亀裂

私がその時、途中下車を思い立ったのは全くの気まぐれであった。東北地方の某市で開かれた学会の帰途、私は休暇を取って、のんびりと各駅停車の列車に揺られていた。初秋の空は澄み切っていて、山間をのどかに走る列車の車窓は、紅葉の真っ盛りであった。疎らな乗客は皆、窓から差し込む柔らかい日差しに居眠りをしており、私はひとり、美しい山並みを眺めていたのだが、それにも少々飽きてきて、私は暇つぶしに、手元のガイドブックを開いた。すると次の駅の近くに、小さな温泉場が記されてあった。そこには、駅から徒歩で約五十分とあり、私はその記述に少々尻込みしたが、たぶんに興味を惹かれた。この爽やかな季節の午後、赤く萌ゆる山道を散策するのも悪くない、という気持ちが、不意に湧き起こってきたのである。徒歩でしか到達できないような場所にある温泉ならば、きっと静かな秘湯に違いあるまい。そんな風に期待は次第に膨らみ、私は予定外であったが、途中下車してその温泉へ行ってみることに決めたのであった。

列車がホームに滑り込み、停車した。そこで下車したのは私ひとりであった。その駅は無人駅で、形ばかりの改札を抜けて駅前に立つと、日溜りだけがあった。商店らしきものもなく、ささやかな広場には誰もいなかった。バス停があったので、時刻表を見てみたが、朝と夕に一便ずつあるだけであった。タクシーもいない。私は、殆ど読み取れない程に剥げた案内表示板を見上げた。すると、辛うじて、目的の温泉場が駅からだいぶ離れた位置にぽつんと表示されていた。

私はその頼りない地図を頭の中にインプットして歩き始めた。山間の無人駅周辺は、物音ひとつなかった。静まり返った日向の道を、私は北に向かって進んだ。じきに県道を越え、道は未舗装になった。私は降り注ぐ透明の陽光を浴びながら、ゆっくりと歩を進めた。

まるで心が洗われるようであった。雑木林の方で鳥の鳴く声が聞こえる。風景はどこまでも穏やかで、私は一時、ごみごみとした日常を忘れた。

私は某国立大学で教授の職を勤めている。専攻は民俗学で、今回の学会に出席したのも、論文の発表のためであった。私には妻と、ふたりの娘がいる。妻は私と同い年の五十八歳で、我々は学生結婚である。娘は、上が二十三で、今年の春に大学を卒業した後、どうにか商事会社に就職した。下の娘は、来年成人式を迎える十九の大学生である。しかし、このふたりの娘が私の悩みの種でもあった。上の娘はとりあえず私のコネで就職はしたものの、夜な夜な盛り場で遊び散らしており、おまけに黒人の恋人がいる。下の娘は、親から見てもかわいらしい顔をしていて、そのせいかよくもてて、男を取替え引き換えしているようである。甘やかして育てた私達夫婦も悪いが、最近は目に余ることが多々ある。それでも強くは言えないから、黙認しているような状態で、我ながら甚だ恥ずかしい。しかし私達夫婦の仲は、良好である。私は浮気などできるような男ではないし、妻も学者の家内らしく、控えめで物静かな女性である。そんなふたりからどうして我が娘達のような奔放な子供が生まれたのか、まことにもって不思議である。

次第に山が深くなってきた。頭上を覆うように森の樹木が空を隠し、まだらな影を地面に落としている。道は、登り勾配がきつくなり、私は息を切らし始めた。やはり、軟弱な都会暮らしの身に山道は、かなりこたえる。しかし、少し風が出てきており、汗ばんだ首筋辺りをひんやりと撫でていくのは心地よかった。

途中まで所々に温泉場への矢印が立っていたのだが、そういえば、この頃見ていない。方角のだいたいの見当はついているのだから、さほど心配はしていなかったが、そのことに気づいた時、全く心細さを感じなかったといえば明らかに嘘になるであろう。私は頭の中の地図と、歩いてきた道とを照らし合わせて、先へ進んだ。時に、道はますます険しくなり、幅も狭まってきた。これはどこかで道を間違えたかな、と私は思った。しかし、その時には既に完全に方向を見失っていた。

私は途方に暮れた。それでも、立ち止まったところで仕方ないので、とりあえず歩みは止めなかった。やがて見晴らしの良い場所へ出たので、私は気分を変えるために、そこで休憩を取ることにした。手ごろな大きさの石があったのでそこに腰を下ろした。そして何気なく眼下を見遣ると、先ほど列車を降りた山間の無人駅が、小さく見えた。それを認めた瞬間、私は胸を撫で下ろし、安堵の息をついた。

どうやら迷ったわけではないようであった。なぜなら、駅があの方角に見えるということは、確実に温泉場の方向へ進みつつある、ということであったからだ。幸い、道もこの先は緩やかな下りとなっていて、この調子ならたいした苦はなさそうであった。

私はその場で煙草を一本灰にしてから、また歩きだした。しばらく行くと、梢を渡る風の音が大きくなった。視線を足元に落としてひたすら歩いていたので気づかなかったが、その風の音に顔を上げ、覆い被さるように枝を広げる木々の間の空を仰ぐと、俄かに雲行きが怪しくなってきていた。先ほどまでの冴え渡った空はどこにもなく、上空には鉛の色に似た重厚な雲が断層のように低く広がりつつあった。

山の気象は変わりやすいとよくいうが、今がまさにそうであった。私は心持ち歩を早めた。雲はかなりの速度で急速に空全体を支配しつつあった。

数分後、ぽつり、と最初の雨粒が一滴、額に当たった。まずい、と私は思いながら、駆けるように坂道を下った。しかし足元が不安定な砂利の道だから、それほどの速度は出せない。私は逸る気持ちを抑えながら、もう間もなく温泉場に着く筈だ、と自分に言い聞かせ、励ましながら進んだ。

だが、そんな思いも虚しく、とうとう本格的に雨が降りだした。雨粒が周囲の木の葉を叩き、その音が増幅されて辺りに響く。未舗装の道はたちまち泥濘と化し、あっという間に風景は白く濁った。

私は全身ずぶ濡れになりながら、とにかく先へと進んだ。駅へ戻るにはまた坂を延々と上っていかなければならなかったし、頭の中の地図によれば、目指す温泉場はもうすぐの筈であった。

空は真っ暗で、不穏な音が細い山道に響いていた。かと思うと、次の瞬間、その暗い天を白い稲光が真っ二つに割った。雨はますます激しくなる一方で、私は歩きながら絶えず顔を拭わなければならなかった。雨宿りをしようにも、そのような場所はなく、ただ泥水が流れる心細い道が先へと伸びているだけであった。

やがて、少し森が切れて視界が開けた。そして何度目かの閃光が瞬いた時、前方に一軒の建物の影が浮かび上がった。それは、このような山中には不似合いの、瀟洒な洋館であった。

私は藁をも掴むような思いで、とにかくその洋館へ向かった。この雨が止むまでの間、軒先を借りようと考えたのである。窓に仄かな灯が揺れているので、誰かがそこにいることは確かであった。

近づくにつれ、その洋館が、かなり時代がかった建物だとわかった。漆喰と煉瓦の壁にはびっしりと蔦が絡まり、まるで明治の頃のそれのようで、そこはかとなく暗鬱な雰囲気を漂わせている。その印象は、あながちこの天候のせいばかりでもないように思われたが、そんなことに構っていられるほどの余裕など、私にはなかった。

私は足を縺れさせるようにして、その建物の玄関に辿り着いた。雷鳴が轟き、雨音が騒がしい中、私は息を整え、呼び鈴を探し、それが見つかると、縋るような思いで押した。

しばしの後、「はい」と落ち着いた男の声が、ドアの向こうから聞こえた。私は、ドアに取り付けられた小さな覗き窓の存在に気づいて、そこからの視線を意識しながら居住まいを正した。そして、精一杯、声に誠実さを含ませて言った。

「すみません。少しの間、この雨が止むまで軒先をお貸し頂けないでしょうか」

ドアがギギギと軋んで開かれた。するとそこには、きちっとタキシードを着て蝶ネクタイを締めた、白髪まじりの初老の男が立っていた。私と同年輩であろうか、それにしても毅然とした物腰である。

「それはお困りでしょう。今、主に聞いて参りますから、しばらくお待ちください」

柔らかい口調で男はそう言い、ドアを開いたまま奥へと消えた。はしたないとは思ったが、中を覗くと、薄暗い廊下には点々と黄ばんだ電灯が点り、壁に何点かの絵画が掛かっていた。しかしすぐに私は、あまりじろじろと覗くのも決まり悪いと思い直し、なかなか止みそうにない雨の森を眺めながら男を待った。

「お待たせいたしました」

突然背後で声がして、私はどきりとしながら振り返った。どうしてそんなに驚いたかというと、声を掛けられるまで、全く人の気配を感じなかったからである。振り向くと、男は柔和な笑顔を湛えて立っていた。

「さあ、どうぞ軒下と言わず、中へお入りください」

「い、いや、しかし」

「遠慮なさらずに、さあ」

こんなところで押し問答をしていても仕方なかったし、疲れきっていたので、私はその言葉に甘えることにした。全身が濡れて、本心を言えば、とにかくどこかに腰を下ろして休みたかった。手に持ったボストンバッグは水を含んでずっしりと重い。男は、足音を立てずに奥へと進んでいく。私はぐしょ濡れの靴を気にしながら、しかし脱ぐスペースがないので、履いたまま男の後についていった。

通された部屋は、壁に本物の暖炉が設えられた広い応接間であった。床には毛足の長い絨毯が敷き詰められており、部屋の真ん中には革張りのソファセットがあった。部屋の端に、二階へと続く階段がある。明かりは部屋の隅に置かれた二基のフロア・ライトスタンドだけで、全体の印象は暗い。窓に弾かれたカーテンのドレープが、その印象を強めていた。私が所在無く部屋の入り口に立ち尽くしていると、男から真っ白なタオルを手渡された。私は礼を述べてそれを受け取り、髪を拭い、服を拭いた。そうしていると、階段に足音がした。見ると、シンプルな白いシャツに紺色のスカートを穿いた若い女性が、微笑しながら降りてくるところであった。私の傍にいた初老の男が、その女性に軽く頭を下げ、私に小声で言った。

「当屋敷の主、美栄子様でございます」

私はフロアに降り立ったその女性に頭を下げた。

「突然お邪魔して申し訳ございません。ご厚意に感謝します」

「いいえ、それには及びませんわ。困った時はお互い様ですもの」

女主人は首を軽く傾げて見せ、優雅な物腰でソファに座った。「主」という言葉の感じから、私はもっと年配の男性を想像していたのだが、こんなに若い女性とは意外であった。たぶん、我が娘とたいして変わらない年齢であろう。いったい、この家は、どういう家なのであろうか。私には全くわからなかった。ただ、普通の家ではない、と直感的に感じていた。

「よろしかったらシャワーをお使いください。着替えも、新品のバスローブがございますわ。この雨は当分止みそうにないようですし、全身びしょ濡れのようですから、このままではお風邪をひいてしまいますわよ」

「しかし、そこまでいていただいては……」

私は恐縮して言葉を返しながらも、心は揺れていた。それは魅力的な提案であった。着ている服は絞れるくらい濡れているし、おそらくボストンバッグの中の着替えも同じであろうと推察できた。体も冷えているし、シャワーはありがたい。そんなことを考えていると、女主人は、そういう私の思いを見透かしたように、さらに言った。

「ご遠慮なさらずにどうぞ。その間に今着ていらっしゃる服を乾かして差し上げますわ」

「そうですか……では、お言葉に甘えて、そうさせていただきます」

私がそう答えると、女主人は初老の男にバスルームへの案内を命じ、新しいローブの用意と私の衣服の洗濯を命じた。その時、女主人は男を「坂本」と呼び捨てにした。私は、男の名前を知った。

坂本が「では、こちらへ」と恭しく手招きをし、私はそれに従って、バッグの中身を抱え、彼の後について部屋を出た。そして薄暗い廊下をバスルームへ向かった。その道すがら、私は訊いた。

「あのう、このお屋敷はあなたと美栄子さん、おふたりで住んでいらっしゃるのですか?」

「ええ、左様でございます」

それだけで会話は途切れた。坂本は、こちらの訊くことには答えるが、それ以外は決して率先して語ることがなかった。

脱衣室に入ると、坂本は私に「濡れた衣服は籠に入れておいてください」と言い残し、去っていった。私はその通りにして、裸になると、バスルームに入ってシャワーを浴びた。熱い湯に体を打たせていると、ドアの外に人の気配がした。

「こちらにバスローブを置いておきますので」

坂本の声であった。私は体の石鹸を洗い流しながら「すみません」と答えた。

じきにシャワーを終え、脱衣室に上がると、バスローブと一緒にスリッパが用意されていた。私はすっかり暖まった体を入念に拭き、新しいバスローブに身を包んで応接間に戻った。すると、ソファに腰掛けて分厚い本を読んでいた女主人が私に気づいて顔を上げた。本に栞を挟んで傍らに置く。私は礼を言った。

「ありがとうございました」

「いいえ」

静かに女主人が微笑む。私は、とりあえず自宅に連絡を入れておこうと思い、ボストンバッグの中から携帯電話を取り出した。しかし圏外と表示されていた。仕方なく、電話を貸してもらおうと思い、その旨を申し出ると、女主人は申し訳なさそうに首を横に振った。

「すみません。この家には電話がございませんの」

「そうですか……」

今時変わった家があるものだな、と思いながらも私は「いや結構です」と付け加えて電話を仕舞った。

私は連絡を諦め、女主人に勧められるままソファに腰を下ろした。そして、見るともなく本棚にびっしりと並ぶ本の背表紙を目で追った。すると、それは全て洋書であった。しかも英語ではなく、どうやらドイツの本であるらしかった。読めない文字ばかりである。女主人が、本棚を見つめる私の視線に気づいた。

「私、去年までドイツにおりましたの」

「ほう、そうですか」

私は答え、そういえばまだ自分が氏名を名乗っていないことに今更ながら思い当たり、言った。

「あっ、申し遅れました、私、一ノ瀬といいます。○△大学に勤めております」

「と、おっしゃいますと、先生でいらっしゃいますか?」

「はあ、まあ一応、民俗学を」

「ご立派ですわね。私は絵を描いております。といっても、それだけで食べていけるわけではありませんが」

「画家さんでいらっしゃいましたか。すると、この絵も?」

私は壁の抽象画を示して訊いた。それは、全体的に青暗く、芸術というもの全く疎い私には甚だ難解な絵であった。なんとなくではあるが、そこには蝋燭の炎が描かれているようではあった。

「まあ、そうですけれど、たいして威張れるものではありませんわ。素人絵です」

そう謙遜してから、女主人はテーブルの上に載っている小さなベルを持ち、鳴らした。間もなく坂本が姿を見せた。

「何か暖かいものを持ってきてちょうだい。一ノ瀬さん、お紅茶でよろしいかしら」

「ええ、結構です」

再び坂本が音もなく立ち去ると、女主人は雨が降り続く暗い窓の外を見遣って呟いた。

「止みませんわね」

私もつられて外を眺めた。雨脚は弱まるどころか先ほどまでよりもさらに強まって、木々がわさわさと揺れていた。私はふと、今何時くらいであろう、と思い、腕時計を覗いた。しかし、この雨で水が入ってしまったのか、時計は止まってしまっていた。改めて、私は壁に掛かっている大きな柱時計を見た。すると、四時半を回った時刻であった。列車を降りたのが確か二時半過ぎであったから、あれからもう二時間が経ったことになる。服が乾き次第、ここを辞して、ともかく宿へ向かわなければ完全に日が暮れてしまうであろう。そんなことを考えていると、女主人が私に訊いてきた。

「あの、一ノ瀬さん、失礼ですが、こちらへはどのような用件で?」

「いえ、ガイドブックを見ていましたら、温泉がありましたので、そちらへ行こうと」

「温泉って、もしかして」

女主人は、私の目的の温泉場の名前を言った。私が肯定すると、あらっ、と声を上げた。

「一ノ瀬さん、そこはこの山の向こうですわ。駅から歩いていらしたとすると、途中で道をお間違いになられたようですわ。ここからですと、車の通れるような道もございませんし、いったん今来られた道を途中まで戻って、そこからさらに一山越えなければなりませんから、優に三時間は掛かってしまいますわよ。どうでしょう。今夜はこちらにお泊りになられては。雨も当分上がりそうにありませんし、もう暗くなりますから。慣れない人の夜の一人歩きはあまりお勧めできませんわ」

「しかし、そこまでしていただいては」

「いいえ、こちらは構いませんのよ。山の中ですからたいしたもてなしは出来ませんが、ご迷惑でなければ、そうなさったら?」

「迷惑だなんて、そんな……とても有難いです。が、しかし……」

まだ私が惑っていると、坂本が紅茶を持って入室してきた。女主人はその銀の盆を受け取ると、私の前に紅茶を置いた。

「こんな山奥に暮らしておりますと、時々誰かとお話がしたくなるのです。ご迷惑かもしれませんが、これも何かのご縁ですから」

そんな風に言われたら、私に断る理由などなかった。確かに女主人が言うとおり、夜の山道をひとりで歩くことなど、心細くて、遠慮したかった。だから私はその申し出を受けることにした。

「そこまでおっしゃっていただけるのなら、是非そうさせていただきたいです」

正直なところ、電話は通じないし、雨も止まないしで、私は八方ふさがりといっていい状況であったから、その女主人の誘いはまさに渡りに船であった。先ほどまではこの屋敷に対して、どことなく得たいが知れない感じが拭えず警戒心があったのだが、女主人が画家だという話を聞いて、なんとなくこの独特の雰囲気が少しだけであるが理解できるような気がし、それも薄れていた。女主人は私の承諾の返事を聞いて、また坂本を呼んだ。そして、ベッドの用意を命じた。彼女の話によれば、この屋敷にはゲスト用の寝室が二階に三部屋あるということであった。

それから夕食までの時間、私達は様々な話をした。主に私が喋った。専攻している民俗学のことや、この地方の印象、そして話は社会情勢や経済にまで広がりをみせていった。その間に感じたことは、この女主人はかなりの博識であるということであった。言葉遣いや物腰には気品があり、知識と教養は、比べること自体失礼なのだが、うちの娘達とは天と地ほど違いがあった。彼女の話によると、年齢は現在二十三歳ということで、上の娘と同い年であった。あまり多くは語らなかったが、どうやら両親は既に他界しており、親しい身寄りはないようであった。私は二年前にヨーロッパを旅したことがあり、その時ドイツにも行ったので、ひとしきりその話題で盛り上がった。話の途中で服が乾いた。私は中座して脱衣室でそれを着、応接間に戻った。

しかし若く美しい女性がこのような辺鄙な土地に暮らしていて退屈ではないのだろうか、と私は大きなお世話だと思ったが、そしてもちろん口にはしなかったが、それを思わずにはいられなかった。これほどの女性なら、都会でも充分に活躍できるはずであるのに、勿体無い話だ、と私は話をしている間中ずっと考えていた。

やがて柱時計が六時を打ち、坂本が私達をダイニングへと誘った。またそのダイニングルームが、まるで映画のセットのようであった。長いテーブルに背もたれの高い椅子、そしてテーブルの上には銀の燭台が置かれ、何本もの蝋燭の炎が揺れていた。大きく増幅された影が壁に映る。

食事はフレンチのフルコースであった。おそらく坂本が全部調理したのであろう。坂本は前菜からデザートまで、完璧に計算しつくされた絶妙のタイミングで料理をテーブルに運んだ。私と女主人はよく冷えたシャンパンを開け、私はその食事を堪能した。坂本の料理の腕前は、いつか食べた有名なレストラン顔負けであった。

食後の珈琲を飲んでから、私達はチェスをやった。しかし何回やっても私は女主人に勝てなかった。気づくと、もう夜は更けて、十時過ぎになっていた。その頃には、私は彼女の知性と美貌に対して、年甲斐もなく尊敬の念を抱いていた。このような女性とひとつ屋根の下に暮らす坂本が、少々羨ましく思えた。

部屋には、絶えず古いレコードが流れていた。夜は深く静かに潜行し、暖炉には火が入り、薪がパチパチと爆ぜる音が、世界から隔絶されたこの屋敷の神秘性を際立たせた。私は暖炉の炎が女主人の白く端正な横顔に映って揺れるのを見て、まるで痴呆のようにその美しさに見惚れる瞬間さえあった。

それでもやがて十二時が近くなり、無情にも別れのときがきて、私は就寝の挨拶をすると、坂本に導かれて二階の寝室に下がった。そして、部屋に入り、ひとりになると、窓辺の椅子に座った。

何気なくカーテンを捲ると、既に嵐は去り、空には青い月が浮かんでいた。周辺の山々がその月光に照らされて青ざめて見える。どれだけ目を凝らしても人家と思しき灯はどこにもなく、幾重にも連なる山の稜線がまるで海のうねりのように広がっているだけであった。月光は部屋にも流れ込み、きちんと整えられたベッドの縁まで届いていた。

窓を開けると、引き締まった夜気が、浮ついた私の心の火照りを冷まし、鎮めていった。確かに私は魅力的な女主人に心を動かされていた。娘と同い年の女性に惑わされるなんて、まったくもって大人気なかったが、事実なのだから仕方なかった。

私は短い時間そんなことを考えてから、彼女への思いを断ち切るように、窓を閉めた。そして服を脱ぎ、ベッドに入った。冷たいシーツの感触が快かった。あまりに月の光が美しかったので、カーテンは開けたままにしておいた。雲が流れて月を隠すと、部屋も翳った。その明滅に、ゆっくりと眠気が重なってきて、私は目を閉じた。柔らかい眠りの波間を茫漠とした意識が漂う。

しかし、不意にそれは破られた。まどろみの中で、私は叫び声を聞いたような気がして、目を開いた。体を強張らせて、耳を澄ましてみた。が、何も物音はしない。

夢だったか……。私はそう判断を下して、もう一度目を瞑った。疲れているのだろう、と思い、シーツを引き上げる。すると、今度は、はっきりと聞こえた。それは確かに誰かが叫ぶ声であった。その声は、まるで夜を引き裂くように鋭く響き渡った。

私は弾かれたように身を起こし、ベッドを出た。服を着け、靴を履いて、そっとドアを開けてみた。しかし廊下は深と静まり返っていた。私はおずおずと廊下に出て、階段の方へ進んだ。邸内は死んだような静けさを湛えていて、床の軋みが心臓を締め付けた。私は階段を一歩ずつ下りながら、その時になって初めて女主人と坂本がこの屋敷のどこにいるのか知らないことに気づいた。

じきに一階に到達したが、応接間にもダイニングにも、またその他の部屋にも、全く人気配がなかった。ただ無人の廊下に黄ばんだ明かりが灯っているだけで、それに照らされた抽象画が、光線の具合でいっそう難解な世界を表現していた。

また絶叫が聞こえた。声は、どうやら廊下の突き当たりにあるドアの向こうから聞こえたようであった。私はそちらへ進んだ。そのドアの向こうに何があるのかはまるで不明だったが、私は何かに取り憑かれたかのように、ひたすら声のする方へ歩いていた。ドアの前まで来ると、私はそっと耳を当ててみた。すると微かに、何かが、誰かが、確かにその先にいる気配を感じた。

いったいこの先には何があるのであろう。私は好奇心に駆られて注意深くドアノブを回してみた。おそらく鍵がかかっているであろうと思っていたのだが、それは呆気なく回り、ドアは開いた。私は少々拍子抜けしながら、遠慮がちにドアを押し開き、細く開いた隙間から中を覗いた。すると中はこの廊下よりも薄暗く、ひんやりとした空気が流れてきて私の背筋を硬直させた。それでも、じっと目を凝らすと、どうやら内部にはまださらに奥へと伸びる廊下が続いているようだとわかった。ただ、こちら側の廊下とは随分趣が違う。壁も床も無機質なコンクリートが剥き出しである。明かりもなく、先の方から僅かに光が漏れているだけであった。だんだん暗闇に目が慣れてくると、どうやらこの先の廊下は十メートルほど前方で折れているようであった。弱い光は、その角の向こうから漏れてきていた。

私は体を廊下に滑り込ませ、後ろ手にドアを閉じると、足元を確かめるようにして一歩ずつ前進した。もう絶叫は聞こえていなかったが、静寂の中には何やら呻き声のようなものが紛れていて、それは耳をそばだてないと聞き取れないほどに弱々しかった。私は冷たい壁に手をつきながら、震えそうになる膝をどうにか宥めすかし、足の裏を引きずるようにして廊下をゆっくりと進んだ。足を一歩繰り出すたびに、その呻き声はだんだん近づいてきた。

やがて角まできた。私は恐る恐る顔を出して、その向こうを見た。すると、まだ廊下が続いていて、突き当たりに、重厚そうな木製のドアがあった。そのドアが僅かに開いており、隙間から細く光が差していた。

角からドアまではせいぜい五メートルといったところであった。ここまで来ると、くぐもった苦しげな呻き声とともに、女性と思しき声も微かに聞こえた。しかしどれだけ耳を澄ましてみても、何を言っているかまでは聞き取れなかった。

私は勇気を振り絞って足を踏み出すと、足音を殺してドアに寄り、床に這うような格好になって、数センチの隙間からそのドアの内部を覗いた。

あっ! もう少しで声を上げてしまうところで私はぐっと言葉を飲み込んだ。その部屋の中の光景は、果たして私の想像を遥かに凌駕したものであった。瞳に映った世界が脳に伝達され、それを理解するまでに多少の時間を要した。

まず視界に飛び込んできたのは、無数の蝋燭の炎であった。部屋の光源はその揺れる火だけであったが、内部の様子を把握するためには充分であった。そして、私は我が目を疑った。壁にX字の磔台があり、そこに、全裸の坂本が拘束されていたのである。坂本は手と足を大きく広げて立ち、その手首と足首を革のベルトで固定されていた。しかもよく見ると、その貧弱な裸体は、所々が赤かった。何かと凝視すると、やがてそれは全身に溶けた赤い蝋が付着しているのだとわかった。さらに、無数のミミズ腫れも走っている。

私は言葉を失っていた。言い知れぬ戦慄に背筋が凍りついた。ただ、不思議なのは、そのような状態にある坂本が、奇妙に満ち足りた表情を浮かべていることであった。それは苦痛と恍惚が同居しているような、この上なく不思議な、しかし幸福そうな表情であった。何なんだ? 私は激しく混乱した。そうして半ば茫然としていると、いきなり短い乗馬鞭がヒュンと空気を切って、坂本の胸に振り下ろされた。パシッという乾いた音が響いて、坂本の口から「うぐぅ」という呻き声が漏れた。高鳴る胸の動悸を抑えながらその様子を見守る私の目に、異様なものが入った。それは天を衝く坂本の性器であった。坂本はこのような状態にあっても、興奮しているのであった。どす黒い、エレクトしたペニスが、なんだか別の生物のように見えた。正直、気色悪かった。もう老境に差し掛かりつつあるといってもよい年齢だというのに、恥ずかしげもなく己の欲望の赴くままに発情している坂本の体が、ひどく卑猥に映ったのである。しかし、歳がいった者のあからさまな性の衝動に、ある種の悲愴感がつきまとうのは仕方のないことではあった。

窮屈な姿勢のまま私は苦労して、その鞭を振るっている人影を仰いだ。その頃にはもうそれが誰であるのかだいたいの予想はついていたのであるが、やはりこの目で確かめたいという気持ちが強かった。

踵の高いピンヒールが見えた。視線を上へずらしていく。白く長い脚。なまめかしい尻から腰にかけてのライン。レザーのボディースーツ。しなやかな背中。長い黒髪。

女性が髪をかきあげた。その白い横顔を蝋燭の炎が染める。思ったとおり、その女性はこの屋敷の女主人、美栄子であった。

女主人の冷徹な目が、磔台で身動きが取れないでいる坂本を見据えていた。坂本は必死の形相で詫びを入れている。

「お許しください、美栄子様」

坂本は泣いていた。大粒の涙をボロボロと零して。なのに、股間の性器はいきり立っていて、それが妙に生々しかった。女主人は煙草を吹かしながら、ゆっくりと坂本に歩み寄ると、煙を顔に吹きかけてから、その拘束を解いた。自由になった坂本が、すかさず女主人の足元にひれ伏し、額をコンクリートの床に擦りつける。

「ありがとうございます、美栄子様」

しかし女主人はそれには答えず、坂本の後頭部にヒールを乗せて、そのままぐりぐりと踏みつけた。坂本はそうされながらも、女主人の軸足に縋り、その彼女の踝のあたりを両手で包み込んでいた。女主人が、そんな坂本を見下ろしながら、冷たい口調で言う。

「坂本、お前の誠意を見せて頂戴」

女主人はそう言い、近くにあった豪奢な椅子に座ると、いきなりショーツを取って大きく足を開いた。股間の茂みや亀裂が丸見えになる。坂本が、嬉々としながら這うようにしてその間に進み出た。

「失礼いたします」

そう言うなり、坂本は女主人の股間に顔を埋め、一所懸命舌で彼女の性器を舐め始めた。女主人はそんな坂本の薄くなった髪を鷲掴みにして、ぐっと引き寄せ、その奉仕を受ける。

それが延々と十分以上も続いた。その間、女主人の押し殺したような喘ぎと、一心不乱に性器を舐め続ける坂本のピチャピチャという舌の音が、途切れることなく部屋に響いていた。私は息を止めて、吸い寄せられたようにその光景を見ていた。女主人はやがて、性器への奉仕に満足したのか飽きたのか、坂本の顔をヒールの底で押しのけると、そのままヒールを脱いで足の指を舐めさせた。その時の坂本の表情は、本当に嬉しそうであった。口いっぱいに女主人の足の指を頬張り、足の裏から指の間まで丹念に舌を伸ばしている。そして、坂本はそうしながら、なんと自分自身を手でこすり始めた。私は生まれて初めて他人が自慰をする姿を目の当たりにした。それは滑稽な姿であった。人間が猿から進化した動物だと改めて認識させられる瞬間でもあった。坂本は跪いたまま腰を浮かし、左手で女主人の足を支えて指をしゃぶり、右手で自分のペニスをしごいていた。

どれくらいそれが続いたであろうか。やがて女主人が唐突に坂本の額を蹴って後ろへさがらせた。そして、すくっと立ち上がった。腕を組み、仁王立ちになって坂本を見下ろす。坂本は床に両手をつき、そんな女主人を、まるで哀れな犬のような目で見上げた。坂本は何かを求めていて、それを女主人に目で必死に訴えているようであった。そしてついに耐え切れなくなったように坂本が切なげな声で言った。

「美栄子様、お願いでございます。この老犬めに、どうかお聖水を、どうかお聖水をお与えください!」

坂本は懇願していた。女主人は薄ら笑いを浮かべながら、そんな坂本を翻弄するように思案顔を作った。坂本はその視線に身悶えながら、両手を女主人の股の下に揃えて差し出す。

「どうか、どうかお願いいたします」

すると、女主人は「わかったわ」と言った。

「わかったわ、坂本。あげるから、もっと近くに寄りなさい」

「はい!」

目を輝かせて顔を上げた坂本の髪を、女主人は掴んで自分の股の下に引き寄せた。坂本が股間の真下で顎を上に向け、大きく口を開いて構える。そして次の瞬間、女主人は放尿を始めた。その雫が蝋燭の火に煌めきながら坂本の顔に降り注ぐ。坂本は必死になってそれを受けている。そんな彼を、女主人は両手を腰に当てて悠然と見下ろしていた。女主人の股間から迸る金色の水は、坂本の体を濡らし、床に染みていった。

坂本は猛然と自慰をしている。先ほどまでより遥かにその手の動きが激しくなっている。じきに放尿の勢いが弱まり、止まった。それと同時に、坂本は暴発した。白い粘り液がペニスの先端から噴き出す。

私は、その坂本の精液が放物線を描いて床に落下するのを見届けてから、静々と後ずさった。何か得体の知れない感情が私の中に生まれていて、私はそのことに戸惑っていた。

部屋に戻り、ベッドに座って月の光を浴びながら、いま目撃したばかりの場面を再び思い起こした。本心を言えば、坂本が羨ましかった。あの美しく知性溢れる女主人の前に自分自身の全てを投げ出して服従し、征服される喜びに悶える坂本は、とても幸福そうであった。あらゆるモラルや社会の様々な制約を脱ぎ捨て、本能の赴くままに自分の感情を素直に表現することが許されている、そんな坂本の自由が羨ましかった。私には到底できないことであった。私には妻も子もあり、大学教授という職があった。私はあまりにいろいろなものを背負いすぎていて、それは簡単に捨てられるものではなかった。確かに私は、美栄子という存在に跪きたかった。小水だって、飲めと言われれば喜んで受けたであろう。足の指だって、もしも許されるのであればもちろん舐めたかったし、性器への舌での愛撫なら、何時間だって続けたであろう。自分の醜い、誰にも見せられない部分を全て晒し、尊敬する人に身も心も捧げることが出来るなら、それはおそらく完璧な幸福の形といえる。

もう何も物音は聞こえない。あたりは静寂に支配されている。支配――。その言葉が私の脳裏を占めた。そうだ、坂本は美栄子という存在に、何の矛盾もなく支配されていたのである。何の矛盾もない支配……。それは支配する者と支配される者が全てを受け入れた上でのみ成立する稀有な信頼関係であろう。その関係は、この利害や虚栄が複雑に絡まりあって突き進む混乱の世界において、限りない平和と慈愛に満ちた、究極の奇蹟である。

私は結局、その扉の前に立ったものの、踏み出す勇気を持っていなかったのである。おそらく坂本は、そのラインを越えたのであろう。しがらみを捨て、美栄子という神に仕える僕となったのだ。

やはり、私には捨てられない。愛すべき妻と娘達の顔が浮かんだ。今頃どうしているであろう、と思う。窓の外に目を遣れば、星の数が普段の比ではなかった。天空にぎっしりと星屑が瞬いている。月が白く、まるい。黒い山々の緩やかな稜線が果てしなく広がっている。

美栄子という女性はまるであの月のようだ、と私は思った。闇の世界の遥か彼方に凛然と君臨し、その美は冷たく、それでいて優しい。跪いた者だけが、その愛の享受を許されるのであろう。日常の亀裂に覗く、固く閉ざされた禁断の扉を開くことが出来るのは、神に選ばれし者だけである。

瞼の裏側に、両手を腰に当てて涼しげに立つ女主人の美しい姿が焼きついている。その長い脚とハイヒールの尖った踵の残像が、私の煩悩を翻弄する。しかし、私は永遠にその温もりには触れられない。それは宇宙の果てよりも遠い。少し足を開いて立つ女主人の股の間は、時空の彼方に聳える天国の門である。

夢幻の夜……私は別の地平を垣間見て、その甘美なる旋律に足が竦んで動けなかった。華やかな暗渠は、私にとって、所詮は夢であった。私には平凡な日常がお似合いであった。毎日毎日資料を読み漁り、たいして意味もない論文を、誰の心をも揺り動かすことのない駄文を書き連ねながら、ひっそりと生きていくのだ。本当の自分の願望を封印し、常識の仮面をつけて、空虚なダンスを不様な格好で踊り続けるのであろう。いつだって誰かの目を気にしながら、電車の吊革に掴まり、決められた場所へと日参することのみが私の唯一の生の証であり、日の差さない研究室で自分の老いと向き合って、命をすり減らしていくだけの人生である。

不意に、絶望が私を襲った。気がつくと、私は泣いていた。聡明な月光が、頬を伝って膝へと落ちるその涙の雫を、瞬間、煌めかせた。私は、ベッドに崩れるようにして体を横たえ、そして目を閉じた。

……朝が来て、私は太陽の光と小鳥の囀りで目を覚ました。開いたままのカーテンの向こう、窓越しに、穏やかな風景が陽を浴びて輝いている。

やがてドアに控えめなノックの音が響き、坂本の声が聞こえた。

「おはようございます、一ノ瀬様。お目覚めでございましょうか」

「はい」

私は返事をし、入室を促した。坂本は朝から昨日と同じようにきちんと皺ひとつないタキシードに身を包んでいて、昨夜、あのような姿態を晒していた人物と同じとは思えない紳士的な態度で部屋に入ってくると、恭しく頭を下げた。

「ダイニングに朝食の用意が出来ておりますから、どうぞ」

「ありかどうございます、すぐに参ります」

私が答えると、坂本は音もなく踵を返して部屋から出ていった。私はその後ろ姿を見送りながら、服を脱いで裸になれば、彼の体には無数の鞭の跡がついているのだ、と思った。

服を着替えてダイニングに行くと、女主人は既に席に着いていた。薄化粧の顔は清楚で、朝の光とよく調和していた。テーブルにはフランスパンのスライスや、ベーコンのフライ、スクランブルエッグ、といった料理が並んでいて、私は「おはようございます」と挨拶をして、昨日と同じ席に座った。すかさず坂本が私のグラスにオレンジジュースを注いだ。

「昨夜はよくお休みになれましたか?」

女主人が微笑んで訊いた。私はオレンジジュースのグラスに手を伸ばしかけながら「はい」と頷いた。

「それは良かったですわ」

女主人がそう答えた時、気のせいか、彼女の顔に一瞬、意味深な笑みが浮かんだようであった。私は、顔が真っ赤になるのを自覚しながら、誤魔化すようにオレンジジュースを飲み、ナイフとフォークを持った。おそらく彼女は、昨夜私がドアの隙間から息を潜めて食い入るように覗いていたことを、あの時既に承知していたのであろう、と私は思った。寧ろ、知っていてわざと見せつけたのかもしれなかった。しかし、もしもあの時、私も坂本のように、躊躇することなく彼女に身を差し出していたら、果たしてどうするつもりであったのであろう。坂本と同じように、私にも慈悲を与えたであろうか。それとも、哀れな大学教授を蔑みの目で見据えたであろうか。わからなかった。ただ、ひとつだけはっきりしていることがあった。それは、その問いに答えなどない、ということである。答えどころか、そもそもその問い自体に何の意味もないのであった。

食事が終わると、私は部屋から荷物を取ってきて、女主人に一晩泊めてもらった礼を丁寧に述べ、暇を告げた。女主人は引き留めることもなく、「お気をつけて」と言っただけであった。私はもう一度深く頭を下げて、屋敷を辞した。

ドアのところまで坂本が送ってくれた。私は彼にも「お世話になりました」と礼を言ったが、やはり坂本も多くは語らず、「どうぞお気をつけてお帰りください」と言って頭を下げただけであった。

私は屋敷の門を抜け、未舗装の道に出た。歩みを進めるにつれ、洋館が背後に遠ざかっていく。空は昨日と打って変わって抜けるような青空であった。梢を渡る風は涼しく、木漏れ日が地面に踊っている。

しばらくは黙々と歩き、私はふと足を止めた。振り返ると、燃える紅葉の森の中に、洋館が陽を撥ねていた。頭上から、風に遊ぶ落葉が、光を翻しながら舞い落ちてきて、私の肩に止まった。

私は何気なく腕時計を見ようと上着の袖を捲り、左腕を持ち上げた。そうすると同時に、時計の針が止まっていることを思い出して、ため息をつく。

帰ったら時計を修理に出さなければならない。私は止まったままの腕時計を手首から外しながら、そう思った。

広告
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。