古都の闇

どこからともなく三味の音が聞こえてくる街角だった。昔ながらの格子戸からは暖かい灯が洩れ、石畳の径が打ち水でしっとりと濡れている。

京都 ――。花見小路の賑わいから少し外れた、祇園の落ち着いた閑静な一角に、その家はある。板塀に囲まれたこの家は、一見、由緒ある旅館か料亭のように思えるが、看板の類は一切出ていない。しかし「いちげんさんお断り」が多いこの京都の町では、そんなに珍しいことではない。料理屋などでも、よく気をつけていないと、普通の町屋の表札が実は店の屋号だったりして、つい見過ごしてしまいそうになる。余所者からすれば、商売をする気があるのかどうか甚だ疑わしいのだが、それがこのあたりの店の特徴でもある。

この家も、そんな店のひとつだが、かなり特殊な部類に含まれるだろう。そもそも正規の営業許可を得て営業しているわけではないので、厳密にいえば店ではない。が、夜な夜な客が訪れるのだから、店の一種ではあった。そして当然のことながらその店は完全会員制で、凄まじく高い会員資格をクリアした選ばれし者のみが、この家の敷居を跨ぐことを許されているのだった。

客達の多くは、表通りまで黒塗りの大きな車で来て、足早にこの家へ消えていく。家の玄関が、車の通行が可能な表通りから五十メートルほど路地に入った場所にあるので、家の前まで車を乗りつけることができないのだ。そして客達は二時間ないしは三時間をその家で過ごし、再び玄関に現れると、いつのまにかまた表通りに迎えに来ていた車に乗り込んで、何処へともなく去っていく。客達の年齢はまちまちだが、共通しているのは、身なりの良さである。社会的地位も相当に高そうで、実際彼らの顔ぶれを見ても、国政の中枢を担う政治家や高級官僚、大学教授や大企業の幹部クラス、さらには芸能人やスポーツ選手など、そうそうたるものだった。時には、SPらしき護衛を付けた外国人の姿も見られる。

しかし、彼らがここを訪れることは、どうやら周囲には極秘にしたいらしく、世間に顔の知られている有名人などは、露骨に変装をして家へ入っていく。そうでなくても、ほとんどの臨場がどこか秘密めいていて、オドオドしているわけではないが、料亭やお茶屋へ行くのとは明らかに雰囲気が異なっている。

その家は、客達の間で『桃花楼』と呼ばれている。女将は麻生和佳子という三十代後半の女性で、和服のよく似合う日本的な美人だ。彼女が主で、他にこの家にいるのは、神城貴彦という二十代後半のハンサムな男性だけだった。彼がこの『桃花楼』の窓口となって客から予約を受け、すべての手配をする。麻生和佳子が表に出ることは滅多にない。表に出るのは、常に神城だった。

神城は、オフィスのデスクでパソコンの画面を見つめていた。モニターには、向こう三ヶ月の予約状況が表示されていた。スケジュールはびっしりと埋まっている。客は一日に多くて二組、たいていは一組だった。なぜかというと、営業は基本的に夜、それも十時を回る頃からなので、そうそう多くの客を捌くことはできないのだ。しかも客ひとりにつき、最低でも二時間は必要だから、一日二組が限界なのだった。

目の前の電話が鳴りだした。神城は腕時計を見て九時という時刻を確認してから、受話器を取り上げた。

「桃花楼でございます」

丁寧で落ち着いた応対だ。相手は、今晩の予約客である、上越地方の選挙区選出の保守系政党に所属する大物代議士Gだった。秘書を通さずに本人が直接に電話をかけてくることからしても、この店が客達にとって、どれだけ秘匿性の高い場所であるかの証である。

Gの用件は、十時の予約に二時間ほど遅れそうで、申し訳ないが十二時にしてもらえないだろうか、というものだった。テレビなどでは、いかにも百戦錬磨の政治家として不遜な態度を見せている大物代議士が、たかが予約時間の変更程度のことで、わざわざ自ら電話をかけてきて、しかも相手の機嫌を損ねないように注意深く下手に出て伺いを立ててくるのが、滑稽ではあった。

その時、和佳子がオフィスに入ってきた。神城は送話口を手で塞ぎ、彼女の方を見て「G先生からですが、二時間ほど遅れるそうです」と言った。すると和佳子は「代わって頂戴」と手を差し出し、受話器を受け取ると、電話の向こうにいる代議士に喋りかけた。

「先生、私のほうはちっとも構いませんのよ。今日のご予約を承っているのは先生だけですから、お好きな時間にどうぞ。なんなら、もう来なくてもいいのよ」

柔らかい物言いながら、その言葉には、棘のようなものが含まれていた。案の定、代議士も和佳子の突き放すような言い方に慌てふためいたらしく、電話の向こうで必死に言い訳を並べた。しかし和佳子は相手にせず、途中で受話器を置いてしまった。Gに対してこのような態度を取れるのは、この日本でも彼女くらいだろう。Gはいわゆる建設族の長老で、公共工事に関するあらゆる利権に絡んでいる。年齢はとうに七十を越えていて、現在はもう大臣の職から退いているが、依然として内閣には睨みを効かしているし、政界においては陰のフィクサー的存在であった。現職の総理は勿論のこと、歴代の総理たちもGには頭が上がらない。

和佳子は電話を終えると、革張りのゆったりとしたソファに腰を下ろした。今夜も艶やかな和装である。高価な西陣織の着物だ。これは、顧客である西陣織の老舗の若旦那からのプレゼントだった。むろん特注で、その若旦那が彼女ために一流の職人を使ってしつらえたものだ。朱色の地に、繊細な金色の刺繍が美しい。和佳子は、軽く足を伸ばし、爪先を組んだ。その足先の足袋は新しく、白く輝いている。

「貴彦、飲み物をくれない?」

「何がいいですか?」

神城はデスクを離れ、彼女の傍らに立った。和佳子はテーブルの上の大理石でできた煙草入れから煙草を取り出し、同じ大理石でできた対の卓上ライターで火をつけた。

「そうね、あとであのおじいちゃんの相手をしなくてはならないから、お酒は止めておいたほうがいいわね。ペリエでいいわ」

「はい」

神城は部屋の隅の冷蔵庫からペリエのボトルを取り、グラスに注いで彼女の前へ置いた。

「ありがとう」

和佳子は煙草を消してペリエのグラスを持った。神城は彼女の向かいに座り、煙草に火をつけた。

「ところで、あの大先生、なんて言っていたのですか?」

「なんか今、近くのクラブにいるらしいのだけど、業者の接待からどうしても抜けられないんですって。どうせまた儲け話の口でも見つけたんじゃないかしら」

「へえ、この国の政治家はまだそんなことをやっているのですね」

神城は煙草の灰を灰皿に落としながら言い、呆れたように首を振った。そしてデスクに戻ると、パソコンの画面に表示されたスケジュール表をスクロールしていき、二週間後の火曜日に予約の入っているKという人物の名前を挙げた。

「このKさんって、確か大手ゼネコンの社長ですよね。ってことは、当然、大先生とは関係が深い」

「そうね。もしかしたら今夜も一緒なのかも。京都新国際文化交流センターの入札にはKの会社も名乗りをあげているから。でも、お互いふたりともここへ通っていることは知らないはずよ」

「そうやって考えると、結構笑えますね。ふたりともここへ通っているのに、そんなことはお互いおくびにも出さず、澄ました顔をして何百億というお金を動かしているのですから」

「なんか、タチの悪い冗談のようね」

和佳子はそう言うと、乾いた笑い声を立てた。つられて神城も苦笑を浮かべた。もしこのファイルが外部へ流出したりしたら、どんなことが起こるだろう、と時々考える。それを考えると、少々怖いような気がする。このファイルに入っている情報は名前とスケジュールだけではない。もっと微細な個人情報――それには各人の特殊な性癖も含まれている――が、圧縮した映像と一緒に入っている。これが漏れれば、大袈裟な話ではなく、まず間違いなくこの国は転覆するだろう。覗き趣味が旺盛な週刊誌やワイドショーなんかは真っ先に飛びついてくるだろうし、様々なところから圧力がかかってくるに違いない。だから、ファィルの管理には充分気をつけている。時々神城は、このファイルの内容を、ホームページを立ち上げてインターネットで発信したらどうなるだろうか、と想像する。それはきわめて危険な誘惑だった。とても楽しそうだが、本当にそんなことをすれば命の保障がないだろう。

「ねえ貴彦、部屋の用意は整ってる?」

ペリエを飲み干して、和佳子は訊ねた。神城は煙草を消し、パソコンのモニターから目を上げた。

「ええ。奥の『花宴』に」

「そう。じゃあ、大先生が来るまでにまだ三時間近くあるから、やっぱりその辺へ軽く飲みに行きましょうか」

「いいんですか? お酒を飲んでも」

「軽くならいいわよ。ねえ、行きましょう」

「わかりました」

神城はCD-ROMを抜いてパソコンの電源を落とし、そのディスクをケースに入れてジャケットのポケットにしまった。携帯電話を持ち、家全体のセキュリティシステムをオンにする。

「車を出しますか?」

「いいえ、歩いていきましょう」

ふたりは裏口から出た。並んで祇園の町を歩いていく。すると、たいていの人がふたりを見て振り返った。神城と和佳子、その美男美女の組み合わせは、華やかな祇園の町でも一際人の目を引く。美男のほうは仕立ての良いイタリア製のダークスーツ、そして美女は艶やかな和服姿。そんなふたりが肩を並べて歩いていくのだ。これで人目を引かなければ嘘だった。

G代議士は十二時五分前に、あと五分で着きます、と電話をしてきて、きっかり五分後に桃花楼の玄関に姿を見せた。

「いらっしゃいませ」

神城は玄関で恭しく頭を下げて代議士を迎えた。Gは靴を脱ぎながら「和佳子さんは怒っていらっしゃいますか」と訊いた。酒を飲んできたというわりには、あまり酔っているように見えなかった。おそらくは、どこかで酔い醒ましてきたのだろう、と神城は思った。なぜなら、和佳子は絶対に酔っ払いの相手はしないからだ。

「いいえ、別に怒ってなんかいませんよ。安心してください、先生。さあ、どうぞ」

玄関から一直線に、磨きぬかれた廊下が奥へと伸びている。右手にはオフィスや、今は襖が閉じられているふつうの客間などが並び、左手には庭を見渡すことのできるガラス戸が続いている。庭はよく手入れの行き届いた枯山水で、ところどころに燈籠が立ち、淡い明かりを灯している。

「今日は一番奥の『花宴』をご用意しております。麻生はもう部屋のほうで待っておりますが、飲み物でもお持ちいたしましょうか」

廊下には、ふたりのスリッパの音だけがしていた。Gは神城の半歩後ろについて歩きながら「いいえ、結構です」と言った。この国のトップクラスの権力者が、自分の息子よりも年下の神城に対して敬語を使っている。神城はいつもそのことを不思議に思う。どんな権力者も一歩この桃花楼に足を踏み入れた途端、態度が豹変する。普段はふんぞり返って威張り散らしている人間が、靴を脱ぐなり腰が低くなり、別の人間に変わる。そして、その時の彼らは一様にリラックスしているように見える。まるで権力やしがらみといった重い鎧を脱ぎ捨てて、彼らはこの場所で束の間の自由を謳歌しているようだ。

廊下の突き当たりに、重厚な鉄製の扉があり、神城はそこで足を止めた。

「では、先生、お部屋のほうへ。どうぞごゆっくり」

「どうも」

Gは軽く会釈をして鉄の扉を開けた。そして中へ入っていく。家の内装は、この鉄の扉を境にして、がらりと趣が変わる。ここまではごく普通の料亭のような造りだが、この先は違う。廊下はコンクリートが剥き出しになり、壁は煉瓦で、そこには点々と蝋燭の炎が揺らめいている。廊下の左右に、ふたつずつ木製の重い扉があり、それぞれの扉にはプレートが付いている。向かって右側には『般若』『桐壺』、左側には『π』『θ』、そして突き当りが『花宴』だった。部屋はすべて造りが違う。『般若』『桐壺』『花宴』が純和風で、『π』『θ』が洋風だった。

神城は扉の向こうへ消えたGを見送ると、オフィスへ戻り、各部屋に設置してあるビデオカメラのスイッチを入れた。客達は室内の様子がビデオテープに記録されていることを知らない。カメラも巧妙に隠してあるから、絶対に気づかれることはない。しかしオフィスにその映像を映すモニターはなく、専用のビデオルームへ行けばリアルタイムで室内の様子を見ることはできるのだが、神城に覗きの趣味はないので、これまでにそのビデオテープを観たことは一度もなかった。

これから二時間、神城には何もすることがない。だからブランデーを持ってきて、ソファでゆっくりと飲むことにした。その前に、オーディオ装置にチャイコフスキーのCDをセットした。

やがて、ソファに身を沈めてブランデーグラスを手の中で弄ぶ神城を、『白鳥の湖』の旋律が包んだ。

『花宴』は広さが二十畳の畳敷きで、照明は赤い大きな提灯だけだった。提灯は、障子がぴたりと閉じられた窓辺にかけられている。提灯といっても、一メートルほどの高さがあり、光源としての役割を充分に果たしている。部屋は、提灯の赤い光によって、ぼんやりと明るく、部屋全体の雰囲気を淫靡に演出している。

部屋には、その提灯を除いて何も装飾品がない。いや、床の間を背に、籐で編んだ背凭れの高い椅子が、一脚だけある。そこに、麻生和佳子は座っていた。きちんと揃えられた足先の白い足袋が、仄かに赤い。

襖を静かに滑らせて中に入ってきたGは、後ろ手に襖を閉めると、その場に膝をついて、髪が薄くかなり後退してしまっている額を畳に擦りつけた。

「和佳子様、今夜は本当に申し訳ございませんでした」

和佳子は泰然と微笑み、Gの禿げた頭頂部に遠慮のない侮蔑の視線を投げた。Gはその視線をひしひしと感じながら、その羞恥に肩の辺りを小刻みに震わせている。

「こっちへいらっしゃい」

その和佳子の言葉にGは顔を上げると、いそいそと膝立ちのまま彼女の足元へ進んだ。そして再び平伏し、そっと足袋の爪先を盗み見た。

「相変わらずおまえは禿で醜くて、みすぼらしいわね」

「申し訳ございません」

両手を揃えて畳みにつき、Gは深々と頭を垂れている。その後頭部に、和佳子の足が置かれた。Gが言う。

「ありがとうございます」

しばらくそのままだった。やがてGが、おずおずと言った。

「和佳子様、裸になってもよろしいでしょうか」

「別にいいわよ。勝手にどうぞ。でも私は脱がないわよ」

「そんなこと、滅相もございません。脱ぐのはこの老いぼれだけにございます」

「ふーん。おまえはその醜い体を全部私に見てもらいたいわけね」

「そうでございます。では、失礼いたします」

Gはおもむろに服を脱ぎ始めた。まずはジャケットを脱ぎ、次にスラックス、続いてネクタイを緩め、もどかしげにシャツを脱いだ。あっという間にパンツ一枚だ。そして、そのパンツもすぐに下ろして、Gは素っ裸になって、起立の姿勢をとった。だが、靴下だけは履いたままだ。それが、妙に卑猥だった。Gは老人性の染みがあちこちに浮いた貧相な体を披露している。しかし股間の性器はだらりと垂れ下がっている。さすがにもう勃起する力はないのだ。Gは、再び跪いた。

「いやねえ、おまえの股の間にぶら下がっているモノは何かしら。だらーんとしちゃって。何の役にも立ちそうにないわね。踏んじゃおうかしら」

和佳子が嘲笑気味にそう言うと、Gは上目遣いで彼女を仰ぎ見た。その目がキラキラと輝いている。

「お願いします、和佳子様。ぜひあなた様のおみ足でお踏みください!」

Gが叫ぶように懇願するのを聞きながら和佳子は蔑んだ笑みを浮かべた。そして、恥ずかしげもなくそんなことを言うGの目を、焦らすようにじっと見据えた。

「おまえ、いい年してそんなことよく言うわね。全く呆れてものも言えないわ。最低。それに、おまえの汚いモノなんか踏んだら、私の足袋が汚れちゃうじゃない」

「そ、そんなことを仰らず、どうか、どうかこの老いぼれのチンポを踏んでください」

Gの腰はもう浮き上がっていて、目には涙が滲んでいた。その憐れな老人の手が、和佳子の足首に伸びている。和佳子は、恥も外聞もなく求めてくるGを咎めるように、鋭いビンタを与えて、一喝した。

「変態ジジイがサカってるんじゃないわよ」

「す、すみません!」

弾かれたようにGは手を引っ込め、膝の上に置いた。その瞳には怯えの色が浮かんでいる。和佳子は、ふと表情を緩めて唇を歪ませると、仕方ないわねえ、と言いながら老人の性器を足で踏んだ。そのままグリグリと踏みにじる。Gの口から喘ぎが漏れる。

「あっああ」

「おまえ、何て声を出してるのよ、イヤらしい」

「す、すみません……」

しかし口ではそう謝罪しながらも、Gは拳を握って膝に置いたまま、その快感に酔い痴れ続けていた。遠慮のない女のような喘ぎ声が唇の隙間から漏れている。数分間、その状態が続いた。やがて、Gが、和佳子に伺いを立てた。

「あのう、和佳子様。実は今日、わたくし、ある物を持って参ったのですが、それを使ってもよろしいでしょうか」

「何を持ってきたの?」

和佳子は性器を踏んだまま訊いた。すると、Gは体を捻って伸ばし、脱ぎ捨てた上着の内ポケットから小さなプラスティックのケースを取り出した。

「これでございます。あのう、これは先日、アメリカ帰りの若い議員から貰ったのですが」

「何それ? ドラッグ?」

「はい。これはハイブリッド・ビーナスという最新の興奮系ドラッグでして、これをコカインのように鼻から吸い込むと、わたくしのような老いぼれでもたちまち勃起するとのことで……ぜひ、今夜、和佳子様の前で試してみたいのですが」

「おまえが勝手にやるのは別にいいけど、私は絶対にやらないわよ。私、ドラッグって嫌いなの。だけど、おまえみたいな年寄りがそんなドラッグをやって大丈夫なの?」

「はい。常習性はないとのことですし、一度でいいから和佳子様の前で猛々しく勃起してみたいのです。どうか、ご許可をお願いいたします」

和佳子は、悲壮感すら漂わせてそう哀願するGに憐れみを憶え、同情しながらその使用を許可した。

「いいわ、やってごらんなさい。そして、より変態な姿を晒しなさい」

「ありがとうございます!」

Gは早速床の間へ行くと、そこに置いてあった花瓶をどけて、下の台だけを持ってきた。そしてプラスティックケースの中から小さなビニール袋を取りだすと、封を切り、台の上にその中身である白い粉末を落とした。クレジットカードを使ってラインを作っていく。Gは、ラインが完成すると、四つん這いになって屈みこみ、片方の鼻を塞いで一気に吸い込んだ。残った粉末を指先で掬い、歯茎にも塗った。そうして何度も鼻を啜り、薬の効果が現れるのを待つ。

やがてGの目の焦点がおかしくなってきた。それに合わせて顔が赤くなってきて、股間に垂れ下がっていた性器がゆっくりと頭を擡げてきた。和佳子はそれを見ながら内心、すごい、と思った。瞬く間に老人の性器が反り返った。それと同調するように、Gの気分も昂揚してきているのがわかった。

「和佳子様ー」

突然Gは狂ったように和佳子の足袋の裏に顔を押し付けると、四つん這いになって尻を高く掲げたまま、鼻を鳴らしてその部分の匂いを嗅ぎ始めた。興奮して喘ぎながらGが哀願する。

「お願いします、和佳子様。どうか生のおみ足にご奉仕させてください!」

いつもとは全く違う昂りようだった。和佳子はドラッグの凄さを思い知った気分だった。不能の老人をここまで見事に覚醒させてしまうなんて凄い。そう思った。老人は和佳子の返事を待つことなく、既に足袋を脱がしにかかっている。これはもう興奮が収まるまでGの好きなようにさせるしかないな、と和佳子は思い、そのまま放置した。ドラッグが効いているからか、足袋を脱がすGの手は小さく震えていて覚束ない様子だった。仕方ないので和佳子は自分で足袋を脱ぎ、足の指を老人に与えた。Gは嬉々として白くしなやかな足の指にむしゃぶりつくと、口いっぱいに頬張り、一心不乱に舌を伸ばした。舌がまるで別の生物のように蠢き、指の隙間から足の裏全体を這いずり回っている。異常だ、と和佳子は思った。老人の昂りは尋常ではなかった。顔は火を噴いたように真っ赤だし、体まで赤く染まっている。呼吸も荒く、目は完全に泳いでいて、体中の関節が小刻みに震えている。本当に大丈夫なのだろうか。和佳子は老人に足を舐めさせながら、さすがにちょっと不安になってきた。

その頃、Gは恍惚の絶頂にいた。女神が光の中に降臨し、眩い閃光が、歓喜のシャワーとなって老人の全身に降り注いでいた。今のGにとって、和佳子の足は、光そのものだった。虹色の津波がせり上がって迫ってきた。Gは、たちまちそれに溺れた。

と、突然、Gの体が痙攣を始めた。和佳子は驚いて足を引いた。Gは「うおおおお」と絶叫しながら体を反らし、胸を掻き毟った。潤んだ瞳は虚空を睨み、上体を大きく後ろへ反らしたかと思うと、そのまま仰向けに倒れ込んで、ピクピクと体を弾ませた。口から泡を吹いている。目の焦点ももう定まってはいない。だらしなく口が開いたままになっていて、そこからとめどなく涎が溢れ続けている。

「先生……大丈夫?」

和佳子は椅子を離れ、Gの頭を抱え上げた。が、老人はもう息をしていなかった。

「嘘? …………。これは困ったことになったわ」

老人の頭をそっと畳の上に戻し、和佳子はため息をひとつ吐いてから、壁に備え付けられているインターフォンの受話器を取り上げた。すぐに神城の声が聞こえてきた。和佳子は柱に凭れ、冷ややかに老人の死体を見下ろしながら言った。

「貴彦、ちょっと困ったことが起きたの。こっちへ来て」

何が起きたのだろう、と訝しみながら神城が『花宴』に入っていくと、和佳子は椅子に腰を下ろして煙草を吸っていた。その足元に、ピクリとも動かないGの体が横たわっている。神城は和佳子に訊いた。

「どうしたのですか?」

「見て。死んでるわ」

「死んでるんですか?」

神城は、老人が年甲斐もなくハッスルしすぎて寝ているか、気を失っているか程度に思っていたので、死んでいると聞いて改めてびっくりし、それでも比較的冷静に事態を把握するために、老人の体の脇にしゃがみ、念のために手首で脈を取ってみた。しかし、彼女の言うように、老人の心臓はもはや機能を停止していた。

「死んじゃったんですか、かわいそうに……。しかし、どうしてこんなことに?」

立ち上がって和佳子を見ながら訊くと、彼女は気だるく首を振った。

「大先生、自分の歳も考えないでドラッグをやったのよ。それで、たぶん吸い過ぎちゃったのね。なんか、すごく興奮してるなあと思いながら見てたら、突然おかしくなっちゃって、そのままバタン。もうそれっきりよ」

「そうですか……」

神城はその場に立ち尽くしたまま腕を組み、思案した。これをどう処理すべきか、それを考えた。相手が大物だけに、処理の仕方が難しかった。これがその辺のサラリーマンや一般人なら琵琶湖か大阪湾に沈めればそれで済むが、相手がGではそうもいかないだろう。なんといってもGは政界のフィクサーと呼ばれる男なのだ。そんな男が謎の失踪なんてことになれば、警察は威信をかけてどこまでもとことん真相究明に奔走するだろう。この桃花楼のネットワークは、司法、立法、行政、と緻密に放射状に張り巡らされているが、どれかのラインを使えば、どこでどうパワーバランスが狂うかしれなかったから、安易に使うわけにはいかないのだった。

「和佳子さん。とにかくここはこのままにしておいて、ひとまずオフィスに戻りましょう。いつまでも死体と一緒では気持悪いですからね」

「そうね……しかし困ったおじいちゃんね」

椅子を立って老人の死体のそばを通り過ぎながら和佳子は言い、ふたりは『花宴』を出た。並んで歩きながら、神城は腕時計を見た。時刻は、十二時半を回ったところだった。

オフィスに入ると、神城はデスクでパソコンのファイルを開き、使えそうな人脈を探すために名簿のチェックに着手した。和佳子は足を洗った後、再び新品の足袋を履き、ソファに身を沈めて、神城が飲んでいたブランデーの残りを喉に流し込んだ。

「あの大先生の派閥は、このリストでは大先生が最高位ですね。現在の総理は顧客じゃないから使えませんし、そうなると同じ保守党内でも敵対している最大派閥T派のOさんくらいでしょうか、使えそうな政治家のラインは」

和佳子は二杯目をグラスに注ぎながら、ダメよ、と言った。

「そんなことをしたら一気に政界のバランスが崩れてしまうわ」

「となると、いっそ、こっちですかね」

神城は人差し指を頬に当てて斜めにすっと引いた。

「あまり使いたくはありませんが、このN組の組長のUさんとか」

「ああ、それも駄目。N組はY一家の系列だから。Y一家はT派と繋がりが深いの」

「そうですか……しかし、これは困りましたね」

神城はパソコンの画面を見つめたまま途方に暮れた。時間だけが過ぎていく。老人の死を隠しておけるのも、せいぜい朝までだ。朝になって秘書がホテルの部屋を訪ねて不在のGに気づいたら、大騒ぎになるだろう。無論、警察を抑えることは可能だ。なぜなら警察庁や警視庁の幹部クラスには顧客がたくさんいるし、なんといっても警察庁長官や刑事局長もここの顧客で常連なのだ。しかし、彼らのラインを使うわけにはいかなかった。事件を押さえ、揉み消すことはできても、政界とのしこりが残ってしまう。この国の権力者のすべてがここの顧客なら何ら問題はないのだが、そうではない人もいることを考慮しなくてはならない。

和佳子が、空のブランデーグラスをテーブルに置いて、言う。

「ねえ貴彦、東京のオブライエン商会のマーク・オブライエンっていう人、リストにあるでしょ。その人の連絡先はわかる?」

「ちょっと待ってください。マーク・オブライエンですね」

神城は膨大なデータの中から検索してそのリストを呼び出した。

「あっありました。連絡先としてはオフィスと携帯が記録されています。しかし、この人、貿易商ですよ。そんな人が、今回、利用できるのですか?」

「うん。いってみれば、最後の切り札ってところかしら」

「最後の切り札?」

神城は和佳子を見つめた。和佳子はテーブルに放り出されたままの神城の煙草を一本抜いて唇に咥え、火をつけて、大きく煙を吐き出してから説明をした。

「あのね、この人、実はCIA極東支部のエージェントなの。駐日大使やCIA長官とも太いパイプがあるという話だし、こうなったら彼に頼むしかないわ。この時間だと、オフィスは無理ね。携帯に連絡してみてちょうだい。本人が出たら、私が事情を説明して頼んでみるから代わって」

「わかりました。しかしCIAですか」

神城はそう呟き、受話器を取り上げると、リストに記載されているナンバーをプッシュした。すぐに通じた。が、何も反応がない。神城は、英語で言った。

「こちらは京都の桃花楼ですが」

すると、明るい流暢な日本語が返ってきた。

「ああ、桃花楼のカミシロサン。どうしたのですか、こんな時間に。それも、そちらから連絡をくださるなんて」

「ただいま麻生に代わりますので、お待ちいただけますか?」

「ワカコサン。もちろん待ちますよ」

神城はデスクを離れ、コードレスフォンを持ってソファへ行った。そして和佳子に差し出した。和佳子は「ありがと」と頷き、もしもし、と電話の向こうにいるマーク・オブライエンに語りかけた。

「オブライエンさん、こんな時間にごめんなさいね。実はちょっとお頼みしたいことがありまして。少々急を要しますの」

「私にできることだったら何でもやらせていただきますよ。それで、何ですか?」

和佳子はざっと事情を説明した。すると、オブライエンは快活に言った。

「わかりました。任せてください。そんなこと容易い御用です。しかしワカコサンはついていました。私、今、オーサカにいます。ここからなら、一時間もあれば着けるでしょう。腕利きのエージェントを二、三人使えば、うまく処理できます。安心してください。朝までには片づきます。これくらい、我々CIAの工作員にとってはアサメシマエですよ。とにかく、すぐそちらへ行きます」

オブライエンは頼もしげに受諾した。和佳子は「では、待っています」とこたえて電話を切った。神城は彼女の向かいに腰を下ろして脚を組み、背凭れに背中を預けた。記憶にあるマーク・オブライエンは五十代の、典型的なアメリカンビジネスマンだった。いかにもアメリカのエグゼクティヴという感じで、CIAのエージェントには全く見えなかった。

「それにしてもCIAが出てくるとは……すごいことになってきましたね」

「でも、彼らに任せるのが一番だと思うの。いろいろなバランスを考えた場合」

「かもしれませんね」

それから一時間後、マーク・オブライエンはひとりで桃花楼に現れた。神城は和佳子とともに玄関で彼を迎えた。オブライエンは和佳子の顔を見るなり「いつもお美しい」と言って三和土に跪き、足袋の爪先に口づけをした。

「しかし、ここへは車を付けることができませんね。表に待たせてあるのですが」

和佳子は、仕方ない、といった調子で言った。

「では裏へ回ってください。裏口なら車を付けることができます」

「そうですか。それなら今度からは、そちらへ車で乗りつけさせてもらいましょうかね。そのほうが表から入るより目立たなくていい」

オブライエンがそう言うと、和佳子は鋭いビンタを彼の頬に張った。そして毅然とした態度でピシャリと言った。

「今夜は特別です。調子に乗るなら、このまま、この話はなかったということにして帰っていただきます」

その気迫に気圧されたのか、オブライエンは怯えるような表情を見せてたちまち萎縮してしまい、動揺を目に浮かべて土下座をすると、すぐに謝罪した。

「すみません。どうかお許しください。とにかく、すぐに車を裏へ回させます。どうか、今私が言ったことは忘れてください」

慌てて体裁を取り繕うように早口で謝ると、オブライエンは土下座のまま携帯電話をスーツの上着から取り出し、何やら英語で命じた。そして携帯をしまうと、ようやく立ち上がり、言った。

「とりあえずブツを拝見させていただいてよろしいですか?」

「ええ、案内します」

和佳子はこたえ、先に立って、オブライエンを『花宴』へ連れていった。神城も同行した。『花宴』に入ると、オブライエンは子細にGの死体をチェックし、神城に言った。

「カミシロサン。申し訳ありませんが、これを包むシーツかブランケットはありませんか」

神城は押入れからシーツを出して渡した。

「これでいいですか」

「結構です」

オブライエンは手早く死体をシーツで包むと、ひょいと抱え上げて裏口へ向かった。外に出ると、黒い何の変哲もない国産のセダンが、裏木戸にぴたりと寄せて停まっていて、オブライエンが裏木戸から姿を見せると同時に運転席の男が飛び降りてきた、そして死体を後部座席へ載せた。

「では、ワカコサン、カミシロサン。後は任せてください。もうシナリオは完成しています。明日の朝のニュースを楽しみにしていてください。それでは失礼します」

先ほどの運転手の男はもう薄いサングラスをかけて運転席でハンドルを握っている。オブライエンは、最後ににっこりと微笑み、もう一度「失礼いたします」と深々と頭を下げてから、死体が積んである後部座席に乗り込んだ。

セダンは、たちまち走り去った。

結局、神城はその夜、ろくに眠れなくて、七時前にはベッドを抜け出し、応接間のソファに座ってテレビを点けた。オブライエンが別れ際に言った「朝のニュースを楽しみにしていてください」という言葉がずっと気にかかっていたのだ。

じきに七時のニュースが始まり、いきなりGの写真が大写しになった。神城はリモコンを操作してボリュームを上げた。女性のキャスターが、シリアスな口調でニュース原稿を読み上げていく。

「今朝早く、大阪市内のホテルで、新潟×区選出の代議士G氏七十六歳が室内で死亡しているのが、ホテルの従業員によって発見されました。死因は急性心不全と思われます。現在までに、G氏は今日の未明、午前二時頃、東南アジア系の女性とチェックインしたことが判明していますが、その女性がホテルの部屋から姿を消していることから、警察は事件の可能性もあるとして目下全力でこの女性の行方を追っています。なお、G代議士は第二次S内閣では建設大臣の経験もある政界の実力者で…………」

「こうやって真実は捻じ曲げられ、事実が捏造されていくのね。そして闇に葬り去られていく。この世の中に信じられるものなんて、本当に何ひとつないわね」

いつのまにか背後にネグリジェ姿の和佳子が立っていた。神城は振り返り、「そんなことはありませんよ」と否定した。

「何があるというの?」

和佳子が、応接間に差し込む朝の光の中で、優雅に首を傾げて訊いた。神城は眩しげに目を細めて彼女を見つめ、力強く言い切った。

「和佳子さん、それはあなたですよ。僕にとって、あなたは真実よりも尊い。事実なんかとっくに超越していますよ。そして、あなたの手で闇に葬り去られるのなら、僕は本望です」

それは神城の偽らざる気持ちだった。和佳子は彼の言葉を聞いて、菩薩のような慈愛に満ちた微笑を浮かべた。しかしあえて何も言わず、そっと神城の肩に、暖かい手を置いた。

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