗雑誌等で街の盛り場にSMクラブがあることは情報として知っていたし、その店の広告を見れば在籍する女性が多く掲載されていて憧れを抱いていたし、実際にそのクラブの前を(たまたま通りかかっただけ)という風を装って徒歩で通過したことが何度もあった。
だから場所や大まかな料金体系等については既に承知していたのだが、なかなか踏み出せないでいた。
やはり心のどこかで、妄想だけで済ますことと体験することの間には明確な違いがあり、現実的に経験してしまうと正真正銘真性のM男になってしまいそうで、二の足を踏んでいた。
そもそも君は、風俗の店へ行ったことすらなかった。
ヘルスもソープも未経験だったから、そういうレベルでいきなりSMクラブはあまりにハードルが高すぎるという意識もあった。
そんな状態なのに、なぜあの夜、君がいきなりSMクラブの門を潜ろうと思ったのか、それは雪が降っていてひどく寒く、こんな夜なら街にも人は少なく、クラブも空いているのではないか、と考えたからかもしれなかった。
もともと行きたいという気持ちは高まっていたのだから、足りないのは実行に移る動機付けだけだった。
今ではもう全く考えられないことだが、当時はSMクラブへ行くということに尋常ではない背徳感というか、人としての後ろめたさみたいなものや恥ずかしさを君は感じていて、できる限りクラブ周辺の路上で他人に会いたくなかった。
その点、降りしきる雪がヴェールの役割を果たしてくれるのではないか、と思った。
雪の中、傘を差して徒歩で店に近づき、さっと入ってしまえば、誰にも見咎められることがなさそうで、それが君に安心感を与えた。
それ以外にも、君の背中を押す要因はいくつかあった。
まず、給料が出た直後で懐に余裕があった。
それから、当時たまたま数日にわたって多忙を極めており、自慰をしない日々が続いていたから、充分に溜まっていた。
そして、風俗情報誌を買ったばかりで、気分が密かに盛り上がっていた。
こういったいくつかのピースがひとつにぴったりとはまって、君がついにSMクラブデビューを果たす、という一枚の壮大な絵を完成させた。

そうと決まれば、君の行動は素早かった。
勇気を振り絞って自分を奮い立たせながら、財布と傘だけを持って部屋を出た。
ぼったくりが怖かったから身分証明書の類は持たなかったし、現金も必要最小限にしておいた。
携帯電話も置いていった。
ただし情報誌に入会金無料のクーポンが付随していたので、それだけは切り取って財布に入れた。
予約の電話はしなかった。
予約をすれば確実だろうが、しなかったことには理由がある。
それは、もしかしたらそれでも店の前でビビってしまい、結局行けないなんてことになるかもしれなかったからだ。
そうなると、予約は具合が悪い。
だから君は飛び込みで向かった。
もっとも結果的に、そういう心配は杞憂に終わった。
あんがい君はスムーズに入店してしまった。
粉雪が降りしきる、クラブのある通りに人気は少なく、君は傘で顔を隠すようにして黙々と歩きながら店に近づくと、さっとドアを開けて中に入った。
店の中は無人だった。
ドアを潜るとそこは待合室のようなスペースになっていて、ソファが並んでいた。
壁が鏡張りになっていて恥ずかしかったが、君の背後でドアが閉まると、すぐに事務室から黒服の、やや年配の男性が出てきて、柔和な笑顔で「いらっしゃいませ」と頭を下げた。
「ご予約は、おありですか?」
そう訊かれて、その時点で君はもう心臓が裏返りそうなくらい極度の緊張状態に陥っていたが、店員の優しげな雰囲気に少しだけ気持ちの強張りが解けて、こたえた。
「えっと予約はしていません、初めてなもので」
すると店員はソファを勧めた。
「そうですか、こんなお足元の悪い中、わざわざありがとうございます」
そう言い、君がソファに座ると、いったん去り、すぐに飲み物を持って戻ってきた。
「どうぞ」
烏龍茶の入ったカップをテーブルに置き、君の足元に傅いた。
「それでは、簡単に当店のシステムを説明させていただきます、ご承知でしょうが、当店はSMクラブでございまして、コースはお客さんが責めるSコースと、お客さんが責められるMコースがございますが、どちらにいたしましょう?」
君は気恥ずかしさが内心で爆発することを自覚しつつ、小声で短くこたえた。
「Mで」
「かしこまりました、女王様コースですね」
店員は確認のために復唱し、続けた。
「申し訳ないのですが、Mコースですと、現在混み合っておりまして、早くても三十分後のご案内になってしまいますが、お時間の方はよろしいでしょうか?」
今更やめるなんてできなかったので、君は頷いた。
「構いません」
「では、何分のコースにいたしましょう? 60分、90分、120分、とございますが」
店員は料金を提示した後、付け加えた。
「あと、別途プレイルームの使用料と、当店は会員制でございますから初回に限り入会金をお願いいたします」
君は、承知した、というように頷いてから、こたえた。
「60分で」
「かしこまりました」
そして君は、たぶんこのタイミングでいいだろう、と思いながら、言った。
「あのう、これ、使えますか?」
財布から入会金無料のクーポンを取り出して、示した。
「大丈夫ですよ、では」
店員はそれを受け取り、プレイ料金の総額を告げた後、女性の写真が入った何枚かのハードのクリアファイルを、トランプのように扇状に広げて見せた。
「今、ご案内できるのはこちらの女の子たちになります」
何枚のファイルが出てきたか、完全にテンパっていた君はちょっと思い出せないが、確か四、五人だったと思う。
君はファイルを吟味した。
クリアファイルには写真と身長や年齢等簡単なプロフィールが入っていて、可能なプレイが記されていた。
君はやがて一人の女性を選んだ。
本当は密かに雑誌でチェック済みの意中の女性がいたのだが、彼女のファイルはその渡された中にはなかった。
店員に、君は選んだ女性のファイルを見せて、言った。
「この人で」
「かしこまりました」
店員は頷いてファイルを回収し、料金を受領すると、訊いた。
「領収書は必要ですか?」
「いらないです」
君がそうこたえると、店員は立ち上がった。
「それでは、しばらくお待ち下さい」
店員は頭を下げ、いったん事務室へ戻った。
待合室の隅の上空にテレビがあって、ニュース番組が小さな音量で流されていた。
君はがらんとした、鏡張りのためにどこか淫靡な待合室にひとり取り残されて、完全に手持ち無沙汰だった。
烏龍茶を飲み、テレビを見た。
別にニュースなんか見たくはなかったが、他にすることもないので、仕方なかった。

肝心なプレイについて、実は君はあまり覚えていない。
というのも、緊張と興奮が尋常ではなかったからだ。
よって、記憶はコマ切れで、うまく繋がらない。
女王様は優しく綺麗な人で、ファイルの写真と髪型が全然違ったから、初対面の瞬間はびっくりしてしまったが、女性の方から「写真と全然違うよね、最近、髪切ったのよ」と言って場を和ませてくれたことはよく覚えている。
そしてプレイが始まる前に、君は「SMプレイは初めてなのです」と正直に言い、「基本的に『お任せ』でお願いしたいのですが」と付け加えた。
すると女王様はベテランらしく快諾し、いざプレイとなった。
女王様は君にシャワーを使うよう命じた。
君は部屋の隅で裸になると、シャワー室で体を流した。
その間に、女王様は着替えていた。
シャワー室から出てくると、女王様はボンデージ姿だった。
生の『女王様』を見て、君は呆気なく勃起してしまった。
君は簡単に体を拭くと、バスタオルを置き、既に足を組んで椅子に座っている女王様の前へ全裸で進み、ごく自然に跪いた。
その瞬間、君は確かに一度目の越境を果たした。

その夜、クラブを出ると、雪はいちだんと激しくなっていた。
君は痺れるような寒さの中、人気の絶えた街路を歩きながら、(ついにマゾプレイを体験してしまった!)という昏い興奮に包まれていた。
心地よい疲労感と、まだ夢の中にいるような倦怠感に浸りながら、鞭やビンタの痛みに火照って熱い体に、霏霏と降る雪や空気の冷たさが快かった。

あの初めての夜から、かなりの年月が流れた。
君はM男として場数を踏み、それなりに経験を重ねてきた。
失敗もたくさんした。
すべてのM的体験は風俗だったから、合わない相手も居たし、しっくりこないプレイもあった。
しかしもちろん素敵な相手は多くいたし、満足のゆく素晴らしいプレイもたくさんあった。
ただ、これだけマゾとしてプレイを続けていると、さすがにマンネリ感は否めなくなってきた。
SMクラブでのプレイは、バリエーションは幾つかあるが、ベースは限定的だ。
鞭、緊縛、吊り、蝋燭、ビンタ、アナル、言葉責め、匂い系フェチプレイ、唾や聖水等の体液享受、そして自慰……ほとんどがこれらの組み合わせでコースが組み立てられる。
無論、相手や状況の違いでひとつとして同じプレイはないのだが、君はこの頃、なんとなくマゾとしての限界みたいなものを感じていた。
かといって、クラブを離れて素人相手となるとリスクが高いし、エゴと言われようが相手はプロでなければMとして自らを委ねることが怖い。
たいしたものではないが、君にもそれなりに常人的な社会生活がある以上「プレイ」以外のSMは難しい。
すべてを投げ打って誰かの奴隷になってすべてを捧げるとか、シチュエーションとしての憧憬は抱くが、現実的には無理だ。
映像作品に出演してみたい気持ちもある。
しかしそれも、もしもの身バレを考えるとあまりにハイリスクで、踏み出せない。
そもそも君の場合、自分がマゾであることは認めるが、それをプレイ相手の女王様以外に知られることを、絶対に望まない。
だからSMバー的な場所も気後れして行けないし、SM系のパーティなんて以ての外だ。

そんな、或る意味マゾとして「ひきこもり」的な君だが、ついに二度目の越境を果たした。
それは、つい昨日のことだ。
尤も午前零時を過ぎたから便宜的に厳密に「昨日」といったが、時間の経過を基準にするならほんの数時間前のことだ。
だから、感覚的にはまだ「今夜」と呼んだ方がしっくりくる。
SMクラブでのプレイ以外にMとして覚醒する機会のない君が、雁字搦めで不自由な狭い世界の中に生きつつ、今夜、越境した。

今夜の君は、いつもの君とは少し違っていた。
ある決意を胸に秘め、SMクラブへ向かったのだ。
新しい未知のプレイに挑戦して自らの殻を打ち破りたいという激しい渇望を決意に変換して君はクラブに予約の電話を入れ、決してもう短いとは呼べなくなってきた自分のM人生に於いて生まれて初めてのオプションを追加した。
記念すべき相手は、初めての女王様を指名した。
広告やウェブで顔出ししている、ハードな責めで評判の高い人気の美人女王様だ。
プレイ前に君はオプションについて「初めてなのです」と正直に告白した。
女王様は「大丈夫?」と妖艶に微笑みながら訊き、君は「頑張ります」とこたえた。
それ以上、女王様は何も言わなかった。

プレイが開始され、君はいつもより激しく責められた。
それは君のリクエストだった。
自分よりも体格的に勝る女王様に苛め抜かれ、ボロ雑巾のように満身創痍になることを熱望した。
そのために、あえてハード系の女王様を選択したのだ。
そしてその希望通り、君はボロボロになった。
散々小突き回され、やがて君は仰向けにぶっ倒れた。
その顔を、女王様が跨ぎ、おもむろにショーツを下ろした。
そして、そのまま尻を落とす。
君は肩を弾ませて荒い息を吐きながら、迫り来る女王様の股間を、吸い寄せられるように凝視した。
陰毛の茂みの奥にピンク色の亀裂が覗き、その先に、可憐な蕾があった。
その蕾が収縮し、君は息を詰めた。
次の瞬間、蕾が一気に開いて、黄金色に輝くクリームが出現した。
それはにゅるにゅると音もなくしなやかに、まるで神の使いである聖なる蛇の降臨の如く産み出され、やがて自らの重みに耐えきれなくなったのか、ごく自然にちぎれて君の顔の上に落下した。
その刹那、君は二度目の越境をした。
君はついにリアルに人間便器となった。
聖水なら今まで数限りなく浴びたり飲んだりしている。
しかし黄金は初めてだった。
憧れはあったが、これだけは絶対に無理、と君はずっと思っていて、どうしても勇気が出せなかったのだが、今夜の君は果敢に挑み、華やかに跳躍した。
そして、全面的に受け止めた。
ただ、その触感は異次元の感触で、初めから分かっていたことではあったが、想像以上の香気に、さすがの変態M男の君も嘔吐きそうになってしまい、必死に息を止めた。
本当は「食べたい」とまで思っていたし、この先にはそれがまだ待っているだろうが、今夜の君はひとまずそこまでで、それ以上先へ進むことはできなかった。
画像や映像といった二次元では、いくらでも妄想で食べられるが、現実的な三次元となると「臭い」というファクターが厳然と存在していて、その障害の威力は君の想像をはるかに凌駕していた。
口と鼻を開いて息をしたら瞬間的にリバースしてしまうだろう、と思いながら君は、なんだか、限界の境界を押し広げたが、するとすかさず更に新しい限界が出現したような、そんな感じを抱いたが、達成感は覚えていた。
女王様は、君のそんな混乱を上空から見下ろして冷笑した後、聖水を盛大に注いで君の顔を流した。
まるでホースの先端を指で潰して放水するかのような強い勢いで降り注ぐ聖水に、君は目を閉じた。
暖かい水流に黄金が君の顔の上を流れていく。
あらかた流れ落ちると、君は大きく口を開け、尚も注がれ続ける聖水を飲んだ。
やがて聖水が止まった。
君が一息つくと、女王様はいっそう尻を落として君に命じた。
「食べることもできない役立たずのクソ便器、食べられないならせめて舐めて綺麗にしろ」
「はい!」
君は仰向けのまま顔だけを起こすと、女王様の汚れた蕾に舌を伸ばした。
苦味が舌先を痺れさせたが、耐えられないほどでもなかった君は、唇を窄めて蕾に吸い付き、舌を尖らせてその奥へと挿し入れて入念に舐めた。
まるでキツツキが木を啄ばむように、君は頭を上下に動かしながら舌を出し入れし、その後、蕾の皺のひとつひとつを丁寧に舌先で辿った。
そうしながら、君は無意識のうちに、既に限界までそそり立っていたペニスを握り締め、気づくと擦り始めていた。
女王様はそんな君を冷ややかに見下ろし、嘲笑った。
尻の穴の汚れを舐め取りつつ自慰をする憐れなマゾ豚……それが君だった。
「堕ちるところまで堕ちたな」
女王様が侮蔑の響きを滲ませながら吐き捨て、君は、否、と思った。
堕ちたのではなく、むしろステージを一段上がってまた一歩高みに近づいたのだ、と思った。
君は嘲笑を浴びながら、聖水と黄金の残滓に塗れさせた顔を女王様の股間に張り付かせ、一心不乱に舐め続けた。
そしてじきに呆気なく、そのまま華々しく射精した。

射精を果たした後ももしばらく君は動けず、漂うアンモニア臭の中、仰向けで呆然としていた。
顔を拭うことすらせず、そのまま聖水と黄金に塗れていた。
そんな君を見て、女王様は軽やかに笑った。
「なかなか壮絶ね」
「すみません」
君はようやく体を起こすと、椅子に座った女王様の前に跪き、ひれ伏した。
「御調教、ありがとうございました」
女王様は君の後頭部を無言のままパンプスで踏み、その足を床に下ろした。
無事にプレイは終了した。
女王様が言った。
「シャワーを浴びていらっしゃい」
「はい」
君は立ち上がると、シャワー室へ向かった──。

人は時に、自分でも思いがけずボーダーを軽々と超えることがある。
境界線には高いフェンスが聳え、電流が流れる有刺鉄線まで巻かれていて、それを越えることは決して容易いことではない。
境界線の向こうとこちらでは、完全な別世界だ。
そんな境界線を越えた瞬間、越境者は既成の枠を超えたスペシャルな存在となる。
ただし、誰かから尊敬されるようなことはない。
なぜなら、特に他人にはそのことを告げないからだ。
ほとんどの人は他人に知られることなく越境を果たす。
その後の生き方は、様々だ。
行ったきりの者もあれば、戻ってもう二度と向こうへは行かない者もある。
或いはどちらかに軸足を置きつつ、自由に往き来する者もある。
どの生き方が正しいのかなんてわからないし、そもそも正否を求める問題ではない。
正しいとか正しくないとか、そういう価値観すら軽やかに越える者が、越境者なのだ。

この先、君はあと何度、越境していくだろう。
それは君自身を含めて、誰も知らない。
誰にも、わからない。

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カテゴリー:金の鎖、銀の鞭
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