崩落

大きなビルの影が木造モルタル二階建てのアパートをすっぽりと被っている。ゆうに築三十年を越えるオンボロアパートだ。名前は『春風荘』という。

クボタトオルは顎の無精髭を撫でながら、そのアパートへ続く狭い路地を歩いていた。朝の光は、この路地には当たらない。じめじめとした影の中、貧相な鉢植えが、路地に面した民家の玄関脇に並んでいる。どこからテレビの音声が聞こえ、三月だというのに、ある民家の軒先では、錆びついた風鈴が吊るされたままだった。

日照権などまるで無視された都会の吹き溜まりのような場所。トオルは右手に小さなボストンバッグ、左手にコンビニのビニール袋をぶら提げて、夜勤明けの体を引きずりながら、どうにかアパートへ辿り着いた。

新聞受けから朝刊を取り出し、鉄製の階段を上がる。カンカンと靴音が響く。二階の一番奥、205がトオルの部屋だった。

薄っぺらいドアを開け、狭い玄関で靴を脱ぐ。四畳半の台所。廊下側の小さな磨りガラスの窓から乳色の光が差し込んでいる。トオルはテーブルにボストンバッグを置くと、奥の部屋に通じるガラス障子を開けて、寝室兼居間である六畳間に入った。

空気が澱んでいた。カーテンは閉め切ってあり、部屋は薄暗い。コタツの上には吸殻が山になった灰皿や、箸を突っ込んだままの空のカップ麺の容器やウーロン茶のペットボトルが散らかり、それらにうっすらと埃が被っている。いつ掃除をしたのか憶えていない床の絨毯にはポテトチップの欠片や何かの染みが所々にあり、漫画雑誌やエロ雑誌が読み捨てられていた。テレビのジャックに繋いだゲーム機のコードがとぐろを巻き、こんがらがっている。トオルは足で雑誌を除けると、腰を下ろしてコタツに入った。コンビニの袋を傍らに置き、コタツのスイッチを入れ、テレビをつける。背中を預けたシングルベッドの上には、脱ぎっぱなしの衣服があり、着ていた服をモゾモゾと脱いだトオルは、ベッドの上に手を伸ばし、コタツに入ったまま器用に体を折り曲げながら、スウェットの上下に着替えた。テレビの上にはボトルシップの失敗作が載っている。

トオルは今年、三十歳になる。現在は、一応正社員として、警備会社に勤めている。普段は、あるオフィスビルに配置されていて、一週間に二度の泊まり勤務があり、それがあけると休みだ。本来なら、明日は休みだと思うと心が浮き立つものだが、トオルは前の晩ほとんど眠っていないため、疲れていて、それどころではない。

朝のワイドショーを観ながら、トオルはコンビニ弁当を食べた。温められた漬物だけは不味いから残して、他は全部食べた。そして食べ終わると、ごろりと寝そべり、昨夜、仮眠室で手に入れたエロ漫画を読んだ。恋人などいないし、ここ一ヶ月くらいは風俗にも行っていないから、読んでいるうちにトオルはムラムラとしてきた。恋人なんてこれまでに一度もできたことはなく、経験は専ら風俗だった。だからこれまでにたくさんのオッパイを吸い、オマンコを舐めたが、その誰一人として本当の名前を知らない。お金を払わないセックスがこの世に存在するなんて未だに信じられないし、女性の肌とは、お金を支払って初めて触れられるもの、とそう当たり前のように認識している。当然、初体験も二十五歳と遅く、それもソープでだった。彼女ができない理由ははっきりしていた。身長が163センチとチビで、おまけに貧相なまでに痩せている平均以下の容姿もさることながら、なんといってもトオルは包茎で、それがコンプレックスになっていた。だから最近は、そのコンプレックスが昂じて、すっかりSMのマゾプレイにはまっている。美しくて若い女王様に小馬鹿にされ、詰られ、踏まれ、その目前で嘲笑されながらオナニーをすることに歓びを感じる。いつのまにか、そんな体になってしまった。

それでも、今でもたまに普通のヘルスやイメクラにも行く。勤務先であるオフィスビルには結構美人のOLが多く、その体にぴっちりと張り付いたスーツの尻のラインや胸の膨らみを見て、仕事中に勃起してしまうことも多々ある。ああ、やりてぇ、とは思うが、ただそれだけで、声など掛けられるはずかないし、何より、彼女達は警備員であるトオルの存在など完全に無視しているから、そんな時は、勤務が終わるとヘルスやイメクラへ直行し、OL風のコスチュームの女の子の体を隅々までペロペロと舐めて昂りを鎮める。この頃は慢性的に欲求不満だから、警備に就いていても、ロビーなどでスラリとした美人を見かけると、つい物欲しそうにジロジロと見てしまう癖がついてしまっていた。たまにそれを気づかれ、あからさまに軽蔑の眼差しを向けられることもある。そんな時、マゾ性が強いトオルは、たまらなくゾクゾクしてしまう。その相手が自分よりも若く、美しければ美しいほど、不細工な自分との対比が強調されてさらに欲情が煽られる。ああ踏まれたい、もっと蔑んで欲しい、オナニーを見られたい、嘲笑されたい……そんなことばかり考えてしまって収まりがつかなくなり、一度そうなったらもう何も手につかず、ひたすら終業を待ってSMクラブへ行き、思う存分発散する。そして思いっきりいじめられ、聖水を浴びながら射精して、初めて人心地がつくのだ。しかし、一度射精してしまうと、途端にいつも虚しい気持ちになり、深い自己嫌悪に陥る。そして、さっさとバスルームに消えた女王様のシャワーの音を、ひとりで聖水塗れのまま、ペニスをティッシュで拭いていると、俺は何をしているんだ? といつも思う。だけれども、二、三日もすれば、またムクムクとマゾ性が頭を擡げてくるから、困ったものだ。ほんと、どうしようもない。

トオルはエロ漫画を放り出し、ベッドのマットレスの下からSM雑誌を引き抜いた。グラビアのページを捲っていく。ページいっぱいに、冷ややかな眼差しで唾を垂らす女王様のお顔のアップがあって、ああ飲みたい、ああ顔にかけていただきたい、と切に思った。たまらずトオルはスウェットパンツを脱ぎ、はちきれんばかりに勃起しているペニスを握った。そしてその手を激しく上下に動かす。

二十九歳と十ヶ月になろうとしている男が、朝から薄暗い部屋でひとり妄想に耽り、グラビアでオナっているなんて、救いようのない光景だった。しかもいつしか左手には、一週間前に盗んできた、すぐ向かいのアパートに住む女子大生のストッキングを握り締めており、その股間に鼻を押し付けている。ただ非常に残念なことに、このストッキングは干してあるものを拝借してきたものだから、既に洗濯されてしまっている。しかし、充分に履きこまれたものらしく、縁取りのレースは所々ほつれ、厚くなった股間の部分はヨレヨレになっている。その女子大生には以前から目を付けていたので、このストッキングを入手したときは、思わずガッツポーズをしてしまった。それ以来、その女の子を近所で見かける度、俺はおまえの股間の沁みを舐めながらオナニーしているんだぜ、と歪んだ興奮を覚え、しかし同時に、でも出来ることならあなた様の汚れたアソコの匂いを嗅ぎたいのです、そしてその姿を見ていただいて嘲笑されたいのです……と卑屈なマゾ性を露見させたい衝動に駆られて、余計に悶々としてしまう。

やがてトオルは射精した。ペニスを拭き、雑誌をしまい、ストッキングを枕の下に入れた。そして、そのままコタツの中で眠る姿勢をとった。もうベッドによじ登ることすら億劫だった。

「クボタくん、そろそろ見回りの時間だよ」

警備詰所の畳の上で寝転がりながら漫画を読んでいたトオルは反射的に腕時計を覗いた。午前二時五分前だった。一緒に当直をしている中田年男、通称ナカさんにそう言われて、トオルは起き上がると、懐中電灯を手に持った。テレビは深夜映画をやっていて、それを横目に週刊誌を捲っているナカさんは、警察のOBで、歳は六十代半ばのベテラン警備員だ。二時間毎の深夜の巡回はふたりで交互にすることにしている。

トオルは鍵の束と懐中電灯を持って詰所を出た。懐中電灯を灯し、暗い廊下を進んでいく。まずエレベーターで十階まで一気に上がり、それから各フロアを巡回しながら下りてくるというのが、巡回の手順だった。それほど大きなビルではないので、所要時間は約三十分だった。だいたい、異常などこれまでに一度もなかったから、気楽なものだ。ただ、無人のオフィスというのは、あまり居心地の良い場所ではない。だからチラッと覗いてそれで終わりだ。そして、そんなことを繰り返して全部の部屋を回れば、任務は完了となる。

しかし今日のトオルは密かな決意を胸に秘めていた。今日こそは禁断の聖域である女子更衣室に潜入し、女子社員のロッカーを漁るつもりだった。以前からずっと目を付けているOLがふたりいて、しかし今まではそのOLがどこのオフィスで働いているのかわからなかったのだが、偶然にも今日の昼間、それが判明した。たまたま警報装置の点検のために七階の廊下を歩いていたら、そのふたりが連れ添ってあるオフィスから出てくる場面に遭遇したのだ。その瞬間、今夜の決行を決めた。名前だけは、既にふたりとも胸の名札で確認済みだった。

十階、九階、八階、と適当に見回って、やがて七階に着いた。逸る気持ちを抑えて更衣室へ直行する。トオルはドキドキしながら鍵を開けて中にはいった。念のために、すぐに中から鍵をかける。

スチール製のロッカーがずらりと並んでいる。トオルは名札に懐中電灯の光を当てながらチェックしていった。一列目には、ふたりの名前はなかった。もしかしたらここのオフィスではなかったのか? と少し不安になりながら、次の列へ移動した。そして再び名札を照らしていく。しかしなかなか見つからない。だんだん焦ってきた。使える時間は限られている。あまり遅いとナカさんに不審がられてしまう。そんな風に焦り始めた頃、ようやくふたりの名前が見つかった。ラッキーなことに、ふたりのロッカーは並んでいた。イノウエハルカとクニヤスルミ。トオルはその名前を確認し、まずイノウエハルカのロッカーを開けた。しかし、たいしたものは入っていなかった。制服が無造作にハンガーに掛けられていただけで、他には何もなかった。扉の裏側に彼氏とのツーショットで撮ったプリクラが貼ってあった。とりあえずトオルはロッカーの中に頭を突っ込み、制服に鼻を押し当てて香水の仄かな残り香を嗅いだ。ついでに白いブラウスの腋の部分にも鼻を当てたが、何も匂わなかった。期待が大き過ぎたからか、この結果に大きく落胆しながらトオルはイノウエハルカのロッカーを閉め、次に、クニヤスルミのロッカーの扉を開いた。こちらは、期待を裏切らなかった。たちまちトオルの目は輝いた。やはり制服が掛かっていたが、何より、その下の棚に伝線したストッキングが丸められて置いてあり、それが目に飛び込んできた瞬間、トオルは、おおっ、と歓喜した。ストッキングの他にも、いろいろなものが入っていた。それはトオルにとって、まるで宝の山のようだった。クニヤスルミのロッカーはイノウエハルカのそれとは違って、どことなく乱雑な印象だった。雑誌も何冊か溜まっていたし、デオドラントスプレーや爪を磨くセットなどが、上部の棚に押し込まれていた。そして棚の一番下には、社内用と思われる踵の低い白い合皮のパンプスがあった。

早速トオルはパンプスを手に取った。それはかなり履きこまれていて、中敷は脂で黒ずんでいた。たまらず顔を近づけてみたが、皮の匂いしかしなかった。続いて、トオルは靴の中に舌を差し入れ、中敷の奥のほうを舐めてみた。味はよくわからなかったが、そんなことをしている自分の変態さに興奮してしまった。トオルは我慢しきれなくなって、たまらずズボンのチャックを下ろすと、既にギンギンに勃起しているペニスを引っ張り出して、それを中敷に擦りつけた。先走り汁が黒ずんだ皮に、糸を引いて付着した。ああルミ様ー、とトオルは心の中で悶絶しながらストッキングにも手を伸ばし、爪先の匂いを嗅いだ。ここはいい匂いがした。今日の夕方に捨てられたばかりなのか、温もりこそ既に失われていたが、汗と脂の入り混じった相当な芳香が堪能できた。トオルは爪先部分を口に入れてしゃぶり、次に、クロッチの部分をまじまじと眺めた。この布はさっきまでルミ様のアソコに、パンティ越しとはいえ密着していたのだ……そう思うと、こんなありふれたナイロンでさえ何か高貴なものに思えてきた。トオルは少しでもクニヤスルミの体臭感じようと、ストッキングを裏返し、股間部分の内側の匂いを嗅ぎながらペニスを握り、その場でシコった。はあはあ、という乱れた呼吸音が殆ど真っ暗な更衣室内に響いた。

孤独な妄想に耽っていると、トオルはあっという間に射精してしまった。精液は派手に飛び、ロッカーの内部、制服のスカートに付着してしまった。トオルは慌てて自分のハンカチでそれを拭った。しかし、うっすらと沁みが残ってしまった。明日の朝にはゴワゴワになっているかもしれない……しかし、それでも犯人が自分だとはわからないだろう。トオルはそう判断して、ストッキングとパンプスを戻すと、ロッカーの扉を閉じた。そしてハンカチでペニスを拭ってズボンの中にしまうと、平然と更衣室を後にした。

廊下は勿論暗く、無人だった。時計を見ると、夢中になっていたから気づかなかったが、巡回を開始してからもう二十分以上が経過していた。少々時間が押している。このまま通常の巡回をしたら、目安である三十分をはるかに越えてしまい、ナカさんに不審がられてしまいそうだ。トオルはそう考え、七階から三階までをパスすることにした。それでもエレベーターを使って下へ降りたらたちまちバレてしまう恐れがあったから、慎重を期して階段を使った。

詰所に戻ると、トオルは何食わぬ顔で「異常ありません」とナカさんに報告を済ませて、警備日誌にもそのように記入した。ナカさんが「ちょっと寝るわ」と言って、奥の仮眠室へ向かった。トオルは日誌を閉じ、椅子の背凭れに凭れかかりながら煙草に火をつけた。

それにしても貴重な体験をしたな……トオルは煙草を吸いながら、つい今しがたの体験を反芻した。あのしっとりとしたナイロンの感触が掌にまだ残っている。

クニヤスルミ……トオルは彼女に思いを馳せた。身長は165センチくらいで、バストはかなり大きい。尻のボリュームもなかなかの迫力だ。いつもぴっちりとしたスーツを着ているから、そのグラマラスな肢体は相当強調される。そしてスカートは短いことが多いから、その太腿はたまらなく魅力的だ。顔はどちらかというと童顔だが、くっきりと大きい目は猫を思わせる鋭さを持ち、唇は厚めで肉感的だ。髪は茶色で長い。歳は二十歳を過ぎたくらいか、これはイノウエハルカも大差ないと思う。ふたりとも去年の今頃は見かけなかったから、去年の三月に短大でも出て勤め始めたとしたら、それくらいの年齢だろう。

続いてイノウエハルカを思った。彼女は、なんといっても背が高い。170センチはある。体は細めで、クニヤスルミほどスタイルは目を惹かない。しかし脚が長く、太くも細くもなくて、本当に素晴らしい。たぶん学生時代にスポーツをやっていて、鍛えられたのだろう、筋肉質でがっしりと引き締まった体をしている。力もありそうだ。顔はかなりキツい。化粧のせいもあるだろうが、気が強そうだ。またそれがマゾ性を刺激するからいいのだけれども、とにかく目が鋭い。クニヤスルミのそれとは少し色合いが違って、まさにそのままプロの女王様として通用しそうな目をしている。あのスタイルでボンデージに身を包んだら、たいていのM男は無条件で跪き、調教を乞うだろう。そして、冷酷さを漂わせる薄い唇から侮蔑の言葉をいただくことができたなら、それだけで昇天ものだ。

トオルは煙草を消し、これからは退屈なだけの夜勤も楽しくなりそうだ、と頬を緩めた。そして、いつかいじめてもらえたら最高なのになあ、と思った。

クボタトオルの日常は、その日を境にして、急速に変態への坂道を転がり落ちていった。夜勤の度に更衣室へ忍び込むことなど当たり前になり、先日、ついに女子トイレに盗撮用の小さなCCDカメラまで設置してしまった。なかなか角度がうまく決まらず、何度か試行錯誤を繰り返した。股間と放尿の様子がきちんと画面に収まると顔がわからず、顔をわかるようにすると、肝心な部分が映っていなかったりした。しかし調整は無人の深夜にしかできないから、いつしか一週間に二度の夜勤を心待ちにするようになった。それでも苦労の甲斐があって、ちゃんと撮影できるようになった。もちろんそれには、イノウエハルカとクニヤスルミの姿もばっちり入っていた。嬉しいことに、クニヤスルミの場合は、小だけでなく、大も映っていた。ずっと便秘でもしていたのか、素晴らしく太く立派なものが、呻き声とともに捻り出されていく様子は圧巻だった。

本当はしばらくの間、ずっと設置しておきたかったのだが、さすがにバレるのが怖くなって、思うような映像が撮れた次の夜勤のときに、名残惜しかったが撤収した。盗撮で犯罪者になることだけは避けたかったのだ。

そして給料が支給された日の夜、トオルは二ヶ月ぶりくらいにSMクラブへ行った。風俗誌でリサーチをして、いつもの店ではない、初めてのクラブへ行った。その店へは、一度しか行かないつもりだった。そこで自分のこれまでの行為――更衣室への侵入や盗撮――を告白し、それをネタにいじめてもらおうと考えたのだ。だから、いつもの店では少々具合が悪かった。意外と女王様同士は横の繋がりがあるので、よく行くクラブだと、自分のことが知れ渡ってしまうかもしれない、という危惧があった。なぜならトオルは、ひとりの女王様に仕えるタイプのM男ではなく、いろいろな女王様に調教を受けることを好むタイプのM男だったので、だいたい行く度に相手の女王様を変える。だから必要以上に自分の話が広まってしまうのは、非常に困るのだった。それに、犯罪として完全に成立してしまう行為を告白するのだから、まかり間違っても二度と会わないという保証がないと、さすがに腰が引ける。

その初めてのSMクラブは繁華街の外れにあった。電話をしてみると、プレイルームが五部屋しかないということだったので、とりあえずルームだけを予約して、トオルはいそいそと出かけた。

人気の少ない裏通りに面した小さなビルがそのクラブだった。厳めしいドアがあり、中に入ると待合室で、暗い鏡張りの壁には、所属している女の子の写真が並んでいた。トオルは、横一列にずらりと並べられた椅子に座り、「予約したスズキですけど」と予め用意した偽名を、ウーロン茶を持って現れた黒服のボーイに告げた。ボーイは頷き、写真に簡単なプロフィールが付いた、すぐにプレイが可能な女の子のファイルを提示した。それは五枚あった。トオルはそのファイルを丹念に見ていった。そして、サヤカという女王様を選んだ。十九歳、身長170センチ、バスト90というプロフィールが目を惹いたからだ。ボーイは、「かしこまりました」と恭しく頭を下げ、トオルは料金を支払った。

すぐに奥の控え室のドアが開いて、大きなバッグを手に持ったサヤカ嬢が出てきた。トオルは、「三階のお部屋になります、どうぞ、行ってらっしゃいませ」というボーイの言葉に送られて、一旦店を出た。入り口のドアの脇に階段があり、そこからプレイルームへ上がる造りになっているのだった。ドアを出て、ボーイの姿が消えたところで、サヤカ嬢は背後からトオルに「これ、持って」と声をかけ、大きなバッグを差し出した。もうこの時点から既に主従関係が始まっているのだった。トオルは戸惑いながらも慌ててそれを受け取り、サヤカ嬢について階段を上がった。逞しい太腿がすぐ目の前で躍動し、短いスカートの奥にパンティがチラチラと覗く。トオルが後ろから食い入るようにその部分を見続けていると、その視線を感じ取ったサヤカ嬢が不意に立ち止まって振り返り、「何を見てるの、変態」と怖い顔で言った。トオルは咄嗟に俯き、小声で「すみません……」と謝りながらも、これは相当な女王様だぞ、と心の内で思った。通常、プレイに入る前は、だいたいどんな女王様でも普通に話す。いうなれば、客とコンパニオンという関係だ。あくまでも、殆どの女王様は、客が裸になってシャワーを終え、女王様の前に進み出たところから、射精し、ありがとうございました、とご挨拶をするまで、つまり、プレイの時間だけ、女王様然とした態度をとる。だから始まる前と終わった後は、わりと砕けた話なんかしたりするし、言葉も丁寧なものなのだ。いきなり、こんな風に命令はしない。そこにトオルは戸惑いを覚えたが、そんな何気ない遣り取りが、トオルのマゾ性に火をつけたのも確かで、嬉しくてゾクゾクした。

部屋に入ると、まず簡単なカウンセリングがあった。どんなプレイが好きなのか、出来ないことはあるか、などを訊かれた。トオルは自分の希望を伝えた。プレイはなるべくソフトで。出来ないのは浣腸くらい。言葉責めと脚が何より好きです。椅子に脚を組んで座るサヤカ嬢を、床に正座して見上げながら、トオルは言った。サヤカ嬢は、そんなトオルを冷ややかに見下ろしながら「この店にはギャラリーといって、最後にイク時だけ他の女の子に見てもらえるというサービスがあるけど、勿論無料よ、で、どうする? 見てもらいたい?」と訊いた。トオルは、「お願いします」とこたえた。そんなサービスは初めてだった。最初から二人の女王様に責められるというコースはよくあるが、見ているだけ、それも最後だけなんて、うまくM男の見られたい願望に応えているな、と思った。大勢の女性の前で辱めを受けたいと願っているM男は多いに違いない。そういうタイプは、大勢に踏まれたり蹴られたりしなくても、見られて嘲笑されるだけでいいのだ。また、トオルはまさにそのようなタイプのマゾだった。

プレイはなかなかツボをおさえた、いいものだった。サヤカ嬢はトオルを裸にして縛り上げると、首輪を装着し、蔑み、焦らし、唾を吐きかけた。鞭や蝋燭は使わず、視線と言葉とビンタで責めた。絶妙なタイミングで足を舐めさせ、プレイは滑らかに進行した。トオルは当初の予定通り、自分が職場で行った更衣室でのロッカー漁りやトイレにCCDカメラを仕掛けたこと、さらに家の近所でストッキングやパンティを盗んだことなどを告白し、それを厳しい口調で責めてもらった。そうして濃密な時間をトオルは過ごした。

やがて最後のときが近づき、サヤカ嬢が「何人くらいの女の子に見られたい?」と訊いた。トオルは「何人でも結構です」とこたえた。するとサヤカ嬢は壁に取り付けられているインターフォンの受話器を取り上げて、事務所を呼び出した。そして「ギャラリーをお願いします」と言った。短い遣り取りがあった後、サヤカ嬢は電話を切り、ベッドの脚に鎖で繋がれているトオルに向かって「今、みんな出てて、ひとりしか来られないって」と言った。

すぐに、階段を誰かが上がってくる固い靴音が聞こえてきた。トオルは胸の高鳴りを抑えることが出来ず、緊張した。これまでに、複数の女性にオナニーを見られるなどという刺激的な経験は皆無だった。だから不安もあったが、それ以上に期待のほうが大きかった。サヤカ嬢が「ほら、イヤらしくオナニーしなさい! 見られたいんでしょ? 自分の恥ずかしいオナニー姿を!」ときつい口調で命令した。トオルは「はい!」とこたえて、猛然と自慰を開始する。

やがてドアが開いた。トオルは思わず顔を伏せてしまった。それでも、茎をシゴく手だけは止めなかった。すかさず、部屋に入ってきた女性が「顔を上げな!」と言った。はいっ! トオルは弾かれたように顔を上げてその女性を見た。そして、心臓が止まりそうになってしまった。なぜなら、なんとそこにいたのは、イノウエハルカだったのだ。確信はなかったが、とてもよく似ており、たぶん間違いないだろう、とトオルは思った。しかし、どうやら彼女のほうは、目の前にいる全裸の男が自分の働いているオフィスビルの警備員だとは、まだ気づいていないようだった。それが僅かな救いだった。どうかずっと思い出さずにいて欲しい……トオルは祈るような気持ちで思った。

そのイノウエハルカと思われる女性は、プレイではないからか、普通のスーツ姿で、ボンデージは着ていない。しかし、そんな普通の格好の女性の前のほうが、一層羞恥心が煽られる。

「ほら、女王様がもうひとり来てくれたわよ。ちゃんとお礼を言いなさい。そして、恥ずかしいオナニーを見てもらいたかったら、お願いしなさい。っていうか、もうしてるか、ハハハ」

サヤカ嬢が言う。トオルは、どうか自分の素性がバレませんように、と祈りながら、それでもシコる手は止めずに、言った。

「女王様、ありがとうございます。どうか、ボクのオナニーを見てください」

イノウエハルカと思しき女性は、それを聞いて、呆れたように、あからさまに軽蔑して言った。

「まったく猿みたいね。そんなところに首輪で繋がれてシコってるなんて。ほんと変態丸出し……ねえ、おまえ、自分よりも年下の女の子ふたりにそんな姿を見られて恥ずかしくないの?」

「は、恥ずかしいです……」

トオルは情けないくらい小声でこたえた。

「なのに、見られたいの?」

「は、はい……」

「変態だねー」

そんな遣り取りの後、サヤカ嬢が、トオルを奈落の底へ突き落とすようなことを命じた。

「おまえ、さっきわたしに告白したことを、この女王様にも聞いてもらいなさい」

「えっ?」

トオルが狼狽していると、興味を示したイノウエハルカらしい女性が「こいつ、何を言ったの?」とサヤカ嬢に訊いた。

「こいつ、すごい変態なのよ。っていうか、犯罪者よ。ほら、早く言いなさい!」

再度命じられて、トオルは観念し、恐る恐るという感じで、まずは家の近所で下着類を盗んだことを告白し、続いて、更衣室荒らしと盗撮の件を切り出した。その途中で、イノウエハルカらしい女性は顔色を変えた。しかし、すぐにそれは消えて、彼女はニヤリと笑った。その瞳を見て、トオルは、自分がビルの警備員だとついにしれてしまったことを悟った。それでも、なぜか彼女は「変態!」とか「最低ー」と顔は顰めたが、トオルの素性については何も言わなかった。それが逆にトオルにはとても不気味だった。

じきにトオルはフィニッシュを迎えた。何度も寸止めで焦らされた末、ようやく射精の許可が出て、トオルはふたりの女性の前で盛大に精液を噴出させた。それは、今までに味わったことのない快感だった。すさまじいまでの充実感とともに大量の精液が噴き出し、どっと疲れたが、とても爽快な気分でもあった。トオルは、ふたりの前で床に額を擦りつけて「ありがとうございました」とご挨拶をしてから、そのままふたりに見下ろされながら汚れたペニスをティッシュで拭った。その間、イノウエハルカらしい女性は意味深な笑みを浮かべたまま、ずっとトオルの様子を眺めていた。トオルはその視線を後頭部に強く感じたが、顔を上げることはできなかった。

やがてイノウエハルカらしい女性は部屋から出ていき、サヤカ嬢とまたふたりきりになった。

「どうだった? 見られて興奮した?」

サヤカ嬢がロープ類を片付けながら、これまでとは打って変わった、ざっくばらんな優しい口調で訊いた。トオルは素直に今の快感を認めて、頷いた。

「はい。凄く興奮しました」

「そうよねえ。日常生活じゃ殆どありえないもんね、複数の女性にオナニーを見られるなんて。でも、あの更衣室とか盗撮の話って実話なの?」

そう訊かれて、トオルは首を横に振った。

「もちろん作り話ですよ。一度、ああいうシチュエーションで責めてもらいたかったのです。ところで、今の女性はなんという人ですか?」

さっきから気になっていて仕方なかったことを、トオルはあくまでもさりげなさを装って訊いてみた。

「ああ、今の娘はサクラちゃんよ。なかなか美人でしょ。昼間はOLをしてるんだって。で、夜だけこのバイトをしてるらしいわ。確か、まだ女王様を始めて半年くらいよ」

サクラというのはいかにも源氏名だった。だからといって、本名なんて訊いたところで、絶対に教えてはもらえないだろう。トオルは、それ以上の探求を諦めて、「シャワーを浴びていらっしゃい」というサヤカ嬢の声に促されてシャワー室に入った。

また来てね、というサヤカ嬢に送られて店を後にしたトオルは、駅へ歩きながら、サクラという女性のことを考えた。どう考えてもあれはイノウエハルカだった。とくに、あの告白を聞いたときの彼女の目は、何かに気づいた目だった。あの瞬間の彼女の瞳が、脳裏に焼きついていて、なかなか消えそうになかった。あのとき、きっと自分の正体がバレてしまったに違いない……。

しばらく歩いて次第に冷静に物事を考えられるようになるにつれて、トオルは不安になってきた。確かに今夜のプレイは最高だったが、もしも更衣室荒らしだの盗撮だのがイノウエハルカの口から広まってしまったら、自分は間違いなく仕事をクビになるだろう。いや、それだけで済むならまだマシだ。下手すると、警察に捕まってしまうかもしれない。更衣室への侵入もトイレの盗撮も、明らかに犯罪なのだ。そんなことを想像していると、トオルはたまらなく憂鬱になってきて、今更ながら自分のしてしまった事が怖くなり、後悔の念が湧いた。

まずいなあ……本当にどうしよう。トオルは深い自責と後悔に苛まれつつ頭を抱えながら、トボトボと家路を辿った。

翌々日、クボタトオルは出勤すると、調子が悪いからといって巡回業務から外してもらい、一日中モニター室で過ごした。イノウエハルカに遭遇するのが怖かったからだ。しかしモニター室という隔離された部屋にいると、自分の知らないところで話が勝手に広がっていくような想像に苛まれて、ひどく落ち着かなかった。それでも、なんとか何事もなく一日は終わり、六時になると、トオルはやれやれと胸を撫で下ろして、タイムカードを押した。

これから毎日怯えて暮らすのか……そう思うと、気分は沈んだ。配置換えでも願い出ようか。そんなことをぼんやりと考えながらトオルは警備室を辞し、通用口からそそくさとビルの外へ出た。

ポケットに両手を突っ込んで夕暮れの風に背中を丸めながら、ネオンが灯りだした薄暮の街を歩いていく。そのとき、背後から「スズキさん」と声を掛けられた。その言葉には茶化すような響きが込められていた。トオルはドキリとして立ち止まり、振り返った。するとそこには、腕を組んで立つイノウエハルカと、その隣にクニヤスルミの姿があった。

「やっぱり一昨日の客はおまえだったのね」

長身のイノウエハルカが見下ろすようにして言う。トオルも、証拠などないのだから人違いだと言って否定すればよかったのに、スズキと呼ばれて振り返ってしまったし、根が正直者だから、咄嗟に反論などできず、観念したように口を噤んでしまった。腕組みしたままのふたりが、じりじりと近づいてくる。幸か不幸か周囲には人影がなく、トオルは黙ってその場で立ち尽くし、彼女達の接近を受け入れてしまった。

「ちょっとついていらっしゃい」

有無を言わせぬ口調でイノウエハルカが言い、トオルはそれに従った。三人は駅の近くの喫茶店に入った。

その店は、高い衝立で各ボックス席が仕切られており、全体的に落ち着いた造りになっていた。上品なクラシックのBGMがささやかな音量で流れている。三人は奥まった席に着いた。イノウエハルカが、注文を取りにきたウエイターに、自分とクニヤスルミの分だけコーヒーを注文し、顎でクボタトオルを示すと、「悪いけど、こいつは水だけでいいの」と言ってウエイターを解放した。ウエイターは怪訝そうな顔で、席に着いてからずっと俯いたままのトオルを一瞥したが、手順どおりに注文を確認して立ち去った。

トオルは、そんな風に扱われても、何も言い返すことができなかった。ひどく自分が惨めに思えてならなかった。きちんとしたスーツ姿の若く美しい女性ふたりの前で俯く、鼠色のジャンパーに色の落ちたジーンズを履いているみすぼらしい格好の自分……。俯いた視界には汚れたスニーカーが見える。

「前から変だとは思ってたのよねえ。なんか朝来てみると、帰ったときとパンプスの向きが違っていたり、物の位置が動いていたり……でも勘違いかなあと思ってたんだけど、まさかおまえが深夜に忍び込んでいたとはねえ……今朝、ハルカからおまえのことを聞いてびっくりするやら、あきれるやら、腹が立つやら……ねえ、変態ガードマンさん」

煙草に火をつけて、情けないくらいにオドオドしているトオルの顔を覗き込みながら、クニヤスルミが言う。

「すみません……」

トオルは俯いたまま、消え入りそうな小声で謝罪の言葉を述べた。イノウエハルカがすかさず、テーブルの下でトオルの足をパンプスの先で蹴りながら詰め寄る。

「おまえなあ、ちゃんと人の目を見て謝れよ。まったく誠意が感じられないんだよ」

トオルはビクンと体を震わせて顔を上げると、怯えた捨て猫のような目でふたりを見、もう一度深々と頭を下げた。

「本当にすみません。もう絶対にしませんから、どうかお許しください」

ちょうどそのとき、タイミング悪く、ウエイターがコーヒーを持って現れた。明らかに年上の男が年下の女性ふたりに頭を下げているその異様な光景に、ウエイターは一瞬目を見張ったが、すぐに平静を装って、コーヒーをふたつ、イノウエハルカとクニヤスルミの前に置いて下がった。

「今ここで、おまえがやったことを大声で言ってあげましょうか」

コーヒーに口をつけて、イノウエハルカが言う。

「どうか、お許しください」

トオルはひたすら頭を下げ、許しを乞うた。とにかく、もう恥も外聞もなかった。ただ謝罪するしかなかった。そんなトオルに、イノウエハルカとクニヤスミルミは、交互に侮蔑の言葉を浴びせた。ほんとに変態なんだから。頭悪いんじゃないの? どうしようもないダメ男ね。情けなくないの? SMクラブなんかへ行って虐めてもらって喜んでるなんて、最低。センズリなんか見られて興奮するの? おまえ、おかしいんじゃない? 頭、大丈夫? っていうか、おまえ、人間? ハハハハハ。

そんな屈辱的な言葉を次々に浴びせられたが、トオルはじっと耐えた。というより、むしろ、そんな風に言われて、哀しい性かな、トオルの下半身は猛々しく反応してしまった。

「ねえ、まさかとは思うけど、これだけ言われながらも、勃ってるんじゃないでしょうね。何せおまえは変態マゾ男だから」

イノウエハルカが見透かしたように言い、テーブルの下でパンプスを脱ぐと、脚を伸ばしてトオルの股間をズボンの上から足の裏で弄った。

「やだあ、こいつ、カチカチに勃ってるわよ。救いようのない変態だわ」

「うっそー。馬鹿じゃない? でも本当にいるのね、マゾって」

口々に女性から言葉で罵られて、トオルの顔は真っ赤になった。しかしそれは言うまでもなく怒りからではなく、辱めを受けた喜びのために興奮してしまったからだった。やがてイノウエハルカはコーヒーを飲み干すと、バッグから紙とボールペンを取り出し、トオルの前に置いた。

「ここにおまえの電話番号と家の住所を書きなさい。明日の朝、私たちがおまえをいじめに行ってあげるから」

「ほ、本当ですか?」

それはあまりに唐突であり、予想外の展開だったので、トオルはびっくりし、瞬間的に訊きなおしてしまった。その声は、みっともないくらい裏返ってしまっていた。

「何、目を輝かせているのよ。本当よ。私たちはオトコをいじめるのが好きなの。もしかして、私たちがおまえのことを誰かに言うんじゃないかって思ってたの? バカねえ、そんな勿体無いこと、するわけないじゃないの。せっかくの絶好の獲物っていうか、玩具が見つかったっていうのに。それに、弱みを握っておけば、逃げないだろうし。ねえ、ルミ」

「そうよ、ハルカの言う通り。わたしね、一度、おまえみたいな変態を徹底的にいじめてみたいと思ってたのよ」

クニヤスルミが楽しそうに言った。

「まさか、拒否なんかしないでしょうね。何をされても文句が言える立場じゃないってことくらい、いくらおまえがバカで変態でもわかるでしょ? 拒否したら、わかってる? おまえがしたことを全部バラすわよ」

脅すようにそうイノウエハルカに言われて、トオルは「とんでもないです」とこたえた。

「じゃあ、早く書きなさい」

促されて、トオルはボールペンを持ち、住所と電話番号を書いた。そして書き終わると、それをイノウエハルカに提出した。「春風荘の205ね」と確認するように言って、イノウエハルカはその紙をバッグにしまった。

「それじゃあ、明日の朝、十時くらいに電話をするから、待ってなさいよ」

イノウエハルカはそう言うと、席を立った。続いてクニヤスルミも腰を上げ、伝票をトオルのほうへ押しやって、「おまえみたいな変態と一緒に出るのはイヤだから、おまえは少し待って後から帰りなさい」と言い捨てた。そして、ふたりは店から出て行った。

トオルは、きっかり三分待ってから、席を離れた。レジで、好奇心を丸出しにして自分を見るウエイターの視線に耐えながら、支払いを済まし、トオルは逃げるように店を出た。

当たり前だが、もう、どこにも彼女達の姿はなかった。

いまいち彼女達の言ったことが信じられなかったが、トオルは、一応次の日、風邪をひいたと嘘をついて勤めを休んだ。前の晩は、半信半疑ながらも、いろいろと想像し興奮してしまって、よく眠れなかった。考えれば考えるほど、あのイノウエハルカとクニヤスルミが自分のアパートへ来ていじめてくれるなんて、まるで夢のような話だった。しかし、本当に来てくれるのだろうか。トオルは約束の朝十時が近づいてきても疑念を振り払えないまま、それでも期待に胸を膨らませて、今か今かと彼女達の訪問を待ち焦がれた。

十時五分くらい前に、電話が鳴った。1コールで受話器を取ると、「早いわね」と苦笑交じりに言うイノウエハルカの声が聞こえた。

――あと十分くらいでそっちへ着くから、用意して待ってなさい。

用意? トオルはその意味がわからず訊いた。

――用意って、何ですか?

――用意は用意よ。おまえ、私たちにいじめられたいんでしょ? バカにされたいんじゃないの?

はい、そのとおりです。そうトオルはこたえた。

―― だったら、私たちが見て呆れるような部屋を用意するのよ。そうね、まずは持っているエロ本を部屋中に全部ばらまいて、ついでに盗んできたというパンツやストッキングもね。で、それから盗撮したというトイレのビデオをテレビで流して、勿論おまえ自身は全裸になって私たちを玄関でお座りして待つの。犬みたいにね。いい? わかった?」

その様子を思い浮かべて、トオルは暗いマゾの興奮を覚えた。たちまちペニスが勃起していく。

――わかりました。言われたとおりにしておきます。

そうこたえて電話を切り、トオルは早速いそいそと準備を始めた。

カーテンを閉め切った六畳間。まず、あらゆるエロ本を引っ張り出してきて、絨毯の上にぶちまけた。改めて見ると、相当な数だった。次に、盗んだ下着類。これは、あの女子大生のものの他に、最近になって新たに二枚がコレクションに加わっている。いずれも近所の家からいただいてきたものだ。ひとつは自分と同じ年頃の主婦のピンクのパンティ、もうひとつは、アパートの裏手の一軒家に住む女子高生のストッキングだった。そのうち、主婦のパンティを、より一層自分を変態に見せる演出の一環として、トオルは頭に被った。そして、ビデオを流し、最後に服を全部脱いで玄関の床に正座した。これでもう準備万端だった。

コンコン。約十分後にドアがノックされた。トオルの安アパートには、チャイムやインターフォンは付いていない。トオルはそのノックを聞いて、胸の高鳴りを抑えながら「は、はい、開いてます」とこたえた。心なしか、その声は上ずっていた。ペニスが一気に硬度を増す。トオルは思わず目を伏せて、運命の瞬間の到来を待った。

ギギギギギィ。立て付けの悪いドアが軋みながら開く。恐る恐るトオルは顔を上げた。そして短く「あっ!」と叫びを上げ、すぐに「あぁぁぁぁぁ」という情けない声に変わった。

なぜなら、そこに立っていたのは彼女達ではなく、制服を着たふたりの警察官だったからだ。彼らの後ろに、ようやく彼女達の姿が垣間見えた。

「そう、この人です。私たちを脅迫していたのは……」

警察官の背後で、か弱き女を演じてイノウエハルカが怖々と言う。

「そうそう、間違いないです、この人です。お巡りさん、早く捕まえてください」

今にも泣き出しそうな声でクニヤスルミも言った。

トオルは、終末の足音がひたひたと忍び寄るのをひしひしと感じながら、彼女達の声をぼんやりと聞いていた。目の前の現実が、ひどく遠い世界での出来事のように思えて、事態を正確に把握するまで少々時間が必要だった。やがて、トオルはすべてを理解し、観念した。自分は、彼女達にうまくしてやられたのだ、そう思った。常人としての人格が、そして、ちまちまと積み上げてきた生活が、ガタガタと音を立てて崩落していくのをトオルは自覚した。しかしそれを食い止める術は既になく、まるで他人事のように傍観するよりなかった。剥きだしのペニスが急速に萎えていく……。

こういうことだったのか……。トオルは己の運命の哀れな末路を悟り、深く項垂れた。

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