Kill You

女流AV監督のチアキは、二十五歳になった誕生日の夜、友人達が開いてくれたパーティーから一人暮らしの部屋に帰ってシャワーを浴びた後、月光が差し込む窓辺でワインを飲みながら、「一タイトルだけ、百パーセント自分が思うとおりの作品を撮ろう」と思った。この間からずっと、ビデ倫も視聴者も出荷本数もコストも何も気にせずに、本当に自分が撮りたいものを撮ってみたい、と考えていた。

企画はもう既に自分の中で固まっていた。ジャンルはSMだ。それも、女性がSで男性がMというものだ。しかもその男女は、SMクラブなどにおける予定調和的な主従関係ではなく、ありふれた日常の中で突発的、偶然的に生まれたような、そういう関係であることが理想だった。これまでもチアキは、どちらかといえばかなりハードな路線の作品を撮ってきたのだが、それらはあくまでも男女の性的な絡みに重点を置いたものだった。しかし今、彼女の中にある構想は違う。そういう要素は全て排除してあった。つまり、作品の中でセクシャルなことは何も起こらないというわけだ。ただし、絡みはなくても、ある種の人々には激しい性的な衝動を喚起させられるはずで、この試みが成功すれば、一切絡みはないのに、それでいて男女の葛藤がジリジリと伝わってくるような、これまでにないタイプの作品が生まれるはずだった。

チアキは一週間かけてプロットを考えて組み立て、脚本を書いた。そしてキャスティングする際、主役の女王様役には、友人で、実際にSMクラブに勤めているプロの女王様のハルナ、そしてさらに準主役的なもうひとりのS女性役に、ハルナの後輩であり、女子高生でありながらミストレスバーに入り浸っているヨウコを想定した。

構想が完成すると、すぐに彼女達に連絡を入れ、作品の意図と役柄を説明し、出演を依頼した。ただし、商業作品ではなくあくまでも趣味の作品なので、ギャラは発生しない、ときちんとその旨は伝えた。それでも、彼女達はふたつ返事で出演を快諾してくれた。「面白そう」というのが彼女達共通の感想だった。

ハルナは身長175センチで体重58キロ、ヨウコは身長が167センチで体重が55キロ、とふたりとも女性のわりには大柄で、見るからに女王様然としている。そして、相手役のM男は、これから街で探すつもりだった。できれば、歳は四十代後半以上で、しょぼくれた感じのみすぼらしいサラリーマンが理想で、もちろんマゾであることが大前提だった。ノーマルの男では、SMが単なる暴力になってしまう危惧がある。

一歩街へ出れば、そんな感じの男はいくらでもいたが、マゾかそうでないかはなかなか判別ができなかった。だからチアキは、ある日、ハルナとヨウコを誘い、彼女達の直感に頼って探してみることにした。

その日、三人はランチを一緒にとり、それから街に出た。季節は秋で、ビルの間には涼しい風が吹いていて、心地の良い日だった。街路樹の緑は鮮やかに映え、ビルの窓ガラスがキラキラと陽を撥ねていた。

しかし、なかなか思い描くとおりの男は見つからなかった。やがてハルナが諦めたように、「やっぱり昼間はちょっとねえ」と言った。いくらみすぼらしい男でも、昼間の光の下では、さすがに妙なオーラはあまり出ていないらしい。チアキは、そう言われてもあまりよくわからなかったが、べつに今日このまま撮影をするわけではないのだし、そんなに焦る必要もないので、「じゃあ、夜になってから本腰を入れて探してみようか」と提案し、公園の木陰のベンチに座った。

そこで改めて脚本を広げ、三人で手を入れた。それぞれに意見を述べ、ここはこうしたほうがいい、とか、ああでもない、こうでもない、と二時間ばかりそこで過ごし、陽が翳り始めてようやく腰を上げた。

三人は繁華街へ移動し、ファストフードで軽く腹ごしらえをし、カフェで時間を潰して、夜が充分に更けてから街角に立った。

夜の帳が降りた繁華街は、混沌としている。あちらこちらに男たちの欲望を煽るネオンサインが氾濫している。バーやスナックやキャバクラ、ヘルスやイメクラや覗き部屋、そんなものばかりだ。それらの多くは「女」と直結している。これでは、この場所を歩く男の頭の中は、たちまち女の体のことで一杯になってしまうのではないか。大袈裟ではなく、チアキは本当にそう思った。普通の人でも、この通りに足を踏み入れれば、歩いていくうちにやがてはおかしな気分になってしまうに違いない。

チアキは通りを行き交う人々をぼんやりと眺めた。それにしても、金髪にピアスをしているような若い男の子達はとても元気がいいように見えるが、鼠色や紺色の背広を着てメタルフレームの眼鏡を掛けているような中年以上のサラリーマンときたら、職場や家ではそれなりの地位を保っているのかもしれないが、見るも無残なくらいに覇気がないというか華がない。そういった連中の中で、唯一気を吐いているのが、酔っ払いだ。かなり威勢がいい。しかし、それもまた情けない姿であることには違いなかった。

「ああ、なんかマジでウザったい」

ヨウコが眉を顰めて言う。チアキも同じ気持だ。ハルナがうんざりしたように溜め息を洩らしながら言う。

「でもさ、こういうどうしようもないような奴が、会社へ行くと偉そうにしていたりするんだよ」

嫌悪感のようなものを口調の端に滲ませながらそう言うハルナに、チアキが軽く笑いながら応える。

「で、そういう奴らをアンタ達がイジメているんでしょ」

すると、ヨウコが笑った。

「まあね。だけど、そういう奴ってほんとバカだなあって思う」

「とにかくね、病んでいるのよ」

ハルナは短くそう結論づけて、煙草に火をつけた。青い煙が、夜の雑踏に漂う。チアキも煙草を吸いながら、ふたりに訊いた。

「で、どう? それらしい奴っている?」

「うーん、どうかなあ。なんか、こうして見ていると、どいつもこいつもマゾのような気がしてくるのよねえ」

細く煙を吐き出しながらハルナが言った。その隣では、ヨウコがいつのまにか地面に座り込んでクチャクチャとガムを噛んでいた。そしてしゃがんだまま、チアキを見上げる。

「っていうか、適当に拉致ってヤッちゃうとか? 意外に面白い物が撮れるかも」

そう言って笑うヨウコを、チアキは窘める。

「それでは犯罪になっちゃうじゃない。それに、もしもそいつがマゾじゃなかったら、どうするのよ。ノーマルな奴だったら、そんな奴を責めても全然面白くもなんともなくなっちゃうわよ」

「そっかあ。それはそうだね」

ヨウコは半ば足を開いて座っているので、短いスカートの奥に下着が見えそうだった。通行人の中には、好色そうな目で露骨にジロジロと見ていく男もいる。ヨウコはそんな連中をあからさまに軽蔑した目で睨んでは、バーカと舌を出していた。

ハルナが、短くなった煙草を足元に落として高いハイヒールの踵で踏み消した。黒いパンツスーツで往来に立つハルナの姿は、その長身のせいもあって、よく目立つ。その傍らに座るヨウコのいでたちは、典型的なギャル系のファッションだ。原色のサマーニットに短いスカートを履いて、足元は編み上げのブーツ。そしてチアキは、迷彩柄のジャケットにジーンズだった。

三人が立っている場所から、地下にあるテレクラの出入口が見渡せた。ヨウコが言うには、テレクラに来るようなオヤジの中には、だいぶマゾが混じっている、とのことだった。援助交際などを申し込んでくる男には意外にマゾが多いらしく、ヨウコも実際に中学生時代に何回かそういう援交をしたことがある、と言った。

「そうだ。ちょっとあのテレクラに電話してみてさ、それで探したら?」

唐突にヨウコが提案した。

「で、ダメだったら、出会い系サイトとか。やっぱ、出会い系の方が楽だよ」

「それはいい考えね。このままじゃ埒が明かないモンね」

鞄から携帯電話を取り出しながらチアキが言った。ケバケバしい原色の電飾看板に、そのテレクラの電話番号が光っていた。チアキはそれを見ながらダイヤルボタンを押し、端末をヨウコに差し出した。

「こういうのはヨウコちゃんのほうがいいと思うわ」

「そうだね。十代の女の子のほうが、エロオヤジも引っ掛かりやすいかも」

端末を受け取ってヨウコが頷き、片耳を手で塞いで街の騒音を遮った。すぐに相手が出たらしい。もしもし、とヨウコが受話器に屈みこんで問いかける。

原田浩介はテレクラの狭いボックスでアダルトビデオを観ながら、なかなか電話を取れないでいた。だらしなくネクタイを緩めて安物のソファに座っている浩介は48歳のサラリーマンで、大学を出てすぐに今の会社に入り、これまでずっと経理畑一筋できた。それがこの頃になって、どうやら自分がリストラ要員であるらしい、とわかった。毎日毎日満員電車に揺られて家と会社の往復に身をすり減らしてきた結果がリストラ要員とは、なんとも情けない話だった。そんなムシャクシャした気持ちが潜在的にいつもあって、浩介は今夜初めてテレクラなる場所に足を踏み入れたのだった。

家には大学四年の息子と、高校二年の娘がいる。妻は二歳年下で専業主婦だ。もしもこの先、本当に会社をクビになったりしたらどうやって暮らしていけばいいのか、まるでわからなかった。今の時代、そうそう簡単に再就職先が見つかるとも思えない。

この個室に入って、まもなく二時間になろうとしているが、それなのにこれまでに取れた電話は三本だけだった。この店は早取りと呼ばれるシステムのため、慣れない浩介には、電話を取ること自体がなかなか至難の業だった。呼び出し音が鳴って受話器に手を伸ばしたときには、もう誰かに電話を取られてしまっている。だから、もう半ば諦めていた。なんとか繋がった三本の電話も全て冷やかしだったし、俺には無理だ、という気分だった。けれども、延々とテレビでAVを見せられ、なまじか冷やかしとはいえ中途半端に期待させる若い女の声を聞いてしまったがために、浩介の頭の中はエッチなことで一杯になってしまっていた。もうこのままでは収まりが効かない。もしも誰にも会えなかったら、風俗へ行こうという気にすらなっていた。なんとしても女の肌に触れたい、そんな悶々とした気分だった。しかし、妻ではダメだった。相手は若い女でなければ、この気持ちは満たされない。

とはいうものの、浩介は最近、自分の性癖が少しおかしな方向へ向かいつつあることに気づき始めていた。以前であれば、ファッションヘルスやソープランドなどへ同僚とたまに出かけて、そこで若い女にサービスされ、抱くことに喜びを覚えたものだが、この頃はどうも勝手が違う。そういうことに、あまり興奮しないのだ。会社のOLたちを見ても、制服姿の尻や、そこから伸びる長い脚に、跪いて頬擦りしたい欲求に駆られてしまう。そして、尻や脚をただひたすら撫で続ける自分を蔑まれたいというか、彼女達から憐れむような目で見下ろされたい、とさえ思い始めている。それはたぶん「マゾ」と呼ばれる種類の性癖の一種だろうという自覚はある。それでも、だからといって本格的に傾倒し、SMクラブなどへ行く勇気は、残念ながらまだ無い。しかし、その欲求は日々強まるばかりだった。最近では、隠さなければと身構えるあまり、余計に頭の中で妄想ばかりが膨らみ、ますます仕事が手につかなくなってきている。これは、状況として、あまり好ましくない。しかし、どうしようもないのだ。こんな嗜好を誰かに知られたら軽蔑されるに決まっているので、絶対に隠し通さなければならないのだが、そう思えば思うほど、身近な若い女たち、つまり社のOL達をついついそういう目で見てしまいがちになる。このままでは、ともすると通常の業務にも支障をきたしかねない。

そんなことをぼんやりと考えていると、不意に目の前の電話の赤いランプが点灯し、続いてブザーが鳴りだした。浩介はすぐに我に返り、弾かれたように背凭れから身を起こすと、反射的に受話器に手を伸ばした。そして、期待しつつ受話器をそっと耳に当てる。すると、果たしてラインは繋がっていた。浩介は、勢い込んで喋りかける。

「もしもし?」

胸が高鳴る。一時間ぶりくらいの通話だ。

——あっ、もしもし。

聞こえてきたのは、若い女性と思われる溌剌とした声だった。

「どうも」

意味もなく緊張しながら浩介は言った。すると、相手が訊いてくる。

——今晩は。えっと、おいくつの方ですか?

「48なんだけど」

浩介は正直に申告した。もしかしたら即座に切られるかと覚悟したが、意外にもその想像に反して電話の向こうの声は更に弾んだ。

——よかった。わたし17なんだけど、良かったらこれから会ってくれません?

「こんなオジサンでいいの?」

——オジサンだなんて、まだ若いじゃないですかあ。っていうか、17の小娘じゃ嫌ですかあ?

「ううん。そんなことないよ。ただ、いいのかなあと思って」

——わたしは全然OKですよー。

「それならいいけど……というか、会うという事は、援助?」

——違いますよ。そうじゃなくて、なんていうかなあ、お金は要らないんだけど、ちょっと条件があるの。

「条件?」

浩介は訝しい気持ちで訊ねた。すると、女の子は続けて言った。

「条件っていうか、実はわたし、バリバリのSなんだけど、そういう遊びに付き合ってくれるオジサンを探しているんですよ。わたし、お父さんみたいなオジサンを虐めてみたくて」

女の子は笑いながらそう言った。浩介は、この女の子の要望がそのまま自分の求める展開と一致していたので、そのことに軽く驚いた。信じられない気持ちがした。俄かに心が浮き立ってくる。

「ということは、SMみたいなことをするの?」

——うん。まあね。ダメ? 気持ちよく虐めてあげるよ?

とても17歳の女の子の台詞とは思えなかったが現実にラインは繋がっていて、幻聴かと思って腿の辺りを抓ってみたが、痛かった。だから、この会話、この展開は紛れもなく現実だった。浩介はこの幸運に感謝し、意を決して応えた。

「いいよ。じゃあ、これからどこかで会おうか。ところで君、名前は何っていうの? もちろん本名じゃなくてもいいけど、呼ぶのに名前があったほうが便利だからさ」

そう言うと、いきなり女の子はガラリと声の調子を変えて、強い口調で言った。

——オジサン、わたしはSだって言ったでしょ? Sっていうのは女王様なのよ。だったら、敬語を使わなくちゃダメでしょ。っていうか、おまえ馬鹿? ほら、ちゃんと言い直しなさいよ。それに、名前が知りたいなら、まずそっちが先に名乗るのが礼儀ってものじゃないかしら?

思いがけず強くそのように咎められて、浩介はドギマギしながら慌てて言い直した。

「すみません。僕は原田というんですが、あのう、お名前は何と仰るんですか?」

オドオドしながら浩介は訊いた。すると女の子は電話の向こうでケラケラと笑い、そして名乗った。

——わたしはヨウコよ。これからわたしのことはヨウコ様と呼びなさい。わかった?

「わかりました、ヨウコ様」

そうして三十分後に駅前のモニュメントの前で会う約束を交わし、女の子のほうから見つけて声を掛けるというので、その際の目印を相談して決め、最後に自分の服装を簡単に説明して浩介は電話を切った。ゆっくりと受話器をフックに戻したが、いつの間にか小さく手が震えていて、その震えはしばらく止まらなかった。考えてみれば、いま会話をした女の子は娘と同い年だった。そんな子供に「おまえ」と呼ばれ、「馬鹿か」と嘲笑され、「ヨウコ様」と様付けで呼んでしまった。それは、普通だったら腹立たしいことだろうが、なぜかそのこと自体に浩介は昂ってしまっていた。こういう状況こそ、自分がここ最近ずっと夢想していたものなのだ、と思った。この後、どんなことが起きるのか、それはわからなかった。しかし、期待に胸は早くも激しく高鳴っていた。

浩介は逸る気持ちを抑え切れないまま、脱ぎ捨ててあった上着を掴み、袖を通すと、慌しくテレクラの狭い個室を飛び出した。

電話を切ったヨウコは端末をチアキに返しながら、「ね、言ったとおりでしょ? オヤジなんてこんなもんよ」と得意げに胸を張って見せた。チアキは携帯電話をバッグにしまいながら、さすがねえ、とヨウコの手腕を素直に称えた。

「でも、今日このまま撮影するわけじゃないんでしょ? これからとりあえず会って、その後どうすればいいの? すぐバイバイって感じ?」

「そうねえ、どんな奴かとりあえず確認だけして、いけそうだったら明日撮ろうか。ふたりとも予定は?」

チアキが訊くと、大丈夫よ、とハルナとヨウコは頷いた。

「じゃあさ、今日のところは、ヨウコちゃんはとにかく相手の男と会って、連絡先を聞いておいて。そうね、あなたたちが会って、十分くらいした頃に携帯を鳴らすわ。そうしたらヨウコちゃんは『ごめん、約束が入っちゃった』とか適当に口実を作ってひとまず別れて。わたしたちはちょっと離れたところから見ているから。あ、それと、撮影するってことはまだ内緒よ。絶対に言っちゃ駄目だからね」

チアキはヨウコに言い、そろそろ行こうか、とふたりを促し、約束の場所へ向かった。

その場所へは指定した時間より十五分は早く到着してしまったが、もう既に、先ほどの電話の相手と思われる男がモニュメントの傍らに立っていた。三人は物陰からその姿を認め、値踏みするように観察した。

「なかなかいい感じじゃない?」

そう言ってハルナがチアキを見る。

「うん。イメージにピッタリかも」

頷きながらチアキが同意すると、ヨウコが「本当にパッとしないオヤジだ」と笑った。チアキは、そんなヨウコの背中を軽く叩いた。

「じゃあヨウコちゃん、頼んだわよ」

「任せといて」

ヨウコは反らした胸を叩いて見せ、駅前広場の群衆に分け入って行った。

原田浩介は腕時計を覗きこんだ。この辺りは待ち合わせのメッカとなっているため、周りに人が多い。浩介はその人込みの中に、それらしい女の子の姿を探した。電話の女の子は浩介を見つける目印として、右手に鞄を、左手にスポーツ新聞を持っていてくれ、と指定した。今くらいの時間だとその辺には浩介と同じような格好の背広姿の中年男などいくらでもいるから、無事に探し出すためにもそうして立っていて欲しい、と言われた。その際、女の子のほうも自分の特徴と服装を説明した。背はブーツを履いているから相当高く見え、服装はオレンジのニットにミニスカートだからたぶんすぐにわかると思う、と言っていた。浩介はそういう女の子を群衆に目を凝らしながら探し続け、その登場を待ちわびていた。心が逸る。もしかしたらすっぽかされるかもしれないという不安はあったが、それを上回る期待感があったし、こんな風に見知らぬ女の子と待ち合わせをするなんて初めてのことだったので、妙に心が浮き立っていた。

少しでも自分を落ち着かせようと、浩介は煙草に火をつけた。そうして平静を装おうとしたのだが、指先が小さく震えていた。かなり緊張していて、心臓がバクバクしている。何度も腕時計を覗いて忙しなく時刻を確かめては、辺りを見回す。

と、群衆の中をこちらへ歩いてくるひとりの女の子の姿が目に入った。周囲の人より頭ひとつ分くらい背が高く、オレンジ色の派手なニットを着ている。きっとあの娘が「ヨウコ」だ、と胸が高鳴った。その瞬間、浩介は緊張が頂点に達して思わず女の子から目をそらし、意味もなく俯いてしまった。吸いかけの煙草を地面に落として踏み消しながら、彼女が近づいてくるのを待つ。

「あのう、原田さんですか?」

女の子の声がして顔を上げると、そこには綺麗な笑顔があった。

「は、はい」

浩介はあまりの緊張でつい吃ってしまった。すかさず女の子が笑いながら少しだけキツい口調でそれを茶化す。

「何吃ってんのよ」

「すいません」

浩介は真っ赤になりながら俯いてしまった。こんな年下の娘にタメ口をきかれて、それなのに反論しない自分を周囲の人たちはどう見るだろう。それを想像すると、たまらなく恥ずかしかった。現に、怪訝そうにこちらを見ているOLらしき二人連れがいた。しかし、浩介はこの期に及んで何を話したらいいのかわかっていなかった。そんな浩介を、女の子はニヤニヤ笑いながら見下ろしていた。浩介はその視線をひしひしと感じ、更に恥ずかしさを覚えた。

「オジサン、もしかしてこういうの、初めて?」

ヨウコにそう訊かれて、浩介は「まあ……」と首を小さく縦に振った。

「でも、さっき電話でも言ったけど、わたし、別にお小遣いが欲しいわけじゃないし、ただ虐めたいだけだから。ところでオジサン、結婚してるんでしょ? 子供はいるの?」

完全に会話の主導権を握られていたが、浩介は訊かれるままに答えた。

「一応、22の息子と17の娘が……」

「へえ、じゃあ下の娘さんはわたしと同い年なんだあ」

そう言ってヨウコは意味深長な笑みを浮かべた。浩介は返す言葉が見つからず、地面に視線を落としていた。そうしていると、不意に周囲の雑音が遠のいていって、他人の存在がほとんど気にならなくなってきた。ただ目の前に派手な17歳の女の子がいて、それだけだった。ヨウコは、慣れた手つきで煙草に火をつけると、その吐き出した煙を浩介の顔に吹きかけた。それでも浩介はされるがままだった。ヨウコが僅かに体を動かす度、甘い香水が浩介の鼻を擽った。

その時、ヨウコの首に下がる携帯電話が鳴り出した。そのメロディが、題名はわからなかったが、浩介を現実に引き戻した。ヨウコはすぐに通話ボタンを押し、携帯を耳に当てた。

「もしもし……うん……うん……そっか、うん、いいよ……じゃ、後で」

短い通話が終わると、ヨウコは浩介を見て、申し訳無さそうに首を竦めた。

「ごめん、オジサン。ちょっと急に用事ができちゃった。だから、今夜は悪いけど無理みたい。でも、できたら明日改めて会いたいんだけど、駄目? いいでしょ? ね、こっちから絶対連絡するから携帯の番号教えてくれない? もちろんわたしも教えるし」

浩介はそんな風に言われて、当然すっかりその気になっていたので落胆が大きかったが、同時になぜか安堵感も覚えた。一気に緊張が解けて、その場にしゃがみこみそうになってしまった。そして、しばし逡巡してしまった。果たして番号を教えてしまっていいのだろうか。ただでさえこの頃は出会い系絡みの事件が多い。しかし、ここで彼女の申し出を拒否してしまえば、こんな奇蹟のような機会などおそらく当分ないだろう。それを思うと教えるしかなかったし、結局のところ助平心が理性を駆逐した。だから、浩介は手帳を取り出すと、気づいた時には白いページに自分の番号を書いていた。そして、そのページを破いて彼女に差し出した。

「ありがと」

ヨウコは嬉しそうに言い、「貸して」と浩介の手帳を手に取ると、そこに自分の携帯の番号を記して返した。

「本当にごめんね。明日の夕方までには絶対に連絡するから、楽しみにしてて」

そう言うと、ヨウコはさっと踵を返し、瞬く間に群衆に紛れていった。浩介は唐突に置き去りにされた気分でその後ろ姿を見送ったが、すぐに見えなくなった。

それからしばらくの間、浩介はまるで気の抜けた痴呆のように脱力しながら、その場に立ち尽くしていた。たった今自分の身に起きた出来事が、簡単には信じられなかった。しかし手許の手帳には確かにヨウコの携帯電話の番号が記されていて、それが現実を浩介に教えていた。浩介は、その番号をじっと見つめた後、上着の内ポケットにしまった。少しだけ虚しさはあった。しかし想いはもう既に、約束を交わした明日の夕刻へと飛躍していた。

チアキはハルナとヨウコと別れて自宅へ戻ると、早速明日の準備に取り掛かった。機材は既に会社から借りてきてあり、撮影場所も、いつも撮影で使うホテルに連絡を入れてリザーブした。後は、ヨウコが先ほどの男をうまく連れ込むだけだ。プレイの段取りは、プロのハルナがいるので問題はないだろう、と思った。難しいのは、カメラの存在を相手に知らせるタイミングだけだ。これは、あまり早すぎても興ざめだし、かといって遅すぎると最も撮りたい部分でもある、常人の人格が崩壊していく過程を逃してしまう危惧があった。だから、このタイミングが最も肝要だった。タイミングを誤ると、作品全体が瓦解して台無しになってしまう。チアキは台本を開き、入念にチェックした。ただし脚本といっても、そこには細々としたセリフや立ち位置などの指定はない。だいたいの流れとプレイの内容が時系列で箇条書きにされているだけだ。絵コンテも一応は用意してあるが、展開が読めないので、使えるかどうか全くわからない。かなり行き当たりばったりの撮影になりそうだった。

風呂に湯を張り、ゆっくりと浸かりながら、チアキは考え続けた。そして結局、カメラはヨウコと男が部屋に入ってくる前に、何かで隠して予めセットしておくことに決めた。男が淫らな期待に胸を高鳴らせながら喜び勇んで入室し、薬でも嗅がせてその気にさせ、狂い出した頃合を見計らってチアキとハルナが姿を現し、その時点で撮影する事を証し、部屋に監禁状態にしながら男の被虐感を煽ることにした。きっとそのほうがリアリティが出るだろうし、男の戸惑いがその後、マゾとしての暗い歓びに変換され、そして墜落していくその際の表情の変化が、たぶんいい絵になりそうな気がした。おそらく、カメラと別の女性二人の出現に、男は混乱するだろう。しかし、薬でその気にさせておけば、結局は全てを受け入れざるを得ないはずだ。そして、そのように男を追い込めば追い込むほど、望む絵が得られそうな気がした。

チアキはカメラのレンズを通して人間が壊れていくその瞬間を捉えたいのだった。

翌日の午後、チアキは愛車であるハイラックスに機材を積んでマンションを出ると、途中でハルナをピックアップし、予約済みのホテルへ向かった。

「なんかワクワクするわ」

大きな鞄に道具と衣装を詰めてきたハルナは黒いサングラスの奥の瞳をキラキラさせながらそう言った。チアキは混雑する道でステアリングを巧みに操って車線変更と追い越しを繰り返しながら、私もよ、と笑った。

ホテルに入ると、ふたりは部屋でスタンバイした。チアキはカメラやライティングをセットし、それらを大きな布でオブジェか何かに見えるよう偽装して隠した。ハルナは各種道具をテーブルに並べて点検した後、ボンデージ・ファッションに着替えた。部屋はSMプレイのためのへやで、大袈裟な椅子や鉄格子の檻があり、壁には十字架を模した磔台、そして天井からは鎖が何本も下がっていた。

午後五時を過ぎて、ふたりはルームサービスでハムと玉子のサンドイッチを取り、それをアップルジュースで食べながら、最終の打ち合わせをした。段取りを確認し、絶対に男には肌を触らせない点を確認した。挑発するだけ挑発はするが、そこで決して触らせないことが重要だった。チアキは、マゾ男が禁断症状に身悶え、煩悩の暴走に苦しみ、しかし絶対に女の体に触れることは許されないという状況に追い込み、そのエッジで悶々としながら狂っていく姿をカメラで捉えたかった。そして、自分が救いようのない変態だということを男自身に気づかせ、しかし救済の手段は差し出さず、そのまま歪んだ精神の淵のどん底へ突き落としたまま放置して撤収する。それがチアキのプランだった。

サンドイッチを食べ終え、ヨウコと男が到着するまでの間、ふたりは雑談をして過ごした。話題はごく自然に、ハルナのSM観となった。

「マゾってね、二種類いるような気がするの。ひとつは、以前からよく言われている、いわゆる社会的地位の高い人、たとえば医者とか弁護士とか社長とか代議士とか、そういう人に多いっていうやつ。でも、最近は必ずしもそうでもないのよね。どちらかというと普段から虐げられているっていうか、うだつのあがらないサラリーマンとか、もてない大学生や予備校生とか、そういう奴がよくクラブに来るのよ。パッとしない自分を女王様に虐めてもらって、さらに踏みつけられることに快感を覚えるみたいな、そういうタイプが本当に多いのよね。そして、そういう人たちって、完全に受け身なのよ。たぶん、その方が、自分からは何もしなくていいし、楽なのかも。ほら、SMって言ったって結局は風俗だから、奴隷といったって最後にはたいてい気持ちよく射精できるわけじゃない? でも、社会的地位の高い人っていうのは、普段何事にもふんぞり返っていて、しかも自信満々でやっていて、だけれど時々そういう自分に疲れるからクラブに来て虐められて、そのことで気持ちの平衡感覚を保とうとしているのが、なんとなくわかるの。でもね、そうじゃない人たちっていうのは、自信のないのを虐めてもらって更に貶められることで、帳消しにしているようなところがあるのよ。まあ、どちらもそのプレイの意味としては『癒し』という面があって、そういう部分では同じだと思うんだけど。だけどさ、今日のチアキさんの狙いっていうのは、簡単に言うと、後者のようなタイプを暗い場所から強い光の下へ引っ張り出すって事でしょ? そういう点では、昨日のあのオヤジなんか、絶対にピッタリだと思う。まさに『うってつけ』という感じ」

六時を回った頃、チアキの携帯電話が一回だけ短く鳴った。それは、もうまもなくホテルに到着するというヨウコからの合図だった。

「さあ、始まるわよ」

ふたりは、はしゃぎながらバスルームに身を隠した。

原田浩介はヨウコに導かれて部屋に入ると、すぐに全裸になるよう命じられた。それも、目の前で服を全部脱ぐよう強要された。ヨウコは、ホテルに入るとたちまちS女のモードに切り替わっていて、その変貌に浩介は既にエレベーターの中から圧倒されていた。だから、いきなりそう命じられても、べつに違和感はまるでなかった。ただ、何せ初めての経験なので、戸惑いはあった。

それでも浩介は命じられたとおり、まずはおずおずと背広の上着を脱ぎ、ネクタイを取ってシャツを脱ぎ、ズボンを下ろした。しかし、やはりそこでいったん躊躇が生まれた。だから、パンツ一枚で逡巡していたのだが、すると「早く脱げ」と椅子に座ったままのヨウコに脚で蹴られ、急かされた。浩介は、意を決して一気にパンツを下ろした。既にペニスは完全に勃起していて、それを見てヨウコが長い脚を組んでその爪先をブラブラさせながらケラケラと笑った。

「何もしないうちからおっ勃ててんじゃねえよ」

「すみません」

浩介は反射的にそう謝ったが、その言葉とは裏腹に気持は激しく昂り、この尋常とはいえない状況そのものに興奮していた。自分は今、娘と同い年の女性の前で、それも相手は服を着ているのに自分だけ裸になって笑われている、そう思うと、さらにペニスの硬度は増した。壁に据えつけられた大きな鏡に恥ずかしい姿の自分が映っている。浩介はそれを認識した瞬間、咄嗟にほとんど無意識のうちに股間を手で被って隠した。すると、間髪入れずにヨウコの蹴りが飛んだ。

「バカ、よく見せろよ」

「はい!」

浩介は弾かれたように両手をどかして体の横にピタリとつけ、直立する。

「よしよし。じゃあ、これからおまえに首輪を付けてやるから、そこにお座りしなさい」

言われたとおりに浩介が正座をすると、ヨウコが首輪を装着し、鎖を持って笑った。

「おまえ、わたしの犬になれて嬉しいでしょ?」

「はい。嬉しいです」

浩介は本心からそう答えたが、しかし鏡の中の自分は恥辱の極致だった。屹立するペニスがその恥辱を煽る。48歳の自分が17歳の女の子の前で全裸を晒して犬になり、しかも破廉恥にも勃起を晒している。その異常さに、浩介の興奮はさらに高みへと極まっていく。

気づくと、ヨウコが傍らにしゃがみこんでいた。そして、鞄から小さな薬の壜を取り出して、ティッシュにその中の何かの液体を沁み込ませると、それを浩介に嗅がせた。

「ゆっくり鼻から吸って、いっぱいまで吸ったら息を止めて……」

シンナーに似た強い刺激臭が浩介の鼻腔を突き抜け、まるで催眠術師に導かれるように言われたまま呼吸をしていく。そうしているうちに、浩介は自分の思考が淫らに弛緩していくのを感じた。なんだこれは……? 少しずつ混乱が広がっていく。しかし、感覚はますます淫乱になっていく。

その時、なぜかヨウコがバスルームに向かって「いいよ」と声を掛けた。すると、そのバスルームのドアが開いて、そこから二人の女性が新たに現れた。浩介は激しく戸惑った。しかし思考は先ほどの液体によってもう自分では制御ができないくらい淫靡な方向へ暴走を始めていて、体が理性を拒否していた。そして、わけがわからないうちに、壁際の大きな布が一人の女性の手によって剥がされて黒々と光るビデオカメラらしい機材が出現し、眩いライトが点灯されて、浩介はその光に曝け出された。いつのまにか、もうひとりの女性が傍まで来ていた。その女性はSMプレイ用の際どいコスチュームを身に付けていて、素晴らしいプロポーションを誇る長身の美しい女性だった。その女性がヒールの爪先で自分の顎を持ち上げ、上を向かせるのを、浩介は朦朧となりながら、されるがままに受け入れていた。そのボンデージ姿の女性が言う。

「いったいどうして欲しいの?」

冷たい視線が突き刺さるように浩介に注がれている。浩介は喘ぎ声を洩らしながら思わず、目の前に聳えるその女性の脚に縋りつこうとした。白くて肉感的で官能的な脚だった。しかし、伸ばした浩介の手は邪険に払われた。

もうひとりの女性によって、いつのまにかビデオカメラが回っていた。信じられないくらい常識から逸脱した破廉恥な姿を晒していると浩介はわかっていたが、薬品のせいでもうどうにもできなかった。理性は完全に抹殺されている。ヨウコが、そんな浩介の傍に立ち、言う。

「さあオッサン、カメラに向かって自分がどれだけ変態か、いつもどんなイヤらしいことを考えているのか、洗いざらい告白しな」

そう言ってヨウコは浩介の頬を手のひらで強く張った。既に正常な精神状態とはいえない浩介は、その一発で更に昂り、半ば狂ったように身悶えながら、従うしかないと観念していた。浩介は二人の女王様の前に座り、鎖の端を十七歳の少女に持たれ行動を管理されながら、促されるままにカメラの方を向いた。そして、この異常な状況に怯えつつも興奮しながら、長い告白を始める。

「ぼ、僕は……」

薬のせいなのか、状況に飲まれているのか、声は微妙に震え、うまく呂律が回らず滑らかに言葉が出てこない。それでも、正座のままぎゅっと拳を握って膝の上に置いて喋り出す。

「ぼ、僕はどうしようもない変態です。いつも、女の人の前で恥ずかしい姿を晒して虐めてもらうことばかりを考えています。会社でも若いOLの女の子のお尻を見ては割れ目に顔を埋めたいとか顔の上に座って欲しいと思いますし、脚に縋りたい、とか、そしてそんな自分をあからさまに蔑んでもらいたいとか、そんなことばかり夢想しています。街でも、ヨウコ様のようなギャルを見ては同じようなことを考えていますし、足の指を舐めたいとか、パンティの匂いを嗅ぎたいとか、オ、オ、オシッコを飲みたいとか、考えてしまいます。ああ、どうか、どうか女王様、僕を虐めてください。ペニスを踏んでください。蔑んでください。お願いいたします!」

浩介はそんなことを言いながら、気づくと自分でペニスを握り、擦っていた。すると長い鞭が飛んで、それを中断させられた。浩介は恥も外聞もなく、今はただ自慰がしたかった。そして、その姿を鑑賞されて、嘲笑を浴びたかった。

チアキは、ファインダー越しにそんな浩介の姿を冷静に見つめていた。それはレンズの中でごく普通の男の人格が壊れつつある瞬間だった。

この男は普段どのような暮らしをしているのだろう、とチアキはカメラを回し続けながら思った。もしもこんな姿を家族に、たとえばヨウコと同い年だという娘に見られたら、この男はどういう反応を示すのだろう。そう考えていると意思が通じたのか、ヨウコがそれと同じ事を男に言った。

「おまえさ、わたしと同い年の娘がいるんだろ?その子が今のおまえのこの姿を見たらどう思うだろうねえ。最悪じゃない? 恥ずかしすぎるわよねえ」

その時の男の表情こそ、まさにチアキがカメラに収めたいと思っていた顔だった。恥辱と恍惚と、僅かに残されてたのかそれとも不意に覚醒したのか、ほんの一瞬滲み出た人の親としての自覚、それら相反する三方向へ勝手に伸びる意識がドロドロに溶け合って奇妙な具合に顔が弛緩していた。それは人間の顔の中でも最低の部類に入る表情だった。穢れているとか、そういうレベルではない。恥が顔の全体を覆っていた。チアキは、不意にこの男に殺意を抱いた。こんな男、生きている資格はない、と思った。男はハルナたちの制止を振り切り、猛然と自慰をしている。男の妄想は最早完全にタガが外れ、疾走していた。その妄想がどこへ向かっているのかはわからなかったし、わかりたくもなかった。そもそも、この男の存在自体を認めたくなかった。

チアキはカメラを回し続けたままファインダーから目を離すと、仕事用の大きなバッグの中を漁った。そこには、もしもの時のための護身用としてサバイバルナイフが入っている。チアキは、この男の顔が嫌だった。目が腐りそうだった。そして、ごく自然に、殺さなければ、と思った。この男は死ぬべきだ。

やがて手にナイフが触れた。チアキはそれを取り出し、鞘から抜いた。強いライティングの明かりを浴びて、刃が鈍い光を放つ。

チアキはそれを持ち、構えた。そして、腰を浮かしてペニスを握り、陶然となりながら口を半ば開いて自らの歪んだ欲望に身悶えている男に向かって、走った。

「もう、あの時はマジで吃驚したよ。チアキさん、突然ナイフ持ってあの男を刺そうとするんだもん」

缶ビールをゴクゴクと喉を鳴らして飲み、ヨウコが言った。ハルナは煙草を灰皿に揉み消しながら頷いている。チアキは返す言葉もなく、手の中でビールの缶を弄んでいた。

三人は今、ハルナの部屋にいた。ホテルを出て、二時間が経過していた。そしてチアキはようやく落ち着きを取り戻しつつあった。

あの時、チアキは本当に男を殺すつもりだった。それを寸前のところでハルナが気づき、チアキの突進を止めた。それから、ホテルの室内は大騒ぎになった。当然撮影は中断となり、もうプレイどころではなくなったので、そのまま男は早々に部屋から放り出された。男は何か起きたのかいまいち理解できていないようだったが、薬の効果もすぐに薄れ、手早く衣服を身に付けると逃げるように部屋を出て行った。

そして、しかし撮影者であるチアキが異常に昂っていたために機材の撤収もままならず、とりあえずカメラ等は部屋に残したまま、ハルナがチアキの車を運転してこの部屋まで戻ってきた。

「ごめんね、本当に。わたしのほうから誘ったのに、台無しにしちゃって」

チアキがポツリと零す。

「ううん。そんなことはいいけど、いったい急にどうしちゃったの?」

ハルナが訊いた。チアキはそう訊かれても、あの時の自分の心境を誰かに上手く説明できる自信がなかった。そもそも、自分でもよくわかっていないのだ。だから一言、「あの男を見ていたら突然殺したくなったの」とだけ言った。

「でも、あの程度の男、店では普通なんだけどねえ」

ハルナは冷静に言い、ヨウコも同意するように何度も首を縦に振った。チアキも頷く。

「それはわかっているんだけど……でも、どうしてだろう? あの時はもうどうにも我慢できなかった」

誰も何も言わなかった。会話が途切れて沈黙が落ち、テレビだけが空々しくバラエティ番組を流していた。チアキは煙草を咥えてライターの火をつけると、すぐに煙草の先へは移さず、その炎をじっと見つめながら、ふたりに言った。

「だけど……本当にありがとう。あなたたちがいなかったら、わたし、きっとあの男を刺していたわ。殺したかどうかはわからないけれど、刺していたのは間違いない。そうしたら、今頃傷害か殺人未遂で捕まっているかもしれないし、もしも殺してしまっていたら、それこそ殺人犯になってしまうところだった。だから…… 本当にありがとう」

それからゆっくりと煙草の先へ火を移し、チアキは深々と煙を吸い込んだ。そしてライターの蓋をパチン、と小気味のよい音を響かせて閉じ、細く煙を吐き出した。

明くる日の午前中にチアキはひとりでホテルへ撤収に行った。そして機材一式を片付けて車に積み込み、すぐに帰ってきて撮影したテープを見てみた。やがて、問題のシーンに差し掛かった。チアキの後ろ姿が男に向かって突き進み、ナイフの刃先が男へ伸びていく。と、その時、横からハルナが飛び出してきて、間一髪のところでチアキを床に押し倒した。阿鼻叫喚。しかしテープは回り続けている。

チアキはその映像の中に信じられないものを見た。男が、ナイフの接近を認識して反射的にその進路から逃れながら、しかしすぐには自慰の手が止まらず、そのまま射精していたのだ。

男は迫り来るナイフの刃先に顔色を変えて咄嗟に体を翻しながら、勃起したペニスの先端からは白くて汚い液を噴き上げ、撒き散らしていた。

広告
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。