春の突風

事務所の更衣室で作業着に着替えると、高原誠治は表の駐車場に出てきた。その背中には、商品名のロゴが大きくプリントされている。高原は二十六歳で、清涼飲料水の販売会社に勤めていて、各所に設置された自動販売機を回り商品を補充する仕事に従事している。

砂利敷のだだっ広い駐車場に、何台もの配送トラックが朝の光を浴びながら整然と並んでいる。高原は自分のトラックである車輛ナンバー113の二トントラックに向かって車列の間を歩いていった。その手には今日の配送ルートが記載されたプリントを挟んだバインダーと伝票を持っている。仕事の内容はかなりの肉体労働だ。清涼飲料水の缶を詰めた段ボールは相当重い。それをえっちらおっちらと運ばなければならないのだから、今日のようによく晴れた日はすぐ汗だくになってしまう。しかも普段助手として付くアルバイトが今日は風邪で休んでいるから、すべての業務を高原ひとりでこなさなければならなかった。しかし担当区域はだいたい決まっているため、ひとりでもさほど問題は無い。慣れたものだ。日によって商品の量に変動があるものの、ルート自体はいつも代わり映えがしないから、そういう意味ではきわめて単調だ。ただ、拘束時間が長い。八時に出社して、夕方の六時前に帰れることは滅多に無い。遅い時は八時や九時になることもあった。そのわりに給料はしれていて、高原は必ずしも満足しているわけではなかった。それなりにストレスは溜まる。

商品は既に昨夜のうちにトラックの荷台に積み込んであった。高原は運転席に上がると、助手席にバインダーと伝票を投げるように置き、エンジンを始動させた。ラジオのスイッチを入れる。すると、いつもの朝のDJの声が聞こえてくる。

窓を開けると、すっかり春めいた暖かい風が車内に吹き込んだ。四月の空は美しく晴れていて、ついこの間まで作業着の上に防寒ジャンパーを羽織っていたなんて簡単には信じられないくらい気温が高い。

隣に止まっていた同僚のトラックが挨拶代わりにクラクションを短く鳴らして発進していった。土埃が舞い上がる。時計を見ると八時十五分。そろそろ出発の時間だった。高原はバインダーに挟まれている配送ルートを確認してからクラッチを踏み込んだ。そして床から長く突き出すように伸びているシフトレバーを操作してギアをセカンドに入れた。

今日の予定は、県内十一箇所に設置された自販機を回り、最後にショッピングセンターの店舗内と従業員用施設の自販機に商品を補充することになっている。ざっと計算して走行距離は百五十キロくらいと思われた。すべて順調に行けば五時過ぎには帰社できそうだった。予定表によるとショッピングセンター以外は全部トラックを自販機に横付けしての作業が可能のようだったから、比較的楽なルートといえる。

高原は煙草を吹かしながらトラックを走らせていく。朝の国道は都心へ向かう車で渋滞している。二十分ほど走ると、車窓に、今日の最後に予定しているショッピングセンターが見えた。ぼちぼち商品の納入が始まっているのか、バンやトラックが建物の裏手に止まっていて、段ボールがたくさん運び込まれている。

高原は倉庫で手に入れた、表面が凹んで売り物にならなくなった缶コーヒーを飲んだ。歩道に登校途中の女子高生が集団で歩いている。白いルーズソックスが眩しい。お世辞にも細いとは言えない脚が短いスカートから伸びていて、このところ全く女性と縁のない高原は、かわいいなあ、と思いながら彼女達を見遣った。張りつめた太腿が悩ましい。品のない笑顔が弾けている。何がそんなにおかしいのだろう、彼女達はけらけらと笑っている。

トラックは渋滞に巻き込まれてノロノロとしか進まない。前から自転車に乗ったミニスカートの若い女性が近づいてきて、高原の目はつい反射的にその彼女のサドルの辺りに集中してしまう。もしかしたら下着が拝めるかもしれない。そういう思考回路なのだ。その女性は十代後半に見える派手めな顔立ちだった。長い茶髪が風にそよいでいる。しかし肝心な下着はなかなか見えそうで見えない。そして、結局最後までそれは見えなかった。そのうち女性はトラックの脇を走り去っていった。それでも高原は未練がましくバックミラーを見てその女性の後ろ姿を追い続けた。

午後二時までに8基の自販機に商品の補充を済まし、高原はトラックをルート沿いに位置する公園の周回道路に駐車した。前後にはライトバンや営業車が連なって停まっている。運転席ではみんなシートを倒して漫画や雑誌やスポーツ新聞を読んだり、寝たりしていた。つまり勤務中の休憩、ようはさぼっているのだった。

高原は助手席に移動して、途中のコンビニで買った弁当の昼食をとった。彼のランチはたいていコンビニで調達される。日によってそれは弁当だったりサンドイッチだったりおにぎりだったりするが、間違っても千円を超える事は無い。今日は焼き肉弁当と前日の夕方に発行されたスポーツ紙が買ってあった。飲み物は後ろの荷台に売るほどあるので、買う事は無い。

靴を脱いでダッシュボードの上に脚を投げ出し、高原は弁当を食べた。トラックの車室は高いので、前方まで見渡せる。バンや小型トラックの屋根が公園の端までずらりと並んでいる。木々の間から差し込む陽光は煌めき、駐車中の車の屋根で弾けていた。

弁当を食べ終えてから、スポーツ紙を読んだ。このうえなく平和な、長閑な昼休みだった。野球、格闘技、サッカーと記事を読んでいき、風俗情報のページは後でじっくりと読むことにして飛ばし、芸能、競馬、と一通り記事に目を通した。高原は一切ギャンブルをやらないし、野球もサッカーもそれほど好きではなかったが、ただ、休憩時間の暇つぶしとしてはスポーツ新聞を読むくらいしかできることがないだけだった。雑誌や文庫本を読むには時間が足りないし、漫画では間が保たない。そういう意味で消去法の結果、たまたまスポーツ新聞を読むだけだ。しかしスポーツにもギャンブルにも興味が薄い彼だが、読むメリットはある。それは彼にとって唯一のメリットといってもよかったが、風俗に関する記事とそれに付随する充実した各種風俗店の広告だ。高原は丹念に記事を読み、広告を追った。ヘルス、イメクラ、キャバクラ、SMクラブ、ソープランド……男たちの様々な欲望に対応するべく様々な形態、様々な店があり、それぞれ工夫を凝らした広告を載せている。その中には、以前高原が会ったことのある女の子が顔出しして写真を載せているものもあり、彼はその顔写真を見てなんとなく優越感みたいな感覚を抱いた。

このまえ女の子の肌に触れたのはいつだったろう? 高原は欲望を煽るキャッチコピーの氾濫を眺めながら考えた。今年に入ってから、ヘルスとSMクラブへ一度ずつ行った。高原はマゾを自覚しており、しばしばその欲望を満たすためにSMクラブへ行くが、同時にヘルスにも行く。恋人はいない。よくよく考えてみると、女の子の友達と呼べる存在もいないし、会社の事務の女の子やおばさん以外で異性と言葉を交わすのは風俗の店の狭い個室の中だけかもしれなかった。しかし性欲と体力は人並み以上に健康だから、いつも持て余し気味だ。四六時中悶々としている。しかし発情する度に風俗へ行っていたら破産必至なので、高原は財布と相談して月に一度か二度のペースでそういう店に通っている。それは彼にとって唯一のストレス発散方法でもあった。

高原は身長170センチ、体重75キロで少し小柄で太いが、筋肉質でガッシリとした体格だ。顔もそれほど悪くはない。なのになぜ異性と縁が薄いか、それは彼が口下手で極度の上がり性だからかもしれなかった。おばさんなら平気なのだが、若い女の子が相手だとどうにもいけない。また、趣味が風俗を除けばプラモデル作りとコンピューターゲームということが示す通り、多少内向的な向きもある。だからといってオタクというほどでもない。同僚や学生時代の友人達とはたまに飲み歩いたりするし、それでも自覚していることだが、若干M気質があることは紛れもない事実だった。ふだんはその面が顔を出すことは滅多に無いが、ともすると、ふと気づくと女性をそういう目で見たりしていることがある。そもそも高原は少々変わっている。自分はきわめて地味なくせに、ヘルス等へ行くと普通なら絶対に付き合えそうにない派手な子を指名してしまうし、街を歩いていても気になるのはギャルの女子高生ばかりだ。彼女達の世の中を舐めきったような態度は、普段であれば腹が立つが、発情しているとたちまちそれが素敵に見えてきてしまい、そのままバカにして罵ってもらいたい、と考えてしまう。高原はどちらかというと引っ込み思案な性格の方だが、その実、というより隠された本質は軽度の露出狂だった。まるで月夜に少年がオオカミに変身するように、高原はある時期が来ると、その一定の期間だけ、自分の恥ずかしい姿を女の子に見てもらいたくて仕方なくなることがある。それは一種の病気かもしれなかった。しかし元来控えめな性格なので、それを理由に犯罪行為に走ることは無く、それが救いでもあった。ただ、一度火がつくと、その炎はメラメラと燃え盛って、手が付けられなくなってしまう。そして、実はこのごろが、ちょうどその時期であった。

しかし今月はカネがなかった。そういうとき彼はどのように対処するかというと、無論自慰だ。勤務を終えてアパートに戻ってから布団に潜り込むまでの間に、ビデオや雑誌などを使って多い時は三回は抜く。一度でいいから女子高生や綺麗なOLの前で大胆に露出して嘲笑われたいと思うが、高原にその一歩を踏み出す勇気はない、だからいったん発情すると、ただひたすら夜な夜な怪しい妄想を膨らませて虚しく自分で慰めるしかないのだった。

実はそういう性質の高原にとって、今日の最後に訪問を予定しているショッピングセンターは、夢の園といってもよかった。従業員用の休憩室はほとんど女性で占められているし、そこで寛ぐ彼女達の前で黙々と汗を流しながら補充作業を行うことは、かなりマゾヒスティックな状況でゾクゾクできる。彼女達は高原などまるで眼中に無いし、完璧に無視して話題に花を咲かせるからたまらない。それが若い学生のバイトだったりすると内容も相当に際どくて、高原は気のない素振りで仕事をしながらも耳をダンボにして聞き入って楽しむ。涼しげに煙草なんかを吹かす自分よりも年下の女性の前で単純労働作業に勤しむ姿というのは、ただそれだけでも被虐性が刺激されてしまうのだった。

二時四十分になった。最終のショッピングセンターは全部の自販機に補充するのに約一時間は要するから、遅くとも四時半には入らなければならない。そこから逆算すると、そろそろ出発の時間だった。

高原は弁当の空き箱と新聞と空き缶を公園のゴミ箱へ捨てるために車から降りた。麗らかな日射しが柔らかい。公園の緑が眩しかった。目に映るすべての景色から、新しい季節の到来に歓喜する溢れんばかりの生命の息吹が感じられた。と、不意に強く乾いた風が吹いた。それは何かの予感を孕んだ春の突風だった。周囲の木々がざわめき、一斉に光を翻す。高原は眼を細めた。そしてゴミを捨てると、ついでにトイレを済ませてからトラックに戻り、エンジンを始動させた。

納品車両専用の駐車場にはバンやトラックが犇めいていた。高原はその間を縫って進み、空いたスペースにトラックを止めた。エンジンを切って車から降り、荷台側面のスライド式のドアを開けて台車を取り出し組み立てた。そしてその台車に商品の入った段ボールを積み上げていく。

納入口で名簿に社名と氏名を記し、入店証を受け取って胸に付けてから、高原は台車を押して検品所を通過した。ショッピングセンターのバックヤードは雑然としている。ところ狭しと様々な商品が梱包されたまま置かれ、高原はその隙間を縫うように奥のエレベーターに向かって台車を押していった。

貨物用のエレベーターは三基あり、そのどれもが傷だらけだ。店内の綺麗なエレベーターに比べて、貨物用のそれは塗装が剥がれ、ところどころ歪にへこんでいる。箱の動きも緩慢だ。扉もぎごちなく閉まるし、ブザーにも品がない。

高原はまず四階まで上がった。このショッピングセンターの建物は五階建てだが、三階までが店舗でそれ以上の階は駐車場になっている。その駐車場から店舗へ入るための入り口が各階の端にあり、そこにはエレベーターとエスカレーターが設置されていて、ちょっとしたホールのようなスペースになっている。そこにはベンチやゴミ箱があり、他社の自販機と並んで自社の自販機が置かれているのだった。ちなみに従業員用の食堂や休憩室は五階のバックヤードにある。

殺風景なエレベーターを降り、薄暗い廊下を進んで重いスティールの扉を開け客用のスペースに出ると、ガラスの向こうに駐車場が見渡せた。ベンチには誰もいなかった。高原は台車を止め、自販機の鍵を開けた。そして商品を間違えないようにスロットに補充していく。思っていたより商品が売れているようだった。とくにテレビで頻繁にコマーシャルが流れている商品は、その宣伝の効果か、他のものより明らかに在庫が減っていた。この調子だと途中で一度トラックに戻って追加を取ってこないと駄目かな、と高原は思った。

その後、順番に店内の五箇所の自販機を回ったが、危惧していた通り一度トラックに戻らなければならなかった。それでもどうにか店舗スペースの補充作業は終わり、最後に従業員用の休憩室に向かった。その頃にはもう額に汗が浮かんでいた。外は小春日和で暖かく、店内は緩く空調が効いていて客は快適だろうが、そのような場所で作業をすれば汗を掻いて当然だった。

休憩室のドアには磨りガラスが嵌っている。高原は控えめにノックしてから静かにそのドアを開け、「失礼します」と小声で言って中に入った。

室内は広いが、閑散としていた。壁際に並ぶ自販機の前のテーブルに、『休憩中』という札をユニフォームの胸に付けた女性従業員が三人、談笑しているだけだった。三人とも透明なビニールの手提げ鞄を小脇に置いて、缶コーヒーやアイスティーを飲みながら煙草を吸っていたが、高原が入っていっても、返事をするわけでもなく、ただちらっと一瞥しただけですぐに内輪の会話に戻っていった。そしてその視線が二度と高原に向けられる事は無かった。

高原は台車を押して彼女達のいるテーブルの前にある自販機まで進み、作業を始めた。補充のために段ボールの中から商品を取り出そうとして屈むと、視界の端に、よく履き込まれた彼女達のパンプスとストッキングの脚が見える。高原は黙々と作業を続けながらもその景色をちらちらと見て、このストッキングの脚に手を伸ばして手のひらを執拗に這わせ、陶酔するように頬擦りしたい、と激しく思い焦がれた。そしてついでに彼女達の会話にも耳をそば立てる。話の内容からすると、彼女達はまだ新人のようで、どうやらこの春に高校を出てこの店で働き出したばかりのようだった。ということは未成年なので当然喫煙は良くないことだったが、それを注意できる権限など高原には無い。

そうして作業を続けていると、やがて俄には信じられないようなショッキングな会話が聞こえてきた。

「ちょっと、わたしもう一回トイレへ行ってくるわ」

「何? まだ調子悪いの?」

「うん、さっきからお腹がゴロゴロしっ放しで、朝からシャーシャーなのよ」

それは衝撃的な会話だった。高原は思わずその声の主を盗み見てしまった。すると、人前でこのような話をするくらいだから、たいしてかわいい子ではないだろう、と思っていたのだが、その想像に反して声の主はなかなか綺麗な女の子だった。高原は思わず、こんな綺麗な子が下痢をしているのか! と昂ってしまった。たちまち妄想が胸の内に広がる。高原の孤独な暗い脳裏に、その彼女がトイレの個室でスカートをたくし上げ下着を下ろして便器を跨いでしゃがみ、派手な音を響かせながら下痢便を排出する姿が映し出された。きっと個室内には猛烈な臭気が立ち込めることだろう。彼女の澄ました外見からその様子を想像するのは難しい。まさかこんな綺麗な子がユニフォームのスカートに包まれた形の良い尻の割れ目から派手な破裂音とともに水っぽい下痢便を噴出するなんて、夢のような光景だった。高原は何気なく商品を段ボールから取り出し、補充作業を続けながら「便器になりたい」と切実に思った。できることなら彼女の後をつけていって、隣の個室に入り、その光景を覗くか、それが叶わないならせめて流れてくるその臭気を共有したい。そう思ったが、もちろんそれは絶対に実現不可能なことであり、よって泣く泣く断念するより仕方なかった。一時の妄想に突き動かされて行動に走ることは快感だろうが、その後のことを考えるとあまりにリスクが大き過ぎる。さすがの高原にも、まだその程度の分別はある。

しかし気が付いた時にはもう高原の性器は作業ズボンの中でカチンカチンに勃起してしまっていた。もしもこの目の前の彼女達が、自分が勃起していることを知ったら、と考えると、まますます高原の硬度は増し、限界に近づいていった。高原は、卑猥な性器をここで露出して罵られたい、という激しい炎のような衝動を抑えることに必死だった。そんなことを本当にしてしまえば、生活は破綻する。だから我慢するしかない。

高原にとって、拷問のような時間だった。それでも彼女達がそのような高原の内なる葛藤など知る由もないから、例の女の子は煙草を消してさっと立ち上がると「じゃあ、ちょっと出してくるわ」と明るくあっけらかんとした口調で言い、そそくさと休憩室から出ていった。残されたふたりもとくにそのことを気に留める風はなく、すぐに気に入らないらしい上司の悪口に戻り、そのムカついたエピソードで盛り上がり始める。

高原の存在は、まさに路傍の石だった。それでなければ、透明人間だ。彼女達にとって、高原の存在は無に等しい。ふつうなら人前、それも男のまえで女の子が下痢の話などしないだろう。しかし明言を憚られるようなことを彼女達は実際に高原の前で平然と話しているのだから、彼女達が高原のことを全く気に留めていないのは明白だった。

高原は悶々としながらも黙々と作業をこなしていった。労働のせいとは違う別の種類の汗が額や背中に噴き出していた。

トラックに戻ってエンジンをかけてからも高原の心は騒いでいた。想像は無限に増大し、理性を翻弄した。ギアを入れ、トラックを走らせ始めても、個室でしゃがむ彼女の姿がチラチラして仕方なかった。財布に余裕があれば、今夜は間違いなくSMクラブの扉を潜りそうだった。しかしまだ給料日は遠い。高原はそのことで余計に悶々としてしまった。

帰社の途を辿りながら、高原は窓枠に肘を載せて暗くなりつつある街並に目を遣った。国道は家路につく車で混雑している。朝ほどの渋滞ではなかったが、車は信号とそれほど関係なく並んでしまう。

時刻は五時半過ぎで、帰社は六時頃になりそうだった。明日は土曜で休みだから、翌日の準備はしなくていい。事務所に戻れば、伝票を整理して日報を提出してそれで終わりだ。たいして時間はかからない。今日は早く帰れそうだった。

会社の敷地にトラックを乗り入れると、決められた位置に止めて高原は車を降りた。明日が休みということもあって、他のドライバーも早めに戻ってきているみたいで、八割方のトラックがもう駐車場に止まっていた。

事務所に入っていくと、事務のおばさんが「お疲れさま」と言った。高原はそれに応えてから伝票を整理し、その束をおばさんに渡した。窓際に置かれた応接セットで勤務を終えた同僚達が雑談に興じている。奥のデスクでは頭の薄い係長が何やら書類と格闘していた。高原は日報を書き、それを係長に提出すると、同僚と少し喋ってから更衣室へ向かった。飲みに行こうと誘われたが、やんわりと断った。今日は、刺激的な会話を盗み聞きしてしまったため、男達と騒ぎたい気分ではなかったのだ。

更衣室の隣にはシャワー室があり、ひどく汗を掻いた日はそこで汗を流したり、ガス代と水道代の節約のために風呂代わりに使うこともあるが、今日はそんなに汗を掻いていなかったので、高原はシャワーをパスして自分のロッカーを開けた。

作業着を脱ぎ、私服に着替える。グリーンのポロシャツにジーンズ、そして足元はスニーカー。お世辞にもお洒落とはいえない服装だが、どうせ車で会社とアパートを往復するだけだから別に不都合はないのだった。

高原はあっという間に着替えを済ますと更衣室を出てタイムカードを押し、「お疲れさまでした」と誰にともなく言って事務所を辞した。外に出ると、いつしかどっぷりと日が暮れて、空には星が瞬きだしていた。風が涼しい。空の低い部分にはまだ夕焼けの名残の色が滲んでいるが、もう夜の雰囲気だった。駐車場にずらりと並ぶトラックの銀色の荷台が、駐車場を照らす白い照明を受けて青く光っている。

トラックのスペースを抜けて自分の車まで歩く。古い黒のシビックだ。もうそろそろ走行距離は10万キロに近いが、いたって調子がいい。高原はロックを解除し、運転席に乗り込んだ。エンジンを始動させ暖気運転をしながら、煙草に火をつける。

高原は一日の勤務を終えて車のシートに身を沈めるこの瞬間が好きだった。妙にほっとするのだ。疲れがあまりに酷いとハンドルを握ることさえ面倒臭いが、今日くらいであれば悪くない。

滅多に人が座ることなどないが、助手席は綺麗なものだ。しかし、狭いリアシートは散らかっている。CDのケースや読み終えた雑誌、ナビを付けたためにまず使うことがなくなったまま放置してあるボロボロのロードマップ、更にはゲームセンターで取ったぬいぐるみが数種類、投げ捨てたまま適当に転がっている。

じきにエンジンが温まって水温計が上昇し、高原はゆっくりとシビックを駐車場から出した。国道の流れに合流する時、帰ってきた同僚のトラックと擦れ違い、互いに軽くホーンを鳴らし合う。

事務所から自宅アパートまでは約二十分の短いドライブだ。慣れた道だから、快適に走る。途中、高原は弁当屋に立ち寄り、鳥南蛮弁当を買った。今夜の彼の夕食はその弁当と、買い置きしてある『具多』だ。

弁当の袋を助手席に置いて再び自宅に向かって車を走らせながら、高原はふとジーンズのジッパーを下ろして性器を引っ張りだし、露出してみた。たちまち勃起する。車内は暗いし、そうしていても外からはまずわからない。その不安定な安心感が、狭い車内で高原を妙に大胆にさせた。高原はときどき、帰り道でこういう露出行動に出る。日中ならこんなことは絶対にしないし、出来ない。そんな勇気も度胸もない。外が暗く、誰にも見られないからできるだけだ。

それでも信号待ちで停車し、隣に女性の運転する車が止まると、胸はドキドキとする。もちろん男だった場合は慌ててシャツの裾などで隠すが、女性だと、ついそのままチラチラとわざと見てしまったり、わざと軽くシゴいてみたりしてしまう。そのとき彼は胸の内で、「ねえ見て。この破廉恥なチンポを。すごい変態でしょ」と声に出さずに言う。ひとりで運転をしている女性というのは、たいがい無防備だ。よく見れば、カーステレオから流れてきているらしい歌を小さく口ずさんでいたり、化粧をチェックしていたり、髪をかきあげていたりする。しかしそれでも、おそらくあまりにじっと高原が視線を投げているからか、やがてその気配を感じとって、つと視線を投げてくることがある。そういうとき、高原はさっと視線を外して前方を見てしまう。もちろん性器は露出したままなのだが、結局はまるで意気地がないのだった。

アパートの駐車場に車を止めた高原は、自然に萎えてしまっていた性器をズボンの中に押し込み、ジッパーを上げてから、助手席に置いていた弁当の袋を持って車を降りた。そして建物の脇に設置された鉄製の階段を上がって二階の自室へ向かう。アパートは木造モルタルではないが、平凡な二階建ての建物だ。外壁は淡い緑系統のクリーム色で、『セントラルハイツ』という名称が付けられている。部屋は二階のいちばん奥、 205号だ。隣に誰が、どういう人が住んでいるのかは知らない。

鍵を開けて部屋に入り、狭い三和土で靴を脱ぐといきなり台所があり、廊下はなく、そのまま襖で四畳半と六畳の和室に繋がっている。縦に細長い間取りだ。奥の四畳半と六畳を仕切る襖は取り外してあり、実質的十畳半の居間兼寝室として使っている。トイレと風呂は台所の横に、磨りガラスの嵌ったドアがある。

高原は奥の部屋まで進み、まだ片付けていないコタツの上に弁当の袋を置いた。部屋は乱雑だった。コタツの周囲にはエロ本やSM雑誌や漫画、そしてアダルトDVDのパッケージなどが散らばっている。テレビの前には、プレステとニンテンドーが出しっ放しだ。そのテレビの横のカラーボックスには、ゲームソフトやビデオやDVDが並び、コタツの上には、吸い殻が山になっている灰皿やテレビやビデオのリモコンや握り潰したビールの空き缶や、食べかけのボテトチップスの袋が口に輪ゴムを巻いて放ってある。コタツの後ろにはベッドがあるが、その下には昨夜使ったティッシュが丸めて捨てられてあり、干涸びている。

それは少々汚いが、まあまあ典型的な若い男性の一人暮らしの部屋だった。掃除をしたのは二ヶ月も前のことだし、灰皿の吸い殻を捨てたのは一週間ほど前だ。雑誌類は縛ってゴミに出した記憶すらないし、古新聞こそ購読していないから溜まってはいなかったが、決して小綺麗な部屋とはいえない。あらゆるものの上や部屋の隅には埃が白く積もっている。だから、たとえよほど親しい間柄の人間であっても、この部屋へこの状態のまま迎え入れることには抵抗がある。それくらいの自覚はもちろん高原にもあるが、何より面倒臭く、片付ける気になれない。

高原は台所に戻り、冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを取り出してグラスに注ぎ、次にヤカンで水を沸かした。それから具多の封を切り、湯が沸くカップにスープの素を入れてから注いで蓋をし、ウーロン茶のグラスと一緒に奥の部屋のコタツまで運んだ。そして具多の蓋の上に具の袋を載せて温めながら、弁当をビニール袋から出して、その袋を適当に放り捨ててから、蓋を取って割り箸を割った。弁当はまだ微かに温かく、蓋を取るとチキン南蛮から仄かに湯気が立った。テレビをリモコンで点け、具多の蓋を剥がして麺をほぐして具を入れ、かき混ぜる。ビデオデッキの時計を見ると、時刻は七時十五分。夕食が完成した。

弁当とラーメンを平らげるのに十分くらいしかかからなかった。満腹になると高原は、もうすることがなくなった。まだ七時半で、テレビもろくな番組をやっていなかったが、他にすることもないので、高原は座布団を二つに折って枕にすると、そのままごろりと横になってバラエティ番組を観た。

やがて九時になり、完全に退屈を持て余した高原は、テレビを切ると、財布だけを持って部屋を出た。歩いて五分ほどの場所にコンビニがあり、漫画か雑誌でも買ってこよう、と思ったのだった。

道には人気がない。周囲はマンションやアパートなどが点在する住宅街で、ところどころにまだ狭い畑が残っていたりする。そんな夜道を高原はぶらぶらと歩いていった。真っ暗ではないが、街灯は乏しい。そして春の宵、時折頬を撫でていく風は涼しいが温くもあった。

コンビニの前まで行くと、駐車場に派手な女の子がふたり、地面に座っていた。ブーツの脚を投げ出し、煙草を吸っている。髪は金色で肌は浅黒く、アイシャドウは水色で唇は白っぽい。ふたりともデブではないが、痩せてもいない。肉付きの良い体だった。原色のセーターや短いスカートが、ことさらそのラインを強調している。胸の膨らみは柔らかそうだし、太腿の張りと行ったら涎が出そうだった。高原は俯き加減で彼女達に近づきながら、探るように視線を控えめに送った。歳の頃は十五か十六といったところだろうか。いずれにしろ化粧は濃いが、その下の顔立ちには幼さが残っている。高原は歩きながら、一度でいいからこういう女の子達のリアルな足の臭いを嗅いでみたいものだ、と思う。そして、できれば下着の匂いも嗅ぎたい。そんなことを考えながら高原は彼女達の前を通過した。新陳代謝の活発な年頃だから、あんなブーツを履いていれば足はすぐに蒸れるだろうし、股間だって同じ下着を一日履き続けていれば、この時間なら相当な香りが期待できるだろう。今日は日中暖かかったし、きっとあらゆる部分がムレムレに違いない。高原は、ああ彼女達の前で全裸になって嘲笑われながら足や股間の臭いを思いっきり吸い込みたい、と身悶えた。すると、そう考えるのとほぼ同時に高原のペニスは勃起した。

コンビニの自動ドアが開き、中に入ると、「いらっしゃいませ」という女の子の声がレジから聞こえた。見ると、なかなかかわいい店員だった。表のギャルとはタイプが違うが、それでも地味な印象はなかった。意外に気の強そうな目をしていて、ぱっと見た感じ、グラビアアイドルのイワサマユコに似ていた。ただしトレーナーの下の胸はそれほど大きく目立つ事は無かった。

高原は彼女の姿を認めた瞬間、雑誌や漫画はやめて何かエッチな本を買おうと思った。何冊かまとめてレジで差し出したら、どういう反応を示すだろう、と考えたのだった。それはチープだがゾクっとする誘惑だった。「何こいつ、こんな本買って。変態?」という感じでチラっと見られでもしたら、興奮するに違いない。そう思った。

コンビニの店内は閑散としている。床はピカピカに磨き抜かれ、蛍光灯の明かりは恥ずかしさを覚えるくらい白い。高原は雑誌の棚へ直行し、アダルトのコーナーの前に立った。しかし所詮はコンビニだから、それほど過激な本は置かれていない。それでも高原は次々にいろいろな本に手を伸ばし、品定めをした。但し紐やテープで封がしてあるので、中身までは確認できない。それでも、なるべくならレジの彼女により変態だと思われたかったので、ありきたりな風俗情報誌や官能系の劇画やアダルトビデオの女優が載っているような雑誌を買うつもりはなかった。しかし、コンビニにハードな雑誌など売られていない。だから高原は考えた末、ローティーンの女の子がたくさん掲載されている雑誌を買う事にした。やはり、コンビニの限られた選択肢の中では、小中学生がセーラー服やブルマや水着で載っているようなロリコン向け雑誌が、もっとも変態に見えるだろう、と思ったのだ。高原は二冊ほどそういう系統の雑誌を棚から取ると、レジへ持っていった。

「いらっしゃいませ」

イワサマユコが言った。高原は持っていた雑誌を、表紙を上に向けて、わざとモジモジとカウンターに置いた。内心、ドキドキしていて、ちらりとイワサマユコを上目で覗き見た。しかしイワサマユコは涼しげな顔で、パンやジュースを精算するみたいにピッピッとバーコードを読み取り、二冊の雑誌を袋に入れながら「1580円になります」ときわめて普通の口調でビジネスライクに言った。しかし、高原を見ようとはしなかった。態度には出さないが、心の底ではこんな雑誌を買っていく大人を軽蔑しているのかもしれなかった。

高原はそう思うと、暗い満足感に満たされ、ゆっくりと代金を支払った。イワサマユコは代金を確認すると、「ありがとうございました」と、やはり普通の口調で言った。

悠然とレジの前を離れて、高原はコンビニを出た。表には、まだ先ほどのふたり組が座っていた。そこで少々図に乗った高原は、わざと彼女達に買い物の中身が見えるように袋を持ち、ふたりの前を通ることにした。コンビニの袋は半透明だから、雑誌の表紙などは透けて見える。それを見た時の彼女達の反応に期待したのだった。

しかし、とくに何の反応もなかった。目の前を横切った袋にちらりと視線は走らせたようだったが、中身まではしっかりと認識できなかったのかもしれない。心のどこかで高原は、通り過ぎた背後で「何いまの奴、キモ」などと陰口を叩かれることを期待していたのだが、残念ながらその願望が果たされることはなかった。

高原は若干がっかりしながら自宅へ向かって歩いた。

次の角を曲がればあと百メートル足らずでアパートということろまで来たとき、高原は不意に背後から声を掛けられた。

「ねえ、ちょっとオッサン」

女の子の声だった。高原はまだ自分がオッサンと呼ばれる歳ではないと思っていたし、もしかしたら別の人間が近くにいて自分が声を掛けられたのではないのかもしれなかったが、一応足を止めて振り返ってみた。すると、先ほどコンビニの前にいたふたりの女の子がそこに立っていた。ブーツを履いているためか、ふたりとも想像していたより背が高かった。高原よりも目線の位置が十センチは高い。

「おれ? 何?」

高原は、ついてきたのか? と訝しみながらも、普通にこたえた。辺りには誰もいない。明かりの乏しい街路だった。女の子のひとりが人差し指を立てて微笑を浮かべながら思わせぶりな様子で「ちょっとこっちへ来て」と暗い路地の方を示した。そこはマンションとマンションの谷間の、幅が二メートルほどの狭い路地だった。

何だろう? と高原は思ったが、先に彼女達が路地に入っていったので、つられるように続いた。助平心がなかったといったら嘘になる。高原の生活の中で、このような若い女子と接触する機会など、通常では全く考えられないことだからだ。手持ちの金は少ないが、もしかしたら援助交際を持ちかけられるのかもしれない。だったら、交渉次第だが、応えても良い気がしていた。いや、寧ろ積極的にお願いしたいくらいだった。むろん倫理的にも法律的にもしてはいけない行為だし、発覚すれば捕まる可能性はあったが、世の中にはうまいことやっている連中が山ほどいるはずだ。しかし、もしかしたらこの頃流行の『オヤジ狩り』かもしれない、という不安はあった。それでも、高原には余裕があった。相手が相当大人数だったり、男が混じっていれば危険だが、所詮は女の子二人だ。派手だが、それほど悪そうにも見えない。だいたい狩るつもりなら不意を突くとか、方法は別にあるだろう。

そんなことを考えながら彼女達を追って路地の奥へ進んだ。しかも、知らないうちに、勝手な期待に性器が勃起し始めていた。やがてふたりは足を止め、高原も立ち止まった。路地には殆ど光りが届いていない。両側の建物も側面だからか、窓はほとんど見当たらない。

ひとりの女の子が路地を塞ぐように高原の背後に回って立ち、向かい合ったひとりが高原に向かってニヤニヤと笑った。黒いブーツ、剥き出しの生足、鮮やかなブルーのミニスカート、黄色いセーター、浅黒い顔はふっくらとして、見れば見るほど幼い。背後の女の子は、ベージュのブーツにピンクのホットパンツ、そして白いパーカーを着ている。

高原はいいチャンスだと思って、わざと股間の膨らみを隠そうとはしなかった。路地に立ち込める女の子達の香水の匂いが高原の理性を麻痺させていた。この状況は、マゾ向け小説やビデオなどてよく用いられる、ギャルにM男が虐められる場面にありがちな設定と同じだった。まさか現実にこのような体験が我が身に訪れるとは思ってもいなかったので、高原はドキドキしながらも怖ず怖ずと切り出した。

「あのう……」

高原は、年下の女の子ふたりと狭い空間で対峙していることに興奮を覚えながら言った。ふたりとも近くに立っているので、威圧感のようなものがひしひしと感じられ、そのことで高原の勃起はますます固くなり、ジーンズの前面を張りつめさせた。高原はビデオなどでよく起きるように、女の子達が笑いながら「何おっ勃ててんだよ、おまえ」と軽蔑してくれることを期待していた。そしてその後は援助でも、それが叶わないなら下着や靴下を買い取ってもいいと思っていた。

しかし、この後の展開は、高原の期待を大きく裏切るものだった。

「痛い思いをしたくなかったら、おとなしくカネ出しな」

向かい合って立つ女の子がフっと笑みを消して睨むように高原を見ながら言った。一瞬、高原はわけがわからなかった。それでも、次の瞬間にはぞっとした。そう言う彼女の手には、果物ナイフが握られ、それが向けられていたのだ。びっくりして振り返ると、もうひとりの女の子が、人をバカにしたような笑顔で道を塞いでいた。その彼女の手には、いつのまにか長く伸ばされた特殊警棒が握られている。それらを認めて高原は一気に気持ちが冷えていった。ペニスは萎え、どうしたらこの状況を切り抜けられるか、脳をフル回転させた。そうそう美味しい話などあるはずがないよな、と高原は一瞬にして悟っていた。これはどうやら正真正銘のオヤジ狩りのようだった。

それがわかると、高原は俄然腹が立った。自分の中のマゾの部分は捨て、どうして大人のオレがこんな小娘達にカツアゲされなければならないのか、大人を舐めるな、そう思った。

しかし彼女達の目は奇妙な具合に澄み切っていて、尖った氷に似た凍えるような鋭い光を湛えていた。先ほどまでの幼さは表情から消えていて、それはいっぱしのチンピラのような目だった。さすがに高原は怒りに燃えつつも身の危険を感じてじりじりと後ずさった。が、すぐに背後の女の子に押し戻されてしまい、そのまま壁に追い詰められた。ナイフをチラつかせている黄色いセーターの女の子が、その刃先を突きつけながら「声を出したら刺すぞ」と眉間に皺を寄せて高原を下から睨み上げた。高原は反射的にジーンズの尻ポケットに突っ込んである財布を触った。中には確かまだ二万ほど入っているはずだった。それでも、いくら脅されても、こんな女の子達にみすみすその二万円を渡すつもりはなかった。二万円といえば大金だ。ヘルスやSMクラブに一回行ける金額だ。それを十五、六の女の子にむざむざ取られるなんて、なんとも不条理な話だし、ナイフや警棒は危険だが腹立たしくもあった。だから、高原はつとめて冷静に言った。

「金なんか持ってないよ」

すると、いきなり何の前触れもなく背中を特殊警棒で殴られた。一瞬息が詰まってコンビニの袋が手から離れ、高原はそのまま思わず地面に膝をついた。

「グダグダ言ってねえで、さっさとカネ出せよ。こっちは冗談でやってんじゃねえんだよ。子供だと思って舐めてるなら、痛い目に遭うぞオヤジ」

蹲った高原の髪を無造作に掴み、特殊警棒で殴りつけた女の子が言った。黄色いセーターの女の子が更に、その高原の背中を蹴って言う。

「大声を出したり、抵抗しやがるなら、マジで刺すぞ」

髪を掴まれ引っ張られている高原の首筋にナイフの刃先を宛てがいながら、ぞっとするような目で黄色いセーターの女の子が睨む。白いパーカーの女の子が髪を離し、高原の肩をベージュのブーツで背後から力任せに蹴り飛ばした。高原はそのまま前方へつんのめり、這い蹲った。その伏せ気味の視線の先に、ナイフを持つ少女の黒いブーツの爪先が見える。と、次の瞬間、そのブーツが視界から消え、一秒後、脳天に踵が叩き込まれた。

「ぐえっ」

高原は呻いて頭を抱えた。その背中にすかさず白いパーカーの女の子が馬乗りになり、髪を両手で鷲掴みにして広げるように引っ張った。そして少女は腰の辺りまで尻の位置を後退させて、そのまま高原の上体を後ろへ力任せに反らせた。エビ反りになって高原は苦しさに悶えた。息が出来ない。そんな高原の前に、黄色いセーターの少女がしゃがんだ。その無防備なスカートの奥に、白地に赤い水玉の下着が見えた。しかしその視線に当人がすぐに気づき、彼女はその高原の無遠慮な視線に激怒した。

「ふざけんなよ、てめえ」

彼女は続けざまに高原の頬を手のひらでビンタし、ナイフを高原の眼球のすぐ先に突きつけた。高原はその刃先の煌めきに恐怖を覚えて硬直した。そしてその刃先が遠のくと、今度は白いパーカーの少女に無理矢理立たされ、壁に背中を押し付けられた。少女はそうして高原を動けなくさせると、いきなり鳩尾に膝を叩き込んだ。思わず高原が体を折ると、その顎を黄色いセーターの女の子の爪先が抉った。綺麗に弧を描いて脚が蹴り上げられるのを、高原はスローモーションで見た気がした。そして蹴られた瞬間、視界に白い閃光が瞬いた。

数メートル先に街灯が灯る通りがあるが、誰ひとり通りかからなかった。高原はその場に蹲った。こんな少女達に叩きのめされるなんて大人として屈辱の極みだったが、もう立ってはいられなかった。しかし、彼女達の攻撃は一向に止まなかった。何度となくブーツの爪先や踵が顔、胸元、腹、背中、とランダムにヒットし、その力はかなりのものだった。高原はもう恥も外聞もなく両手を地面につき「もうやめてください。すみません。許してください。勘弁してください」と何度も懇願した。しかし攻撃は止まらない。時には拳を握りしめたパンチも飛んできて頬や顎や腹にめりこんだ。高原はもう無抵抗だった。最初の特殊警棒の一撃が相当効いていた。はじめのうちこそ敵愾心はあったが、そのちに完全に戦意を喪失してしまった。何より不意を衝かれたし、まさかここまで相手が本気だったとは認識の誤算もあった。

やがて口の中が切れて錆びた鉄の味がした。たぶん体中が痣だらけだろう。体どころか、顔も酷いものだろう。おそらく歪に腫れてしまっているはずだ。黒いブーツの爪先が、まるでトドメを刺すように鋭く高原の脇腹に突き刺さった。高原は為す術もなくそのまま路面に突っ伏し、倒れ込んだ。その頭を、ふたりがぐりぐりと踏んでいる。

視界が霞んでいる。焦点がうまく合わない。いつまにか尻ポケットから財布が抜かれている。僅かに体を持ち上げて見ると、白いパーカーの女の子が財布から紙幣だけを抜き出していて、それが終わると、軽くなったその財布を路面で伸びている高原の顔の横に投げ捨てた。

「しけてんな、二万かよ」

「まあいいじゃん、さっさと行こ。もうこんな奴、用ねえし」

「だね」

ふたりはきゃっきゃっとふざけ合いながら高原をその場に残して路地からでいった。高原は這い蹲ったまま遠ざかるふたりの足音を聞いていた。彼女達が立ち去ると、路地は静寂に包まれた。頬に触れるアスファルトはザラザラとしていて、冷たかった。霞んだ視界の隅に捨てられた財布がある。

全身が痛い。少しでも体を動かすと、骨が軋むようだった。高原は顔を顰めて痛みに耐えながら、しばらくは動くことを諦めた。

生温い春の夜風が路地を吹き抜けていく。アスファルトの冷気が、高原から徐々に温もりを奪っていく。手のひらに食い込んだ小石の感触が、現実の厳しさを高原に教えていた。高原は冷たい路上で、今日一日翻弄され続けた様々な妄想の場面の数々を思い出していた。朝、国道沿いで見かけた女子高生の集団、自転車に乗っていた女性、ショッピングセンターの休憩室で談笑していた三人の女性、そのうちのひとりが言った台詞と、トイレへと向かうその女性の後ろ姿、コンビニのレジにいたイワサマユコに似た店員、そして今のふたり……。嵐のような一日だった、と高原はぼんやりと思った。

しかし、その一日にも終止符が打たれた。それは歪んだ妄想に身を悶えさせ続けた高原にふさわしい、衝撃的な終幕だった。今日一日、確かにいろいろな女性に淫らな欲望を抱いて、楽しませてもらった。たぶん、その不埒な妄想を楽しんだ代償が、取られた二万円だったのだ。あのふたり組の少女達は、いわばその徴収人だったの。最後に現れて、きちんと辻褄を合わせ、きっちりと徴収していった。だから、ギブ・アンド・テイクが基本のこの世の中で、それは至極当然の事なのかもしれなかった。

高原は手のひらをついた腕に力を込めて、そろそろと体を持ち上げた。そうして、どうにか起き上がることには成功した。高原はそのまま壁に凭れて、少しずつ体の各部位を動かしてみる。痛い。しかし、幸いどこも骨は折れていないようだった。唾を傍らに吐き捨てた。それには多少の血が混じっていたが、口の中が切れているだけで歯は大丈夫のようだった。グラついてもいないし、折れたり、欠けたり、抜けたりもしていない。高原は口の周囲を撫で回してそれを確認した。

少し離れた場所に、雑誌のは入っていたコンビニのビニール袋があったが、肝心な中身である雑誌は二冊とも路面に放り出され、彼女達によって踏みにじられたのか、それは見るも無惨な状態だった。とてもではないが鑑賞にはもう耐えられそうになかった。本来なら拾い上げて持ち帰らなければならないだろうが、そんな気分にはなれなかった。ここに捨て置いていこう、と高原は思った。

途轍もなく惨めだった。泣きたい気分だった。十五か十六の、もしかしたらもっと下かもしれない、世の中のことなど何もわかっていないような、ただ調子に乗っているだけの子供に、いいように完膚なきまで叩きのめされた自分が情けなかった。それでも高原は涙を流す代わりに、きつく唇を噛み締めてその孤独に耐えた。そうすることが、恥知らずだった今日という一日に対しての、彼なりの贖罪のつもりだったのだ。

高原は体を折って地面に手を伸ばし、財布を拾い上げると、それを尻ポケットにしまった。そしてたいした意味もなく尻や膝を叩き、どうしようもない寂寥感に襲われて逃れるように空を見上げると、ビルとビルの間の狭い空の高みに、雲が切れて白い真円の月が現れた。満月かどうか正確には知らなかったが、限りなくそれは円い。

淡く澄んだ月光が路地に差している。その透き通った青白い光が、打ちのめされた高原の姿を無常に照らした。

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