恩寵の園

その施設の周囲には石造りの高い壁が巡らされ、壁のてっぺんには有刺鉄線が三重に走っている。噂では、その有刺鉄線には電流が流れているとかで、証拠に、黒焦げになったカラスの屍骸が落ちていた、なんて話が周辺地域の人々の間でまことしやかに囁かれていた。

内部には果たしてどんな人間が、何人住んでいて、いったい何をしているのか、全く不明だった。中を覗こうにも、堅固な門は常にぴたりと閉じられてい るし、壁は優に三メートルを超え、しかも切れ目がないうえ所々に見張りのためか尖塔が建ち、夜間にはサーチライトが旋回して侵入者を警戒しているから、覗 き見ることは到底無理な話だった。

しかし或る種の宗教団体のように、人々に対して恐怖心を抱かせるような行動は皆無だった。脱走者のような人間もいないし、そもそも宗教団体の看板は 掲げられていない。法律上、その土地は個人の私有地になっている。その施設は、少々異色だが、村はずれの辺鄙な場所に、ただひっそりと存在しているだけ だ。

しかし敷地面積は広大だ。サッカーの競技場や野球のスタジアム程度の広さは楽にある。その敷地全体をぐるりと壁が囲む光景は壮観ですらあり、見方を少し変えれば監獄のようにも見える。

出入りのできる門は一箇所しかない。その門というのが、高さが十メートル近くある豪奢なもので、外観は中世ヨーロッパの城門に似ている。

その門柱には、施設の名称を示す銅板が打ち付けられている。それは縦が二メートル、幅が五十センチの分厚い重厚な青銅の表札で、流れるような美しい筆致で『恩寵園』と彫られている。

タクシーを降りた私は、その来る者を拒絶するかのように聳える巨大な門を見上げた。駅からここまで来る間中、タクシーの運転手は「恩寵園」と行き先 を告げた私に対して好奇心を丸出しにして、執拗に訪問目的を訊ねてきた。私が「なぜそんなに気になるのか?」と問うと、彼は、「あの施設はすべてが謎の ベールに包まれていて、中で何が行われているのか全く分からないのだ」と言い、「何か知っているのなら教えていただけないか」と私はせがまれたが、全部の 質問を適当にはぐらかした。正確には、そうする以外にこたえようがなかったのだ。なぜなら、そこへ行こうとしている私自身ですら、何一つ詳しいことはわ かっていなかったからだ。

私はフリーのルポライターで三十二歳、名前は澤井良一という。そもそも事の発端は、一週間前に奇妙な依頼を受けたことだった。ふだん付き合いのある雑誌編集者から電話がかかってきて、「君をご指名で取材の依頼が届いているから打ち合わせをしたい」と言われた。

その翌日、早速喫茶店で編集者と会うと、彼は一枚の便せんを取り出して私に示した。私はそれを受け取り、読んだ。すると、そこには宛名として編集部 付けで私の名前が記され、「N県M市郊外に『恩寵園』という施設があるので、ぜひ貴方に取材していただきたい」と書かれ、「既に先方には話が通してあるの で、近いうちに出発していただきたい」と続き、最後にその恩寵園という施設の正確な住所が添えられていた。しかも編集者によると、必要経費プラス私のギャ ラとして百万円が書留で送られてきているとのことだった。

私は便せんをテーブルに置き、たいそう訝しんだ。だいたいこの恩寵園という施設が何なのか一言も説明が書かれていなかったし、こんな風に取材の依頼 が来たことも初めてだった。ひとつだけ思い当たる節があるとすれば、私はつい一ヶ月ほど前に、あるカルト系宗教団体のルポを署名入りでこの編集者のいる 『週刊バスティーユ』に発表したことがあったので、その記事を読んだ何者かが私に取材依頼をしてきたのかもしれなかった。

怪しいといえば怪しい依頼だった。しかし私としては、なんとなくその恩寵園とやらへ行ってみたい気がしていた。それはルポライターとしての好奇心 だった。ただし件の編集者は、自分で話を持ってきていながら、ちょっと怪しいから止めておいた方がいいんじゃないか? としきりに心配した。私はそれ微笑 で聞き流し、「先日取材したカルトより怖いところはないよ」と言って彼を安心させた。偶然にもスケジュールはこの先二週間ばかりぽっかりと空いていて暇 だったし、ギャラが魅力的だったこともあるが、何よりもこの話に私はルポライターとしての嗅覚が刺激されたのだった。

それから数日かけて、私は『恩寵園』という施設について自分なりに調べてみた。しかし、結果は芳しくなかった。ネットで検索してもヒットする情報は 殆どなく、例のカルト教団の取材で知り合った宗教関係の専門家にもあたってみたが、聞いたこともないと言われ、実際に宗教法人としての登記もされていな かった。私は調査に歩き回っては、夜な夜な疲れ果ててアパートに戻り、恋人ともに彼女が作った夕食をとりながら収穫がまるでないことを話しては、彼女に慰 められる有様だった。私の恋人はブティックを経営する牧村恵という二十五歳の女性で、付き合って二年になるが、結婚までは至っていない。しかし仲はうまく いっていて、彼女は仕事が終わるとよく私のアパートに来て、食事を作ったりしてくれる。部屋の鍵も渡してある。

私は連日空振りに終わる事前調査のせいで、正直いって迷い出していた。あまりに手がかりがなさ過ぎて、実態がまるで掴めないことが不安だった。そん な私に彼女は、「危ないと思うなら止めたほうがいいわよ」とアドバイスした。しかしそう言われると、私にもフリーのルポライターとしての意地とプライドが あるから、余計に迷ってしまうのだった。

そうこうしているうちに、二通目の封書が編集部に届けられた。昨日のことだ。私は編集者から連絡を受け、編集部へ出向いた。そして、大部屋の片隅の 応接セットで彼と差し向かいに座り、封書を開けてみた。すると中には、JRの特急券とグリーン乗車券が入っていて、便せんに一言、「なかなかお見えになら ないので、誠に勝手ながらこちらで切符を手配させていただきました」とあり、文末に「取材を心よりお待ち申し上げております。恩寵園理事長、冴木響子」と 署名があった。

切符の日付を見ると、翌日になっていた。こうなってはもう行くしかなかった。その夜、私は恋人に、明日取材へ出発する旨を伝えた。彼女は、最初こそ 「大丈夫?」と心配したが、言っても私を止めることはできないとわかっているのか、最終的には「気をつけてね」と背中を押してくれた。あえて彼女に行き先 は告げなかった。余計な心配はかけさせたくなかったのだ。

そして今、私はついにその門の前に立っている。想像していたより施設は立派で、私は少々気後れがしていた。しかし、ここまで来て今更引き返すわけに もいかず、しばらく門の周辺を歩いてみた後、意を決して門扉に歩み寄った。『恩寵園』と書かれた青銅の表札の横に、控えめなインターホンがある。

私は武者震いを抑えながら、そのボタンを押した。

「どちら様でしょうか?」

小さなスピーカーから女性の声がした。私はインターホンに向かって名乗った。

「週刊バスティーユの澤井と申しますが」

すると、ギギギーと扉が開きだし、女性の声が言った。

「どうぞ、お入りください。お待ち申し上げておりました。中へ入り、真っすぐに進んでいただけば玄関がございますから、そちらへお越し下さい」

あくまでも丁寧な口調だった。私は「はい」とこたえて門を潜り、敷地内に足を踏み入れた。すぐに背後で門扉が閉じられた。

幅が五メートルばかりの砂利敷の道が真っすぐ奥に向かって伸びていた。周囲は鬱蒼と茂る木立で、道の先に、まるで首相官邸を思わせるような車寄せのある玄関が見えた。

私はそちらへ歩きだした。ピシピシと砂利を踏む足音以外、何も聞こえなかった。辺りはしんと静まり返っている。不穏な空気は微塵も感じられなかった。

やがて玄関に辿り着き、車寄せを回ってガラス張りの扉の前に立った。すると自動ドアらしく、音もなくするすると扉が開いた。中に入ると、そこは広々とした、緋色の絨毯が敷き詰められたロビーで、ひとりの長身の女性が私を出迎えた。

「お待ち申し上げておりました。私、当園スタッフの植村仁美でございます」

タイトスカートにジャケットというスーツ姿の女性は微笑みながらそう言うと、名刺を差し出した。慌てて私も、手に持っていたボストンバッグを足元に置き、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出す。

「週刊バスティーユの澤井です」

名刺交換を終えた我々は、ゆったりとした革張りのソファへ移動し、差し向かいに座った。全面ガラスの向こうに、よく手入れが行き届いた日本庭園が広 がっている。植村仁美は私の名刺をテーブルに置き、形の良い膝頭を合わせてソファに浅く腰掛けている。背筋をピンと伸ばし、じっと私を見つめる。とても美 人だ。すらりとした脚は長く、パンプスの踵が深い絨毯に埋まっている。私はボストンバッグの中から取材帳として使っているノートを抜き出すと、早速、型通 りな取材のスタイルを取り繕った。

「それで、今回はどういう……」

そもそも自分がなぜ指名でこの場所へ呼ばれたのかわかっていなかったので、私はひとまず曖昧な切り出し方をして相手の出方をうかがった。というよ り、相変わらず周囲は静かで人の気配が全くなく、その沈黙には息苦しさのようなものを感じたし、この広大な敷地の中でいったい何が行われているのか、まる で何もわからなかったので、他に切り出しようがなかったのだ。すると植村仁美は、両手を太腿の上に重ねて置いたまま、言った。

「大変申し訳ありませんが、私の口からは何も申し上げることができないのです。こちらからお越しいただくよう願っておいて、失礼は重々承知なのです が、ただ今、理事長の冴木が出掛けておりまして、夜にならないと戻りません。それまでの間、お部屋をご用意いたしましたので、どうかそちらでお寛ぎになら れながら冴木の戻りをお待ちください。ただ、この建物内はご自由に移動されて構わないのでございますが、外へは出ないでください。他の建物へ入るには専用 のIDが必要ですし、後で冴木が案内すると思います。ですから、お部屋か、このロビーか、隣のバー・ルームでお過ごしください。おそらく冴木は九時頃には 戻ると思います。夕食は、七時にお部屋の方へ運ばせていただきます」

状況が上手く把握できなくて、私が口を開きかけると、植村仁美はやんわりと、しかし毅然とした態度で遮った。

「申し訳ございません。どうか冴木をお待ちください。あなたが不審に思われるのは当然ですが、私にはこたえようがないのです。後で冴木の方からきちんとした説明がなされると思います。ですから……」

私はそれでもなんとなく腑に落ちなかったが、しかしここで押し問答をしても仕方ないので、「わかりました」と頷いた。いずれにせよ理事長の冴木響子 が戻ってくるのを待つより、私には選択肢がなかった。フリーのルポライターとしてそれなりの修羅場をくぐり抜けてきた勘が、ここに危険はない、と告げてい た。植村仁美は、私が頷いたのを見て、にっこりと微笑んだ。

「良かった。もしかしたらあなたが怒って帰ってしまわれるかと、実はハラハラしていたんです。呼んでおきながら、質問には一切答えられない、夜まで待ってくれ、なんてふざけた話ですものね」

彼女はこれまでの硬い口調を解いて、若干砕けた調子で話した。私はそんな彼女に、ふと親近感みたいなものを覚えた。そういえば、どことなく雰囲気が 恋人の恵に似ている。おそらく年齢も同じくらいだろう。私は彼女の態度の微妙な変化に緊張をほぐし、ノートを閉じてバッグにしまいながら言った。

「もし腹を立てたとしても、ここまで来ておきながら帰るというわけにはいきませんよ」

すると植村仁美は微笑を浮かべたまま小首を軽く傾げ、「では」と腰を上げた。

「お部屋へご案内します」

私も立ち上がり、ボストンバッグを持つと、先を行く彼女に続いて歩きだした。我々はロビーを横切り、エレベーターで三階へ上がった。その廊下にも、緋色の絨毯が敷かれていた。かなりの間隔を置いて木製のドアが並んでいる。歩きながら植村仁美が説明する。

「このフロアはゲスト用の部屋ばかりですの。でも、今日はあなたしかゲストの方はいらっしゃいませんから、どんなに大声を出されても、大騒ぎなさっても、大丈夫です。何の気兼ねも要りません」

くすりと悪戯っぽく笑って彼女は言った。私はそんな彼女の仕草がとても気に入った。正直なところを言えば、第一印象は、なんとなくお高くとまった女だな、という感じだったが、いまやその印象はすっかり払拭された。

「こちらです」

と案内された部屋は、セミダブルのベッドが二台と、窓際に二脚の椅子とテーブルが置かれた、シティホテルのような部屋だった。隅に、執務用のデスク がある。大きな姿見の横にバスルームもあった。植村仁美は、部屋の鍵を私に手渡すと、「では七時に夕食をお持ちします。どうぞ、ごゆっくりなさってくださ い」と言って部屋から出ていった。

私はひとりになると、窓に寄り、レースのカーテンを捲ってみた。遠くに北アルプスの峰峰が横たわり、手前に深い森が広がっていた。森を囲む壁が、ま るで世界の果てを示すように、この特殊な敷地と外界とを隔絶している。森の中には、ところどころに建物が見えた。その数を数えてみると、ここから見えるだ けで五棟が認められた。そのどれもが午後の陽光を浴びて白く光っている。なかでも、敷地のほぼ中央辺りに、一際大きな建物があり、すべての建物がガラス張 りの回廊のようなもので繋がれているようだった。

いったいここは何なのだろう、と改めて思いながら私は窓辺を離れ、椅子に腰掛けた。そして、編集者と恋人に無事に到着したことを伝えておこうと思 い、携帯電話を取り出したのだが、ディスプレイには「圏外」と出ていた。かといって、部屋に電話は見当たらない。もしかしたら先ほどのロビーまで降りる か、植村仁美に言えば電話をかけることはできるかもしれなかったが、まあいいや、と私は簡単に連絡を諦め、煙草に火をつけた。

腕時計を覗くと、午後三時になろうとしている時刻だった。

七時きっかりにノックの音がして、夕食が運ばれてきた。私は植村仁美が持ってくるものだとばかり思っていたのだが、実際にそのワゴンを押してきたの は燕尾服を着た初老の男だった。男は静かに「お待たせいたしました」と言い頭を下げてから入室し、手早くテーブルに料理をセッティングすると、再び深々と 頭を下げて「どうぞごゆっくりお召し上がりください」と言い、「お食事が終わりましたら、お手数ですがワゴンを部屋の外に出しておいてください」と告げて 部屋から出ていった。

食事のメインディッシュはステーキで、赤ワインのハーフボトルが付いていた。ステーキ以外には、濃厚なポタージュスープ、生ハムのサラダ、くるみパ ン、フルーツの盛り合わせ等があり、コーヒーがポットに入っていた。食べ始めてみると、料理はどれも絶品だった。とくにフィレステーキは肉質といい焼き加 減といい、文句のつけようがなかった。私は取材に来ているという自分の立場をしばし忘れて舌鼓を打った。

食事が終わり、窓辺に立ってコーヒーを飲んだ。月光に映えた森が青く染まっていた。いくつか点在している建物には、明かりが入っていた。ということ は、あの建物の中には誰かいるのだろう。しかし、距離があるので、人影までは確認できなかった。その建物群を繋ぐ回廊にも明かりが灯って光のチューブのよ うに見えていたが、人の姿を見ることはできなかった。

じきに九時になり、九時半になった。しかし依然として何の連絡も届かなかった。私はとくにすることもなかったので、ベッドに体を投げ出すと、再来週 から着手する予定の、ホスピス医療に関する資料を読んで過ごした。そうしていると、十時五分前に、ようやくドアが控えめにノックされた。

私は資料を放り捨て、ドアへ行き、開けた。すると、そこには植村仁美が立っていた。彼女は私と対峙するなり、頭を下げた。

「申し訳ございません。いま冴木から連絡があったのですが、帰宅は明朝になるとのことで、大変申し訳ないのですが、今夜はこのままお休みいただけま すか? 澤井様がご到着されていますが、と報せましたら、冴木も随分恐縮しておりましたが、どうしても今夜中に戻るのは不可能ということで、どうにもなら ないらしいのです。それで、よろしければ、明朝、少々早いのですが、六時半にロビーへ降りてきていただけますか? 冴木は六時前に帰る予定ですので、ぜひ その時間にロビーでお会いしたい、と申していたのですが……難しいでしょうか?」

ひたすら恐縮した様子で植村仁美は言い、私は微笑みながら答えた。

「いえ、別にわたしはその時間でも構いません。もうギャラもいただいていますし、取材対象に合わせることが私の勤めですから」

「本当に勝手なお願いばかりしてしまって、申し訳ありません。では、明朝六時半にロビーで」

「はい、わかりました」

「では、おやすみなさいませ」

「おやすみなさい」

植村仁美が去ると、なんだか急に体から力が抜けていった。私はベッドに倒れ込み、目を閉じた。やはり、得体の知れない取材対象に対して無意識のうち に身構えていたのだろう。今夜はもう理事長とは会えないのだとはっきりして、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたようだった。

それから私はシャワーを浴び、ベッドに潜り込んだ。まだ十一時だったが、どうにも眠かった。肉体的にはそうでもないが、おそらく精神的に疲れきっていたのだろう。私は枕元の明かりを消して目を閉じると、すぐに眠ってしまった。

自然に目が覚めた。腕時計で時間を確かめると五時四十分で、窓の外にはまだ薄闇が広がっていた。私はベッドを出て顔を洗い、髭を剃り、歯を磨き、髪を整え、服を着た。綿のスラックスを穿いてポロシャツを来て、ツイードのジャケットを羽織った。

支度を終えて窓辺の椅子に座り、煙草を吸っているうちに、みるみる空が明るくなっていった。夜明けだった。白い雪を頂に残す北アルプスの稜線が輝き、森の緑が息づいていく。

私は六時二十五分になるのを待って、取材帳を手に部屋を出た。緋色の絨毯の上を歩き、エレベーターで一階のロビーへ下りた。

ロビーは大きな窓から差し込む朝の光に溢れていた。革張りのソファにひとりの女性が座っていた。植村仁美とは違った。私は、おそらくこの恩寵園の理事長、冴木響子だろう、と想像した。私が近づいていくと、彼女は腰を上げ、軽く会釈をした。私も歩を進めながら頭を下げた。

「おはようございます」

すると女性も改めて頭を下げ、挨拶の後、名乗った。

「おはようございます。当園の理事長、冴木響子です。昨夜は失礼いたしました」

そう言って名刺を差し出し、私はそれを受け取ってから、自分の名刺を渡した。

「週刊バスティーユの澤井です。宜しくお願いします」

「こちらこそ。わざわざ遠いところを来ていただきまして」

我々は向かい合ってソファに座った。冴木響子は、昨日会った植村仁美より、もっと美しかった。歳は私より少し上、三十台半ばのようだ。身長が高い。 鶯色のツーピースを着て、それほど踵が高くはない白いパンプスを履いているが、百七十センチは越えているだろう。綺麗に揃えられたすらりとした脚も長い。 物腰は優雅で、雰囲気には気品が感じられ、凛然としている。長い髪は緩くゴージャスに波打ち、完璧な化粧が施された小さな顔に完璧な微笑を浮かべている。 彼女の澄み切った瞳に見つめられると、私はひどく落ち着かない気分に陥った。彼女の目には、不思議な魅力があった。私はまるで蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫 のような心境でその瞳に吸い寄せられてしまった。

「それで……」

私は蜘蛛の巣から逃れるように言葉を吐き出してその呪縛から逃れた。

「とりあえずこちらへ伺いましたが、実のところ、私には未だに何がどうなっていて、どうして私がここへ取材に呼ばれたのか、さっぱりわかっていないのですが……」

取材帳を膝の上で広げながら言った。彼女の目を見つめることがなぜか怖くて、視線はノートに落としたままだった。そんな私に、冴木響子の声が降り注いだ。

「まず、最初に断っておきますが、もともと一番初めの封書を出したのは私ではございません。私にはその封書を出したのが誰なのかわかっていますが、 あえてここでは申しません。なぜなら、その方からあなたに取材を依頼したということを事後承諾を得るような形で聞きまして、よろしくお願いしますと言われ たのですが、私自身が納得できなければ、そのリクエストは断ります。つまり、よく考えた末に、私は自分の意思としてあなたをお呼びすることに決めたので す。ですから、その最初に封書をあなたのところへ送った方は、私にきっかけを作ってくれたに過ぎず、最終的には私が取材されることを望んだ、というわけ で、それが誰なのか、そんなことは全く重要ではありません。まずはそのことをあなたにわかっていただかなくてはなりません」

私は曖昧に頷いた。実のところ、そのことにどんな意味があるのか、私にはいまいち理解できなかった。しかし、殊更突っ込んで聞くことでもないし、何 せもう来てしまっている話なので、そのへんはどうでもいいように感じられていた。経緯など、確かに彼女の言う通り、それほど重要ではない。

冴木響子は、私の曖昧な頷きに微かな微笑を浮かべると、そのまま続けた。

「では、この恩寵園という施設について簡単に説明します。おそらくあなたももうご存知かと思いますが、ここは宗教関係の施設ではありません。ある意 味では宗教的でもあるのですが、法人としての認可は受けていませんし、今後申請する予定も、そのつもりもありません。ここは純粋に私個人の施設です。そし て、ここで何が行われているのか、たぶんあなたの興味もその一点に尽きるかと思うのですが、これは言葉であれこれ言うよりも、このあとご自身の目で実際に 見て確かめられたほうがいいかと思います。なお、誠に勝手なお願いなのですが、あなたにはこの施設の存在意義を正確に把握していただくために、最低でも ニ、三日は滞在していただきます。途中で帰られることは、残念ながら許可できません。もちろん、この申し出がアンフェアなことは承知しております。それで も、最低でも二、三日は滞在していただかないと、この施設の本当のところは理解できないと思います。ただ、べつに監禁するとか、そういう不穏な話ではあり ませんから、どうしても途中でお帰りになられるというなら、それは仕方ありません。それでも、もしも途中で帰られる場合は、ここのことを記事にしてもらっ ては困ります。このことだけは、絶対に約束してください。その代わり、ニ、三日滞在して取材していただいた時点で、まだ記事になるとお思いになられるな ら、どうぞご自由に好きなように記事にしてください。もしも、記事にはならない、と感じたなら、そのままボツにしていただいても構いません。どうでしょ う? この申し出を受けていただけますでしょうか? もし承服しかねると仰るのでしたら、このまま帰っていただきたいです。もちろん、だからといってお支 払いしたギャラを返せとは申しません。私の方から勝手に送らせていただいたものですから、キャンセル料としてお納めください」

私の気持ちは既に固まっていた。帰るつもりなど毛頭なかった。ここにどんな秘密が隠されているのか、それを知りたくてたまらなかった。猛烈にルポラ イター魂が疼いていた。ただ一点、「ニ、三日が経った時点でまだ記事になると思うなら好きに書いてくれ」という意味がわからず、気にかかったが、プロのル ポライターとして今更ここで引き下がるわけにはいかなかった。

「わかりました。ニ、三日、滞在してじっくりと取材させていただきます」

その答えに、冴木響子は安堵めいた笑みを小さく浮かべた。私は、早速取材を開始するために、ボールペンを持つと、彼女に尋ねた。

「今あなたは、ここで行われていることは言葉で言うよりも見てもらった方がいい、と仰りましたが、では、それはそれとして、この恩寵園という施設の概要だけは前もってお教えいただけないでしょうか?」

「そうですね。どんなことをお教えすればよいでしょう?」

「ええと、たとえば設立はいつか、とか、ここには何人の人間がいるのか、とか……そのあたりをお願いします」

「はい」

冴木響子は、こほんと小さく咳払いをしてから、ゆっくりと語った。

「設立は二年前です。それと、ここで暮らしている人数、それは十三人です。あなたの部屋からも見えたかと思いますが、全員が敷地の中の建物で暮らしています」

「十三人……集団生活ですか?」

「そうですね。ただし、それぞれ個室があります。ですが、基本的に一定の規律に従って全員が行動を共にしています」

「ということは、共同生活ですね。それでいったい、その共同生活の目的は?」

私はノートにペンを走らせながら訊いた。設立、二年前。人数、十三人。共同生活、目的は? と箇条書きでメモしていく。

「目的については、見ていただいた方が」

冴木響子は微笑を崩さずに言った。私は追求を諦めてノートから目を上げた。これ以上はもう何も言うつもりはなく、実際に見せたいのだろう、と判断した。

「では、いつ見せていただけるのでしょうか?」

そう私が訊くと、冴木響子はちらりと壁の時計を見た。六時四十五分。

「もうすぐ七時ですわね。五分前になったら、施設の方へご案内します。施設のタイムスケジュールの開始が七時なのです」

「わかりました。それで、カメラの撮影は許可していただけますか?」

「ええ、構いませんわ。どんどん撮ってください。でも、予めお教えしておきますが、私と、昨日の植村と、もうひとり宮森明子というスタッフがここに はいるのですが、それ以外の居住者は全員男性です。さきほどここに暮らしている人数は十三人と申し上げましたが、私どもスタッフを除けば十人です。昨夜、 夕食を運ばせた執事は最初から数字に含んでいません。それで、ここに暮らしている男性十人ですが、彼らは、下は二十台前半から上は六十台後半まで、年齢は 多岐に渡っています。しかし、全員に共通していることがあります。それは、とてもシャイだということです。ですから、おそらくあなたに見られていると知っ たら、彼らは動揺し、萎縮してしまうでしょう。そのため、施設の見学は、鏡面加工を施したガラス越しになります。従って、見学しながら彼らに話しかけるこ とはできないと思いますが、もし話しかけることが出来るような機会があったとしても、少なくとも今は接触しないでください。今後取材が進み、彼らに接触す る必要が生じた場合は、改めてそのときに考えますが、まず無理と思っていてください」

「わかりました。では、部屋からカメラを取ってきます」

私は立ち上がり、冴木響子を会釈をしていったん部屋へ戻った。私の仕事は文章だけなので、誌面に写真を使うことはないのだが、後で原稿を仕上げる際の資料として画像はあった方が便利だ。

部屋に入ると、窓からは森の中に点在する建物群が見えた。あの中に、謎のベールに包まれたこの恩寵園の住人達がいて、これから私は彼らと対面するの だ。そう思うと、期待に胸が高まった。私はコンパクトサイズの取材用のデジタルカメラをバッグから取り出してポケットに入れると、早々に自室を後にした。

カメラを持ってロビーへ戻ると、既に冴木響子がエレベーター付近に立って私を待っていた。彼女は完全に私より背が高く、並んで立つと、なんだか自分 がひどくみすぼらしく思えた。スーツも上品で、彼女は朝の静かな光の中で凛然と輝いていた。自信に満ち溢れ、何気ない仕草のひとつひとつにも余裕が感じら れる。

「それでは、行きましょうか」

そう言って彼女は先に立って歩きだし、私もそのあとに続き、並んで進んだ。

ロビーの端に鉄製のドアがあり、冴木響子がIDカードでロックを解放した。その先には、長い回廊が延びていた。天井と床以外が全面ガラスになっているので、その透明なチューブのような回廊には陽光が溢れていた。グレーのカーペットに我々の影が落ちている。

周囲は深い森だった。木立以外、何もない。回廊はまっすぐ続いている。だいぶ先の方で、二手に分かれているのが見えた。歩きながら冴木響子が説明する。

「この回廊は敷地の中をぐるりと巡らせてあります。そして、いま私達が歩いているこの回廊を本線として、ところどころで支線が枝分かれしていて、そ の支線を行くといろいろな建物が見学できる造りになっています。尚、いまはガラス張りなっていますが、建物の周囲を回る時だけ、向こうからはこちらが見え ないよう鏡面加工になっています。まあ、ガラスの色が変化するので、わかると思いますけど」

私は訊ねた。

「この敷地内にはいくつの建物があるのですか? また、その建物の中へ入って取材することは可能なのでしょうか」

「建物は全部で九棟あります。そのうち三棟は私やスタッフの住居でして、あと、あなたに泊まっていただいている本館がありますから、ここの居住者が 使用している建物は五棟です。その居住区域の中で見学者が立ち入ることの出来る建物は、敷地の中央にあるセントラルホールだけです。あとは居住者のプライ ベートスペースですので、申し訳ありませんが外から見ていただくだけになります。それと、私達スタッフの居住棟は木立で仕切られていて、ここの居住者達の 行動範囲からは外れています。この本線の回廊も通じていません。一応支線は通してありますが、防犯上、IDがないと通れないドアが設えてあります」

「なるほど。それで、これから見せていただけるのはどの施設ですか?」

「ひとまず、ここの居住者達の施設を一通り見ていただきます。この施設に暮らす人々の生活スペースはすべてお見せします。順番としては、まず彼らの 居住棟、これはひとつの棟に五つの個室があり、そのような建物が三棟あります。しかし、その中のひとつはまだ誰も入っていません。無人です。次に、食堂や お風呂などがある住人の共用スペース、そして最後にセントラルホールを見ていただきます。言い忘れましたが、この回廊を利用できるのは私達スタッフだけ で、居住者は通ることを許されていません。あと、これから先、あなたが目撃する場面は、かなりショッキングかもしれません。いいえ、おそらくあなたは絶句 してしまわれるでしょう。それでも、この先は一切質問をしないでください。あなたには、ただ見ていただきたいのです。質問には後で、ロビーに戻ってからす べて答えます。ですから、あなたはただ黙ってついてきて、そして見てください。いいですね?」

「は、はい……」

そうこたえるより仕方なかった。彼女の口調はあくまでも柔らかかったが、その目には有無を言わせぬ強い力があった。

「では、そういうことで」

私のこたえに満足したのか、冴木響子は微笑を浮かべた。

やがて回廊は二手に分かれた。冴木響子は左へ進路を取った。

「ここからが居住者棟を巡る支線になります。ぐるりと回ってきてまたここへ戻ってきますが、所要時間はせいぜい十五分でしょう。今お約束した通り、質問はしないでくださいね。いわばここからは当園の中枢部ですから」

「はい」

数段の階段があり、それを昇ると、回廊は一段高くなって緩くカーブしながら先へと伸びていた。ガラスの色が変わった。ここから鏡面加工が始まってい るのだろう。右手に窓のないドーム型の建物があり、冴木響子が「あれがセントラルホールです」と短く説明した。そして、すぐに、左手前方に居住者の生活の ための建物群が見えてきた。

だんだん近づいていき、その建物の全容がわかってくるにつれて、私は驚きのあまり大きく目を見開いてしまった。その建物には、ほとんど壁というもの が存在しなかったのだ。正確に言えば、本来は壁であるべき部分が全部ガラス張りになっていたのだ。つまり、仕切りはあっても内部が丸見えで、その中にいる 人の姿が遠くからでも認識できた。そして、もっと吃驚したのは、そこに暮らす人々の格好だった。次第に中にいる人の姿がはっきり見えてきたのだが、注意深 く観察するまでもなく、彼らは全員裸だった。文字通り、一糸纏わぬ全裸だったのだ。股間も隠していない。

私は口をあんぐりと開けたまま冴木響子について歩きながら、五つに区切られた個室のスペースを見ていった。彼らの個室はそれぞれ間取りは同じで、広 さは六畳ほど、そこに簡易ベッドや机、作り付けの棚や洗面台やトイレがあった。つまり簡単に言い表せば、ガラス張りの独居房といった雰囲気だった。むろん 監獄とは違うので、悲壮感はない。ただ、この回廊から丸見えなので、非現実感が異常に強かった。しかし、住人達は慣れているのか、ごく普通に行動してい る。顔を洗ったり歯を磨いたりしている者もあれば、トイレを使っている者もあった。幸い、といっていいのかわからないが、各個室の間仕切りの壁だけは木製 で、最低限のプライバシーだけは確保されているようだった。

回廊から彼らの個室まで、距離は二メートルほどだった。そのため、内部の詳細は手に取るように把握できた。しかしこちらのガラスには鏡面加工が施さ れているため、彼らの方からでは見られているということがわからない。だからなのか、みんな思い思いに自由に行動していて、それがまた逆に変にリアルだっ た。私はカメラを構え、夢中でシャッターを切った。建物の反対側からも内部が見学できるよう回廊が巡らされていたが、冴木響子はそちらへは回らず、直進し た。だから、私もその後に続いて先へと進んだ。

じきにすぐ現れた次の居住棟も造りは全く同じだった。住人達の姿も同じように全裸だ。起きたばかりなのか、みなそれぞれ寛いでいる。ただ、私は彼ら の個室を観察していて、あるひとつのことに気づいた。それは、例外なく、どの部屋にも高さが五十センチほどの同じ写真がフレームに入れて飾られていること だった。何の写真かと目を凝らすと、それは冴木響子の全身を写した写真だった。ドレス姿の彼女が大きな椅子に座り、優雅に脚を組んで微笑んでいる。

我々は約束通り無言のまま回廊を進んでいった。無人の居住棟が窓の外を過ぎ、やがて平べったい大きな建物が見えてきた。そこも全面ガラス張りで、内 部には複数のテーブルや椅子があった。どうやらここが食堂らしく、その隣、棟続きに風呂のスペースがあった。当然その浴室も丸見えで、広いタイル敷きの洗 い場と、縦五メートル、横二メートルほどの大きさの浴槽が見えた。

その浴室の前の屋外に、コンクリートで固められた、子供用のプールのような場所があった。回廊からも、そこへ下りていくためのドアがあり、階段も設 えられていたが、冴木響子は何の説明もせず素通りした。プールとおぼしき窪みは、縦横二メートルほどの正方形で、深さは三十センチほどときわめて浅い。水 が張られていないので、本当に単なるコンクリートで仕切られた、まるで学校の校庭の片隅にある足洗い場みたいな雰囲気だ。その空のプールサイドには、ぽつ んとパイプが地面から突き出していて、蛇口にはシャワーが取り付けられ、長いホースがきちんと巻いて地面に置かれている。私には、その場所が何のための施 設なのか、まるでわからなかった。たぶん子供用のプールだろう、とは思ったが、ここにいるのは大人ばかりで子供はいないから、不思議だった。もしかした ら、夏場などに水浴びをする場所なのかもしれない、とも思った。

プールのような場所を過ぎたところで、右へ直角に折れてセントラルホールへと続く回廊の始まりがあった。冴木響子はそこで直進はせず、右へ曲がった。私も従う。

すると回廊はセントラルホールまで一直線だった。そのとき、居住棟の方からここの住人達がバラバラと外へ出てきて、ホールへ向かい始めるのが見え た。彼らは全裸のまま、股間を手で隠そうともせず、砂利敷きの狭い道を歩いている。この回廊は地面より二メートルばかり上空にあるので、私は彼らを見下ろ すような格好になっていた。しかし、回廊のガラスは鏡面加工が施されているため、もちろん彼らの方は私の視線には気づいていない。

彼らは、住人同士で固まって歩きながらも、一切他人と視線を交わそうとはせず、森の中の小径を黙々と、俯き加減で地面を見つめながら進んでいく。

その光景を見て、これは何なのだ? と私は思った。そもそも彼らはなぜ裸なのだ。そして、なぜ各自、部屋に冴木響子の写真を飾っているのだ。私には何が何だかさっぱり理解できなかった。だから、ただ黙って冴木響子の後ろ姿を追った。

やがてホールに辿り着いた。その入り口は重厚な木製の扉で、まるで品の良いコンサートホールを思わせた。居住者達は既にもう一階部分のドアからホー ル内に入っているようで、外の小径に彼らの姿はなかった。冴木響子は例によってIDカードをスリット差し込み、扉のロックを解放した。木製の扉が自動で開 く。

彼女に続いて中に入ると、そこは床に淡いブルーのカーペットが敷かれた十畳ほどの個室だった。目の前にベルベットのカーテンが弾かれていて、その前 に、ゆったりとした椅子が七脚、カーテンの方を向いて並べられている。どうやら、そのカーテンが開かれるとホールを見渡すことが出来るらしい。冴木響子は 無言のまま、カーテンの前の中央の席へ座るよう手のひらで示した。私は彼女に導かれるままその隣に腰を下ろした。すると、まるでそれに合わせるかのよう に、カーテンがするすると開いた。

「えっ!」

ホールの様子が目に飛び込んできた瞬間、私は思わず声を出していた。冴木響子が静かな口調で言う。

「このガラスはマジックミラーになってますから、向こうからこちらは見えません」

ガラスの向こうでは、我々のいる位置より下に、ここの住人達が全裸で跪き、整列していた。彼らの向いている先にはステージがあり、そこに冴木響子の 巨大なパネルが掲げられていた。私はその光景を、ちょうど真横から眺める格好だったが、ホール全体が俯瞰できた。といっても、それほど広くはない。ホール はせいぜいテニスコートが一面取れる程度の広さだった。

そのアリーナ部分に、全裸の住人達が五人ずつ二列で並んでいる。しかも全員が股間の性器を勃起させている。見たところ、その列は住居別になっている ようだった。先頭のふたりが、それぞれ別の棟にいたのを覚えている。なぜ記憶にあるかというと、先頭にいる頭の禿げた老人は私がこの施設の中で初めて見た 住人だったし、手前の列にいるもうひとりの先頭の男は、確かに違う棟の端の部屋にいた。彼は先の老人とは全く対照的なビジュアルで、長髪で、まるでロック バンドのボーカルをやっていそうな美男子だったから、印象に強く残っているのだ。

じきに、彼らの間で微かなざわめきが起こった。列の前方にあるステージに、ふたりの女性が登場したのだ。ひとりは昨日会った植村仁美だった。しかし、もうひとりは、知らない顔だった。冴木響子が小さな声で言う。

「植村はもう会ってますわね。で、手前に立っているのが、ここのもうひとりのスタッフ、宮森明子です」

私は頷きを返したが、実は彼女達のいでたちにすっかり目を奪われていた。ふたりとも、レザーのボンデージに身を包み、手に長い鞭を持っている。宮森 明子は一言で言って、デパートの化粧品売り場にいる女性のような感じだった。肌の色が抜けるように白くて、派手な顔立ちに派手な化粧がよく似合っている。

天井のスピーカーから、ガラスの向こうのホール内の声が届く。

「おはようございます!」

住人達が声を揃えて言い、一斉に頭を下げて床に額をつけた。植村仁美と宮森明子がゆっくりとステージから下りてきて、彼らの間を歩く。ひとりとして頭を上げる者はいない。

しばらくして、ようやく向こうの列の先頭にいる老人だけが、つと顔を上げた。そして素早く立ち上がると、ステージの前、中央に進み出て、背筋を一旦しゃんと伸ばした後、冴木響子のパネルに向かって深々と一礼した。

「我らが全能の女神、響子様。おはようございます!」

老人がはっきりした大きな声で言った。すると、すぐに続いて住人達も顔を上げ、「我らが全能の女神、響子様。おはようございます!」と同じ台詞を復唱し、また額を床に付ける。

それはまるで厳粛な宗教儀式のようだった。植村仁美と宮森明子がステージの上へ戻り、住人達を無言のまま睥睨した。先ほど挨拶を最初に述べた老人が、直立不動の姿勢で言う。

「不肖U-1号、これより朝の儀式の号令をかけさせていただきます!」

老人はそう言うと、大きく息を吸い込み、吐き出し、右手をピンと上へ伸ばした。

「響子様、仁美様、明子様、失礼いたします! 全員、ヨーイ」

その声に、床に跪いている全員が、膝はついたまま腰だけを浮かせた。老人もその場で跪き、他の者達と同じ姿勢をとる。全員の右手が性器に添えられ た。私は息を殺しながら、これから何が始まろうとしているのか、待った。一瞬、ホール内に静寂が張り詰める。そして、老人が張りのある声を精一杯響かせな がら、言う。

「始め!」

その声と同時に、全員が一斉に、猛烈な勢いで自慰を始めた。それは異様な光景だった。若者から老人まで、十人の全裸の男達が、一斉に激しく右手を動かしている。誰もが口を半開きにしながら軽く眼を閉じ、恍惚の表情を浮かべている。

私は言葉を失っていた。写真を撮ることさえ忘れて、ただ呆然とホール内の光景を凝視していた。私には、いま目の前で展開されている情景が信じられな かった。他人の自慰行為を目の当たりにしたのは初めてだったし、十人もの人間が揃って性器を擦っている光景はまるで粘着質な悪夢を見ているみたいで、ひど く現実離れしているように思えてならなかった。

いつのまにか植村仁美と宮森明子はステージから下りていて、一心不乱に自慰に耽っている人々の間を悠然と歩いていた。そして、少しでも右手を上下さ せる速度を緩めている者を見つけると、何も声はかけないまま、その背中に容赦なく鞭を振り下ろした。乾いた音が響き渡り、叩かれた男がひれ伏して叫ぶ。

「ありがとうございます!」

打たれた者は、手は止めないまま頭を下げ、その鞭に対する礼を述べていた。いつのまにか私は、そのホール内の光景に引き込まれていた。人々は喘ぎ声 とも呻き声とも取れるくぐもった声を漏らしていて、そのざわめきがスピーカーを通して絶えず聞こえていた。気がつくと、私は椅子から身を乗り出し、食い入 るように眼下の「儀式」を眺めていた。

やがて、あちらこちらで射精が起こった。どうやら、発射のタイミングまでは揃えなくても良いようで、果てた者から順番にうなだれていった。そのた め、ガラス越しに眺めていても、誰が射精したのかよくわかった。そして、全員が射精するのを待たず、開いたときと同じようにカーテンがするすると動いてガ ラスの向こうの景色を遮断した。音声も切れ、スピーカーが沈黙する。

視野が遮られた瞬間、全身から力が抜け、私は椅子の背凭れに寄りかかった。知らない間に、そうとう見入ってしまっていたようだ。ちらりと隣の冴木響子を見遣ると、彼女は泰然と微笑んでいた。

「これでひとまず今は終わりです。戻りましょうか。ロビーで質問に答えます。ところで、いかがでしたか? 朝早くから刺激が強過ぎましたかしら?」

微笑を浮かべたまま冴木響子は立ち上がり、訊いた。

「ええ、少々」

私はどうにかそれだけを言い、彼女に続くように腰を上げた。しかし耳の奥にはまだ、自慰に耽る人達のざわめきが、まるで寄せては返すさざ波のように張りついていた。

我々はロビーに戻った。すると昨夜の執事がどこからともなく現れて、コーヒーをテーブルに置いた。彼は音もなく出現し、私と冴木響子の前にコーヒー を並べると、やはり音もなく去っていった。私はコーヒーに口をつけて、心を落ち着かせようと努力した。先ほど見たホール内の異様な光景が、未だに私を混乱 させていたのだ。冴木響子は、もちろん見慣れた光景だろうから、全くふつうだった。しなやかな指先で優雅にコーヒーカップを持ち、涼しげな微笑を浮かべて いる。そして、私と眼が合うと、言った。

「驚かれたでしょう?」

私はコーヒーカップを置いて素直に頷いた。訊きたいことばかりだったが、何から訊いたらいいのかわからなかった。冴木響子は、そんな私の逡巡を見透かしたように言った。

「どうやらあなた自身、どこから手をつけたらいいのか戸惑っていらっしゃるようですから、まずは私の方からこの施設についてざっとアウトラインを説明しましょうか。それで、そのあと、まだ何か訊きたいことがおありでしたら、質問してください。何でもお答えしますわ」

「そうしていただけると助かります」

むろん通常の取材であれば、前もって資料等を集めて準備し自分なりの切り口やプロットを考え、あらかじめ質問事項等を用意して臨むのだが、今回に 限っては事前に入手可能な情報が一切なく、何の準備もできなかったので、彼女の申し出は正直、とてもありがたかった。だから私は、これから語る彼女の話の ポイントを逃さずすぐにメモが取れるよう、ノートを広げてボールペンを持った。冴木響子は、すらりとした長い脚を組み、煙草に火をつけてから、話を始め た。

「あなたが今その目でご覧になった通り、ここでは少し普通とは違う生活が営まれています。彼らは俗に『マゾヒスト』と呼ばれる特殊な性癖を持った人 達で、自らの意思と判断でここへ集まってきています。決して私達が無理やり連れてきて監禁しているわけではありません。まずはとにかく、そこのところを正 確に理解していただかないと話が進みません」

私はこくりと首を縦に振った。そして『監禁』とノートに記して、バツ印を打った。冴木響子が続ける。

「私と植村と宮森、この三人はもともと同じSMのサークルに属していました。それはいわゆる風俗店としてのSMクラブという形態ではなく、そこに登 録しておくと、会員の方から申し込みがあり、お互いにフィーリングが合った場合に限って長期の契約を結ぶスタイルの、趣味のサークルでした。ですから互い に相手と実際に会って、気に入らなければどちらからでも拒否することができましたし、基本的には支配側である女性サイドの意思が最大限に尊重された、とて も自由な雰囲気のサークルでした。私はそのサークル内で常時三人ほどと契約し、ローテーションを組んで回していました。しかしいくら自由で長期の契約と いっても、四六時中常に一緒にいるわけにはいきません。相手にも仕事や家庭がありますし、私にだってプライベートというものがあります。そうなると、必然 的に彼らと会うのはウィークデイの夜にホテルで数時間とか、きわめて限定的にならざるをえず、いつしか私はそんな制約というか、暗黙の了解みたいなものに 対して窮屈感を抱くようになってきました。私は常に彼らを気の向いた時に調教したいと思っていましたし、彼らの中にも、自分の人生のすべてを捧げて調教さ れたい、と願う者もいて、やがて私は、そんな双方の願望をなんとか形にできないだろうか、と考えるようになりました。そして、当時から仲の良かった仁美と 明子にその旨を相談してみました。すると彼女達も同じような思いを感じていたと言い、何でも協力するからぜひ実現に向けて動こう、という話になり、私達は 三人で意見を出し合い、その結果生まれたのが、この『恩寵園』というシステム及びプロジェクトなのです」

そこまで一気に喋ると、冴木響子は煙草を消し、コーヒーを一口飲んだ。私は彼女の次の言葉を待った。ロビーにはクラシックのインストゥルメンタルが 控えめな音量で静かに流れていて、彼女が黙ると、その音楽だけが無音の空間に優しく漂った。我々の前に置かれたコーヒーは、もうほとんどなくなりかけてい た。それを意識したとき、絶妙にタイミングで例の執事がポットを持って現れ、カップにコーヒーを注ぎ足した。そして執事が去ると、冴木響子が再び口を開い た。

「プロジェクトの発足から実現まで、二年ほど掛かりました。その間、私達は住人を募り、希望者があれば入念に身辺調査を行い、選別や面接を繰り返し つつ、システムの確立を目指しました。その結果、去年の四月にすべての施設が完成した時、九人の人間の居住が確定していました」

「九人?」

私は初めて口を挟んだ。なぜなら、さきほどの説明によると、ここの住人は十人ということだったし、実際に私も数えたのだが、この施設内には十人の人間がいたからだ。ということは、ひとりだけ発足後に入ってきたのか。

「ええ、当初は九人でした。今は十人いますから、ここを始めてからひとり入ってきているのです。半年ほど前かしら? なんとなく少し雰囲気が倦怠気 味になってきたので、新たな血の導入が必要かもと考え、新しく居住希望者をインターネットで募集したのです。そうしましたら、すごい反響でした。日本中か ら千件近く応募があり、海外からも反応がありました。その反響の大きさには私達も驚きましたが、真剣にひとりずつ審査し、その結果選んだのが、先ほどホー ルで手前の列の先頭にいた長髪の若い男の子です。ちなに彼はここで一番の年下です」

長髪の若い男はなかなかの美男子だったので、私もよく覚えていた。それにしても千件の応募の中からひとりしか選ばれないとは、相当な競争率だ。しか し、私の驚きは別の点にあった。それは、このような生活に自ら進んで希望してくる人間が千人もいたという事実で、単純にそのことが信じられなかったのだ。

それでも彼女の話を聞いているうちに、質問すべき事項が徐々に朧げながらも形を成してきていた。私は、彼女の話が一区切りついたようだったので、質問を切り出してみることにした。

「あのう、それでは、ニ、三質問をよろしいですか?」

冴木響子は軽く頷いた。新しい煙草に火をつけて、どうぞ、と促す。

「ええと、これまでお話を伺い、そして実際にここでの彼ら住人達の生活を見させていただいた上での感覚なのですが、ここに住んでいる全員があなたを 崇拝している印象を私は受けました。しかし、そうすると、あなた以外のスタッフ、つまり先ほどホール内で住人達をコントロールしていた他の二人の女性の位 置付けというか、役割はどういうことになるのでしょうか」

「そうですね。あなたがいま仰ったように、住人の全員が私を崇拝し、隷属を誓っているのは事実なのですが、彼らの住居が二棟ありましたよね? その住居棟を彼女達が一棟ずつ受け持ち、管理しているのです」

「つまり管理者というわけですか?」

「ええ。しかし住人達は決して私だけではなく、他の二人に対しても同じように崇拝してますし、命令には絶対服従です。ですから、彼らは私だけに服従 を誓っているわけではないですし、私達に対して彼らの中に優先順位は存在しません。ここの施設内に存在する階層は、私達という支配者層、住人達という被支 配者層、それだけです。もちろん、住人同士の中にも優先順位は存在しません。彼らは等しく単なる奴隷であり、その中には順位も区別もありません」

「なるほど、よくわかりました。それでは次の質問を良いですか?」

「はい」

「先ほどホールでの儀式の際、号令をかけていた老人が自分の事を『U-1号』と言っていたと記憶しているのですが、あれはどういう意味なのでしょうか?」

「はい、ここでは、彼らに名前がありません。あるのは識別番号だけです。彼の場合、植村仁美の管理する居住棟の一号室に住んでいますから、植村の頭 文字を取って『U』、そして一号室の住人ですから『1号』、そういう意味で、そのふたつをくっつけた『U-1号』が識別番号となるわけです。ちなみにたと えば、宮森明子が管理する居住棟の二号室に住む者なら、『M-2号』になります」

「そういう意味でしたか、わかりました。では、まだわからないことはたくさんあるのですが、正直に言いまして、少し自分で整理してみてからでないと、そもそもちゃんとした質問になりそうにないので、ひとまず今のところは、次の質問で終わりにしたいと思います」

「ええ、構いませんわ」

「それで、今ここの施設を一通り見せていただいたわけですが、どれも立派な建物ばかりですし、敷地もかなり広いですよね。つまり、単刀直入にお伺い しますが、これだけのものを造るうえで、その資金というのはどこから出ているのでしょうか。おそらく億単位かと思われるのですが、巷の新興宗教団体みたい に、居住を希望する者からお布施のような形で資金を調達されたのでしょうか? 本当に失礼な質問で申し訳ありません。しかし宗教団体等の場合、その辺りに だいたい問題があるものですから、勘弁してください。もちろん、明かせないのであれば、それはそれで構いません」

「いいえ、別に疚しいことはないので構いません。ここの施設の資金の出所というわけですね? それは、私達三人の自己資金です。植村と宮森を含めた 私達三人には、相当の資産があります。三人とも親からかなりの金額の預貯金や株や不動産を譲り受けていて、それぞれ出資しています。ですから、住人達がこ こへ入るために全財産を私達に差し出しているということはありません。金融機関からの借り入れも一切ありません。誤解がないように言っておきますが、ここ は私達のための施設であって、彼らのための施設ではありません。つまり、彼らのために造ったわけではないのです。この『恩寵園』は、あくまでも需要と供給 の奇跡的な融合の結果なのです。そもそも営利事業ではないのですから、利益なんか出ませんし、金銭的な意味での内情となれば、持ち出しの一方です」

私は彼女の言った『需要と供給の奇跡的な融合の結果』という言葉をメモし、ボールペンを置いた。

「わかりました。いろいろとありがとうございました。これから少しで部屋でまとめてみたいと思います」

「いいえ、こちらこそ朝早くからすごいものを見せてしまって。でも、言葉であれこれと言うより、実際に見ていただくのがいちばん早道だと思ったのです」

「確かにそうですね」

私がそうこたえると、冴木響子は壁の時計に目を遣った。

「あら、もう八時ですわね。朝食をお部屋へ運ばせますわ。それと今日は午後一時からなかなか面白いものが見られます。ぜひご覧になっていただきたいわ」

「もちろんお願いします。ぜひ見学させてください」

「それでは、一時五分前にここへ来ていただけます?」

「わかりました」

私は言い、腰を上げた。冴木響子はソファに身を沈めたままだった。私は彼女に会釈し、彼女もそれに頷いて返した。私はジャケットの胸ポケットにボー ルペンを差し、ノートを抱えてエレベーターへと歩きだした。歩きながら、つと大きなガラス窓に視線を投げると、その外の木立は陽光を翻していた。

いま、私は知っていた。この深い森には、その先に広がる特殊な世界を守るという大切な役割があるということを。

部屋に戻った私は、デスクにノートとカメラを置き、窓際の椅子へ行くと、崩れるように座った。そして煙草に火をつけ、深々と吸いながら、暫くの間、 放心状態に陥った。眼下の森を見ようという気にもならなかった。それほど私はすっかり疲れきっていた。まだ起きてから二時間ほどしか経っていないのに、既 にもう一日を終えたような気分だった。

そうしていると、やがてドアをノックする音が響き、私が答えると、執事が朝食をワゴンで運んできた。私はそれをデスクに置いてもらい、執事が去ると、早速食べ始めた。

オレンジジュース、スクランブルエッグ、ベーコン、トースト、フルーツ、そしてポットに入ったコーヒー。そんな朝食を、私は瞬く間に食べ終わってしまった。

私は二杯目のコーヒーをカップに注ぐと、それを持って窓際の椅子へ移動した。そして付随するテーブルにコーヒーを置き、バッグからノートパソコンを 取り出すと、それも置いて電源を入れた。コーヒーを飲みながら起動を待ち、立ち上がると、私はデジタルカメラとパソコンをケーブルで接続し、転送した。

転送が終わり、ケーブルを外してからその取り込んだばかりのフォルダを開き、画像ファイルを展開した。すると、いま見てきたばかりの衝撃的な場面が ディスプレイ上に再現された。私は順番に閲覧していきながら、溜め息を吐いた。やがてコーヒーを飲み終え、ノートを広げてインタビューのメモと画像を照ら し合わせながら記事のストーリーラインをまとめようとしたが、全然駄目だった。結局のところ、住人達の気持ちがわからなければ記事にはならないと感じた。 彼らはどんな思いで、いや、どんな期待を胸に秘めてここへやってきて、そしてどんな気持ちで現在暮らしているのか、その辺りの彼らの偽らざる心境がわから ないことには、どうしようもないと私は感じていた。

十二時半に執事が昼食を運んできた時、私はベッドに体を投げ出して微睡んでいた。ふだん今日みたいに早く起きることがないので、コンピュータの画面を見ているうちに睡魔に襲われ、結局午前中の時間を眠って過ごしてしまった。

昼食は、アサリのパスタだった。私は出しっ放しだったパソコンを片付け、パスタを食べた。しかし、冴木響子との約束は一時五分前にロビーでとのことだったから、あまりゆっくりとはできなかった。

私はパスタを平らげると、顔を洗った。そして十二時五十分にジャケットを羽織り、五十三分にカメラだけを持って部屋を出た。

ロビーへ下りていくと、既に冴木響子の姿がソファにあった。執事がお茶を出している。私は彼女の前に立ち、「すみません、待たせてしまいまして」と会釈してから、対面のソファに腰を下ろした。

「いいえ、私もいま来たところです。でも、もう少し待って下さいね。もうすぐ植村と宮森もここへ来ることになっています」

執事が私にもお茶を勧めたが、辞退した。そして、そうこうするうちに、植村仁美と宮森明子が連れ立って現れた。植村仁美とは既に面識があったので、 彼女は私の姿を認めると親しげな笑顔を見せたが、初対面である宮森明子は、何の感情もない冷たい眼で私を見つめただけだった。冷たいと感じたのは私の気の せいかもしれなかったが、少なくとも、親しげな様子は微塵も滲ませなかった。しかし、顔立ちがぞっとするほど美しいので、その冷徹な表情は繊細な氷の彫刻 を思わせ、私は無意識のうちにたじろぐような気持ちになってしまった。

ふたりとも、朝のホールのときとは違って、ボンデージではなくスーツを着ていた。植村仁美はグレーの地に細い銀色のストライプが入ったツーピース、宮森明子は薄い水色のパンツスーツだった。

「では、行きましょうか」

冴木響子がすっと立ち上がった。私もそれに従い、植村仁美と宮森明子も続いた。並んで立つと、女性達三人は私よりも頭一つ分くらい背が高く、私は何 とも形容し難い居心地の悪さを覚えた。私は三人の後ろに続く格好で歩き出していたが、私の目線は彼女達の肩の辺りにあって、ひどく落ち着かない気分だっ た。

やがてその隊列が変化した。依然として先頭を行くのは冴木響子だったが、私を囲むように植村仁美と宮森明子が若干後退して両脇に立ち、私は三人の女 性に包まれるように回廊へと足を踏み入れた。前を行くタイトスカートに包まれた冴木響子の尻が嫌でも目に入って、私は視線の置き場に困った。植村仁美のス カートも、かなり短い。歩を進める度に、魅力的な張りを湛えた太腿が、誇らしげに惜しげもなく繰り出されている。ふと隣の宮森明子に目を遣れば、脚はパン ツに隠されていて見えなかったが、その全身から、とてもいい香りが漂い出していた。そして、見事にくびれた細い腰が、ちょうど私の腹と胸の間くらいの位置 にあった。彼女が私の視線に気づいて、ちらりと横目で私を見た。それはまるで薄汚い甲虫でも見るような、軽蔑に近い雰囲気の眼差しだった。私は訳もなくド ギマギしてしまい、反射的に視線を外して俯いた。しかしこの時、私はなんとなくこの施設の住人達の気持ちが少しだけわかったような気がした。非の打ちどこ ろのない美を空気のように身にまとう彼女達に囲まれていると、とても緊張する。ただしその緊張は、そんなに悪いものではなく、そこはかとなく甘美な響きを 内包していて、部外者の私ですら酔いそうになってしまうのだった。

ガラスの筒の中を進むと、居住棟は二棟とももぬけの殻だった。果たして彼らはどこにいるのだろう。ひとりもいない。私は前を行く冴木響子に問いかけた。

「みんなはどこにいるのですか?」

すると冴木響子の代わりに、植村仁美がこたえた。

「私が管理する棟の住人達は、森の奥の農場へ行っています。いわゆる農作業ですね。野菜やお米などは、基本的にここでは自給自足なので」

「そうですか。では、これから私達はその農場へ?」

そう私が重ねて訊ねると、冴木響子が振り向いて言った。

「いいえ。食堂からホールへ向かう回廊の脇に子供用のプールのような設備があるのを今朝、見ませんでした? 私達は今、そこへ向かっています。一時から、そこで沐浴が行われます」

沐浴と聞いて、私は反射的に夜明けのガンジス川の光景を思い浮かべた。昇ってくる朝日を待ちながら水辺でシルエットとなり、荘厳な雰囲気の中、母な る河に身を浸して祈りを捧ぐ人々……。そして次に、子供用のプールみたいな場所について、すぐに思い出した。確か回廊にドアがあり、そこへ降りられるよう に階段が外側に設えられていたが、冴木響子からは何の説明もなかったので、何のための場所だろう、と少々気になったから、なんとなく覚えていた。プールサ イドのような場所で突き出すようにぽつんと立っていた、シャワーホースが接続された一本のパイプが、強く印象に残っている。

カーブの先に、そのプールが見えてきた。その周囲には、五人の全裸の男達がいる。注意深く見ると、先ほどここの一番の新参者だと聞いた長髪の若い男 もその中にいた。降り注ぐ陽光が彼らの裸を鮮やかに照らしている。どうやら彼らは、宮森明子の管理下に置かれている人々のようだった。見ていると、その五 人の中から、背の低い小太りの三十台半ばと思しき男が群れから外れるように出てきて、プールの向こうの木立の陰へ消えた。そして、すぐに、両手にバケツを それぞれ持って、戻ってきた。相当バケツは重いらしく、足取りがフラフラしている。

「あなたはここで見ていて下さい。私達はちょっと下へ行ってきます」

冴木響子はそう言うと、IDで回廊の壁にあるドアを開け、後ろに植村仁美と宮森明子を引き連れて出ていった。

全裸の男達が彼女達に気づいて弾かれたように居住まいを正し、跪く。すぐにドアが閉まったため、音は何も聞こえない。私はガラスの壁に寄り、これから何が始まるのか、固唾をのんで見守った。

三人の美しい支配者は、跪く全裸の男達の前を悠然と進んだ。誰ひとりとして頭を上げる者はない。その場に緊張が張り詰めている様子が、ガラス越しにもひしひしと感じられた。

森からバケツを運んできた男は、空のプールの中央で正座をしていた。その前に、ふたつのバケツが並べて置かれている。冴木響子はプールの端まで進む と、近くにいた男のひとりを呼んで四つん這いにさせ、その背中に腰を下ろした。植村仁美も同じようにひとり呼び、同じように椅子として使う。ただひとり、 宮森明子だけが、そうはしなかった。彼女は、長髪の若い男の髪を掴むと、無理やり強引気味に立たせ、プールサイドの際に生える木まで引き摺るように連行す ると、そのまま彼を幹に縛り付けた。そのためのロープは、予めその木の枝になぜかぶら下がっていた。

そうなると、プールの中央にいる男を除いて、ひとり余った。余ったのは、ひょろりと痩せた四十台半ばの男で、一見、県立高校の社会科教師のような雰 囲気の男だった。彼ひとりだけが、手持ち無沙汰な感じでぽつねんと跪いたままだった。そんな彼を宮森明子が、長髪の男を拘束する作業を中断して、呼んだ。 そして彼が小走りで彼女の許へ駆けつけると、宮森明子は長髪の男を解放し、代わりにその社会科教師を木に縛り付けた。解放された長髪の男は、そのまま走っ て冴木響子の前へ進み、プールの方を向いて正座した。冴木響子は、背中を見せて正座しているその長髪の男の両肩へ、美しい脚を伸ばして載せ、脚置きにし た。

宮森明子は社会科教師を縛り終えると、不快そうに唇を歪ませながら彼を見下ろし、勢いよくビンタを張った。彼の何が宮森明子の気に触れたのか私には わからなかったが、彼女はひどく苛立っているように見えた。ビンタは一度だけではなく、連続で繰り出され続けた。見る間に男の両頬が赤く腫れていった。し かし、なぜかそれでも社会科教師は幸福そうだった。恨みがましい反抗的な眼を向けることもなく、まるで陶酔するように穏やかな表情のままビンタを受け続 け、しかも完全に性器を勃起させていた。私は彼にフォーカスを合わせて何枚も写真を撮った。

その間に、冴木響子が、プールの中央で正座していた男に向かって何か言った。男は次の瞬間、一度深く頭を下げて床に額をつけた後、腰を上げて膝で 立った。そしてバケツの一つを取ると、まるで湯浴びでもするかのようにバケツを持ち上げて自分に向けながら傾け、その中身を体に掛けた。どろりとした泥の ようなものがバケツから流れ出て、彼の体を滑り落ちていく。私には、そのバケツの中身が何なのか、わからなかった。ただ、彼は至福の表情でそれを浴びてい た。陽光を受けて艶やかに光るその茶色い半液体を、彼は体に塗りたくっている。私は夢中でシャッターを切った。ファインダーの中で、冴木響子が更に何か彼 に命じた。すると彼は眼を輝かせて頷き、もう一つのバケツを頭の上へ持ち上げ、そのまま逆さにした。頭の天辺から、茶色い泥のようなものがぶちまけられ、 彼の全身を流れた。男の体が陽光を浴びて煌めく。木に縛られて未だ宮森明子にビンタされ続けている社会科教師が、殴られ続けながらも羨望の眼差しでその男 を見ていた。頬を腫らしながらも口を半開きにして、今にも涎を垂らしそうな塩梅だ。その他の、椅子や脚置きになっている男達も、同様の反応を示している。 全員の視線が、自らの仕事を忠実に担い続けながら、プールの男に向けられている。

やがて、プールの中央で泥のようなものに塗れている男が、体に付着したそれを手で掴み、そのまま両手を顔に宛てがって擦りつけ始めた。それはまるで 顔を洗っているような動きだった。更に男は、泥を掴んだままの手で自らの屹立した性器を握り、盛んに上下させ始めた。恍惚の表情を浮かべながら、一心不乱 に手を動かしている。冴木響子はそんな男の仕草を見て涼しげに笑い、植村仁美は呆れたように首を振り、宮森明子は相変わらず冷徹な瞳で社会教師を見据え、 時には唾も吐きかけながら、ビンタを張り続けていた。

奇妙な興奮に包まれた、きわめて奇妙な時間が、ガラスの向こうで無音のまま緩やかに進行した。私には一切物音が聞こえなかったから、ただただ異様 だった。プールの男は自慰に昂りながら背中を仰け反らすように身悶え、縛られている社会科教師以外、いつのまにか全員が自らの性器を弄っていた。冴木響子 の脚置きになっている男など、彼女に首四の字のように長い脚で絡めとられつつ、すっかり夢見心地だ。

暫くして、腰を上げた冴木響子が、ニ、三度手を叩いた。気づくと、植村仁美も立ち上がっていて、彼女の椅子になっていた男は、冴木響子の叩いた手の 音が響くのとほぼ同時に、全速力でプールに向かって突進を始めた。とはいっても、ずっと四つん這いになっていたせいで体が凝り固まり、膝も痛いのか、気持 ちばかりが逸っているようで、その動きはユーモラスだった。それでも、木に縛られている男以外は、みな手の音と同時にプールに向かっていて、その底に澱む ように溜まっている泥の中に身を投げだすと、思い思い、まるで奪い合うようにそれを手で掴んでは、体に擦り付けたり、顔に塗り付けたり、そのまま性器を 弄ったり、目をキラキラと輝かせながら夢中になり始めた。ただひとり、木に縛り付けられたままの社会科教師だけがその輪に加われなくて、地団駄を踏んでい た。宮森明子は、そんな男の焦燥感を吹き飛ばすように、まだビンタを続け、今や蹴りまで加えている。

いつのまにか、空のプールの中は、世紀末のような様相を呈していた。四人の男達が己の欲望を隠すことなく赤裸々に開示しながら、ひたすら泥にまみれ て蠢き、全員が自慰に耽っている。冴木響子と植村仁美がプールサイドで肩を並べて立ちながら、そんな男達の行動を満足げに眺めていて、やがてそこに宮森明 子が加わった。しかし社会科教師は木に縛られたままだ。彼だけはぐるぐるにロープが全身に巻かれているから、自慰すら叶わず、目に涙を浮かべながら悶々と 身を捩っていた。顔は真っ赤に腫れていて、満身創痍のように見えるが、依然として股間の性器だけは完全に屹立している。その姿は、見ていてとても哀れだっ た。

その頃にはもう、あのバケツの中身が何であるか、私にもだいたいの想像はついていた。しかし、それを認めるには、多少の勇気が必要そうだった。

我々はその後、ロビーへは戻らず、敷地内の別区画にある冴木響子の自宅へ向かった。彼女達の生活スペースへは、本線である回廊から、頑丈な防火扉で仕切られた先の専用の回廊を通っていかなければならなかった。

冴木響子がIDで防火扉のロックを解除し、専用の回廊に入った。彼女達の生活スペースは生い茂る深い木立で囲まれていて、居住者の目には絶対触れない設計になっていた。いわば彼女達の生活区域は、この施設内に於いて一種の聖域となっているのだった。

その専用の回廊に入ると、床に敷き詰められたカーペットがグレーから淡いピンクに変わった。その変化が、ここから先は特別な区域であることを示していた。

彼女達の自宅は、適当な間隔を置いて、三軒が並んで建っていた。しかし一軒一軒、住む人のセンスが色濃く表れていて、造りは全く違った。宮森明子の 自宅はコンクリートが打ちっ放しの都会的な二階建てで、植村仁美の家は、木材をふんだんに使用した山小屋風の建物だった。植村仁美とは、彼女の自宅前で別 れた。彼女には農場で作業している人々の監督という本来の仕事があった。

冴木響子の自宅は、落ち着いたレンガ造りの三階建てで、まさに「邸宅」とか「豪邸」と呼ぶにふさわしい建物だった。一階がガレージになっていて、純 白のベントレーと黒いBMWのオープンカーが見えた。回廊は、そのまま二階部分に張り出した専用のエントランスに繋がっていた。ただし本来の玄関は、ガ レージの手前に設えられた豪奢な石の階段の先に、たいそう立派なものがあった。

二階の玄関から自宅に入った我々は、白いグランドピアノが置かれた広いリビングに通され、ゆったりとした革張りのソファに腰を下ろした。冴木響子と宮森明子が並んで座り、私は低いテーブルを挟んで彼女達の正面のソファに身を沈めた。

部屋の隅にマホガニーの重厚なカウンターがあり、ホームバーになっていた。背後の棚やカウンターの上には高級そうな酒の壜がずらりと並んでいる。冴 木響子がそのカウンターの中に入り、飲み物を作って配った。礼を述べて受け取り、一口飲むと、それはウォッカをオレンジジュースで割ったものだった。再び 正面のソファに座った冴木響子が、手の中でグラスを弄びながら言った。

「ここにはありとあらゆる設備が整えられているのですが、ひとつだけ不備があります。電気、ガス、水道といったライフラインは大丈夫なのですが、下 水道だけが通じていないのです。ここはご承知のように町から外れていますし、その近い町ですらまだ下水のないところが多いのですから、さすがにここにだけ 引くことはできませんでした。ですから、敷地内だけにパイプを巡らし、独自のシステムを作りました。それはどういうものかといいますと、私達スタッフの生 活区域から出た下水はまず、あの先ほどのプールの脇にあるタンクに一時的に溜められ、居住者達の区域から出た下水は、そちらのタンクを通らず、そのままメ インのタンクへ流れるようになっています。もちろん、一旦はプール脇のタンクに溜められた下水も、最終的にはメインタンクへ流され、一週間に一度、業者が 来てそのメインタンクから回収していきます」

そう言って冴木響子は意味深長な目で私を見つめた。やはり、そうだったか、と私は思った。彼らが嬉しそうに体に塗り付けていたのは、やはり彼女達の 排泄物だったのだ。そんなような気はしていた。しかし、実際にそう告げられると、衝撃的だった。宮森明子が脚を組んでソファの背凭れに背中を預け、煙草の 煙を燻らしながら、吐き捨てるように言う。

「あいつら、正真正銘の変態なのよ。私達のお風呂の残り湯だって嬉しそうに飲むのだから」

それはかなり刺々しい口調だった。一片の慈愛もなく、彼女は心底から彼らを軽蔑しているようだった。私は彼女の言い方に、少々緊張した。決してその侮蔑の台詞は私に向けられたものではなかったのだが、なぜか突き刺さるように声は響いた。冴木響子が微笑みながら私に言う。

「明子は、私や仁美とはちょっと違うタイプなの。サディストという意味では同じなのだけど、私や仁美の場合、うちの子達を苛めはしても、彼らに嫌悪 感は抱かない。もちろん『哀れな豚』みたいには思うけれど、私はそういう彼らの姿を見るのが楽しいし、ときどきかわいいとさえ思うわ。愛玩動物みたいなも のかしら。でも、明子は違うの。かわいいなんて、絶対に思わない」

私はその感覚がなんとなくわかる気がした。冴木響子や植村仁美は、商売としてSMクラブの女王様の役割を演じろと言われれば、たぶんソツなくこなせそうだが、宮森明子は無理そうだ。そんなことを考えていると、宮森明子が言った。

「私はね、相手なんか誰でもいいの。どうせここへ来るような奴は人間を捨ててる家畜以下の存在なんだし」

宮森明子はそう言うと、煙草を灰皿にもみ消し、なぜか私を冷たい目で見据えた。わたしにはなぜ彼女がそのような目で自分を見つめるのかわからなかったが、こんな目で見られたらマゾヒストはたまらないだろう、と感じた。

「それで澤井さん、記事にはなりそうですか?」

グラスをテーブルに置いて冴木響子が訊いた。正直なところ、私にはまだ記事にできるという自信がなかった。どうも、こちら側から見ただけでは片手落 ちになりそうな気がしてならなかった。記事にするなら、表と裏から眺めて、総合的に判断しなくてはならない。つまり、どうしても居住者のインタビューが不 可欠に思えるのだ。支配者側と被支配者側、双方の視点を捉えてはじめて記事になる気がした。だから私はその気持ちを伝えた。

「あのう、居住者の方々にインタビューはできませんか? やはり彼らの心情等がわからないと、真実が伝わりにくいと思うのです」

しかし、冴木響子は静かに首を横に振った。

「残念ながら、それはできません。前にも申し上げたと思うのですが、彼らはとてもシャイですし、何より男性と話をすることを望みません。私達の前で ならどんな破廉恥なことでも平気でできるのですが、それを普通の男性に見られることを彼らは極端に嫌うのです。マゾとは、たいていそういうものなのです よ。普段は引っ込み思案なのだけれど、女王様の前では人を押しのけてでも出てくる。そういう時の彼らは、すごく貪欲。恥も外聞もなく、己のM性に忠実に、 全てを晒け出してくる。ある意味では究極のエゴイストかもしれません。しかし、そんな積極性を見せるかと思うと、それ以外の時はとても気が弱くて、とても ではないですが、あなたのような普通の人に彼らが本心を語るとは思えません。というか、たぶんそそくさと逃げ出してしまうのがオチでしょう」

その頑な言い方からして、居住者へのインタビューは断念するより仕方なさそうだった。無理強いはできないし、彼らを強制的に捕まえて話を聞くことも できない。こうなったら、記事をものにするためには、できるだけ事実を集めて、私の想像力と彼女達の補完によって居住者達の心情を代弁するしかないだろ う。自信はまるでなかったが、記事の内容を彼女達寄りにして、うまくまとめあげるしかない。

「では、インタビューは諦めます。その代わりと言っては何ですが、あなた方がどういう理由、というか、どういう目的で彼らをここに住まわせているの か、その辺りのことを率直にお教えいただけますか? 彼らから金銭の授与はないという話でしたから、営利目的ではないですよね。そうなると、多額の資金を 投じてまでして、なぜ自前でこのような立派な施設を造ったのか、それがわからないのですが」

私がそう訊くと、冴木響子は楽しそうに笑った。

「理由? 目的? そんなものありませんわ。だってたとえばあなたが犬を飼うという場合を想像してみてください。その時『飼いたい』という意志以外 に何かありますか? あなたはお金を儲けるために犬を飼いますか? 或いは、犬を飼うことで何かを成し遂げよう等と目的を持ちますか? それと同じです。 犬を飼うことに、犬を飼うという理由や目的しかないように、私達が彼らをここで飼うことにも理由や目的はないのです。彼らを手許に置いてここで飼う。それ が全てです。私財を投じて造った施設も、犬を飼う際に犬小屋やトイレシートやドッグフードを揃えるのと、感覚的には同じです」

そんな風に言われると、私は頷くしかなかった。居住者を犬に置き換えて説明することで、確かにとても簡潔に事実を表現していた。そして、私がなるほどと納得しかけていると、唐突に宮森明子が、あまり興味も無さそうにぶっきらぼうな口調で、驚くべきことを言った。

「ねえ、澤井さん、でしたっけ? あなた、そんなにあいつらの気持ちが知りたいのだったら、一度あなた自らが彼らの立場を経験してみたらどうです か? つまりあいつらと同じ格好をして、同じようにここで暫く暮らしてみるのです。そうしたらきっと、あいつらの気持ちがわかりますよ? なんだったら、 私があなたを調教してあげましょうか?」

「えっ?」

あまりにも思いがけない提案だったので、私は咄嗟に声を上げてしまった。冗談ではない。いくら何でも、私には無理だ。なぜなら、私はごく普通の性癖 しか持ち合わせていない。とてもではないが、たとえ期間が限定されるとしても、マゾヒストとして生活なんかできない。私はただのルポライターだ。

そんな私の戸惑いを察したのか、冴木響子が優しく言った。

「それはとてもいい考えだと思うわ。でも、いきなりここで暮らすのは流石に無理でしょう」

私は急いで何度も首を縦に振った。良かった、助かった。冴木響子がそう言うのだから、どうやら最悪の事態は回避できそうだった。が、しかし、彼女の言葉には続きがあった。

「でもね、澤井さん。ここで暮らすのは無理だとしても、彼らの気持ちを知るのに有効な手段はあるのよ。それもかなり手軽な」

私はたいそう怪訝そうな顔をしていたのだろう。冴木響子はそんな私の反応を楽しむように微笑みながらじっと目を覗き込み、ゆっくりと言葉を繋いだ。

「それはどういうことかと思っているんでしょう? いいわ、教えてあげる。ここにはね、簡単なマインドコントロールをかけられる設備があるの。私達 には以前から『ごく普通の人をマゾヒストに育ててみたい』という思いがあって、そのためにいろいろ準備はしているの。それで、まだ一度も試してはいないの だけど、いい機会だから、あなた、体験してみてくださらない? きっと取材の役に立つと思うわ。それに、マインドコントロールと言っても、ずっと掛かりっ 放しというわけではないし、もちろん体や精神に影響はないし、残ることもない。すぐに解けるし、一時的にマゾヒストになるだけ。ただ、それはあなたに全く マゾの資質がなかった場合だけど。もしも少しでもM気があると、わからないわ。もしかしたらこれを機会にマゾ性が開花して増幅してしまうかもしれない。で もね、いずれにしてもここの住人達みたいにはならないわ。マインドコントロールは時間の経過で必ず解けるし、それだけはちゃんと保証します。だから、ど う? 試してみない?」

私はふと、彼女の口調が微妙に変化していることに気づいた。依然として丁寧ではあったが、その響きには親しげな雰囲気が含まれている。いつしか私は そのムードに取り込まれていた。確かに、彼女の提案には明らかな拒絶反応が瞬間的に湧き起こったが、しかし、全く興味を覚えなかったかというと、それは嘘 になる。不思議なことに、なぜか私は自分の中の拒否感とは裏腹に、体験してみたいという方向に気持ちが傾き出していた。それは自分でも信じられない感覚 だった。ただ、それでも踏ん切りがつかなかった。そんな私の背中を押したのは、宮森明子の一言だった。

「すぐに断らないということは、迷ってるのね。で、迷ってるってことは、やってみたいという気持ちがあるってことでしょ? それなら、やってみなさいよ。別にそのままここの住人みたいになるわけじゃないのだし」

その通りだった。私は意を決して冴木響子に訊ねた。

「それで、もしやるとしたら、いつから始めて、期間はどれくらいですか?」

「そうね、あんまり深くはかけないから、今夜から始めるとして、そうね、どうかしら? 明日の朝にはかかってるんじゃない? で、放っておけば、その晩には解けると思うわ」

確かに手軽だった。正味二十四時間以内だし、心や体にも害はないという。だったら、住人達の気持ちを知る手段としては最も有効に思われた。

「わかりました。では、やってみます」

「そう。じゃあ準備をするから、そうね、今夜の八時半から始めましょうか。セントラルホールの地下に専用の部屋が作ってあるから、とりあえず一晩そこに入ってもらうわ」

「どうかお手柔らかにお願いします」

そう私が言うと冴木響子は小さく頷き、「大丈夫よ」と微笑んで見せてから宮森明子にちらりと目を遣り、再び私に向き直った。

「それで、マインドコントロールをかける時、ひとり女王様役の人を設定しないといけないのだけれど、あなたの場合、私や仁美ではなく明子の方が向いていると思うの。いいかしら?」

なぜ私には宮森明子が適任なのかまるでわからなかったが、拒否権はないし、断る理由もないので、私は曖昧に頷いた。宮森明子が言う。

「どんな風になるか、楽しみだわ」

その目に一瞬、サディスティックな光が射したように見えた。もちろん気のせいに過ぎなかったかもしれないが、私は反射的に、決心したことを後悔しそうになった。そんな逡巡が顔に出たのか、冴木響子が優しい声音で言った。

「心配はいらないわ。本当に軽いものだから」

小首を傾げて微笑む冴木響子に、私は何も言えなかった。彼女が続ける。

「それじゃあ、八時まではゆっくりしていてください。今夜は早めに、六時に夕食を運ばせるわ。別に危険な薬品などを使うわけではないし、安心して。あなたはリラックスして一晩、地下の部屋にいればいいだけ」

「はい」

私は頷き、そろそろ暇を告げようとソファから腰を浮かせた。

「では、失礼します」

「もうお酒はよろしい?」

「ええ、結構です。ごちそうさまでした」

「では、八時にロビーに来てくださいね。待ってますから。そうそう、一度マインドコントロールがかかってしまえばカメラやメモ帳なんて邪魔になるだ けだと思いますから、手ぶらで来てください。それと、悪いんですけど、私は明子とここに残ってこれから今夜の打ち合わせをしますから、お送りできません。 でも、帰りはIDがなくてもドアを通ることができますから、今ここへ来た回廊は戻らず、本館の方へ進んでください。そうしたら、じきに本線と合流しますか ら、本館まで戻ることができます」

「わかりました。それでは八時に」

「ええ」

私は冴木響子と宮森明子に一礼してリビングを辞し、廊下を進んで玄関を抜け、回廊に出た。そして冴木響子に言われた通りに歩きだしながら、大変なことになったな、と今更ながら思った。気がつくと、相当強い酒だったのか、いつのまにか軽く酔いが回っている。

しかし、考えようによっては、彼らの気持ちが少しでもわかれば、ここでの取材は終わったも同然だった。しかも、マインドコントロールといっても軽い ものらしいから、明日の晩には解けて、明後日にはここから帰ることができそうだった。取材者という立場でありながらゲストのようにもてなされるここでの生 活は快適このうえなかったが、いつまでもいるわけにはいかない。ここはホテルではない。私はあくまでもギャラをもらって仕事に来ている立場なのだ。帰った ら原稿を仕上げないといけないし、プロットくらいはここにいる間に組み立てておきたい。ただ、ありのままをリポートしたとして、果たして掲載可能だろう か、という懸念はある。ここの生活は、違法性は皆無だろうが、常人には理解の範疇を超えている。

やがて本線の回廊と合流した。しかし私はそのまま本館へ戻る気にはなれず、敷地内を一周してみることにした。

前方の森の中に、セントラルホールの建物が垣間見え、陽を浴びて光っている。その手前にあるガラス張りの居住棟に差し掛かったが、二棟とも無人だった。回廊内はとても静かで、差し込む自然光に満ち溢れている。

更に進むと、先ほどまで宮森明子が管理する住人達が戯れていたプールが見えてきた。しかし、排泄物はもう完全に流されていて、辺りに人気はなく、濡れて黒ずむコンクリートの色だけが僅かにその痕跡をとどめているだけだった。

じきに食堂の建物が見えてきた。中を覗くと、農作業を終えたらしい植村仁美のグループの姿があった。どうやら遅めの昼食の時間らしく、全裸の住人達 がごはんの茶碗だけを持ちながら、椅子に座る植村仁美の前で一列になって並んでいた。何をしているのだろう? と興味を抱きながら注視すると、植村仁美は ストッキングを脱いで素足になり、列の先頭にいる老人が膝をついて差し出した茶碗の上へ足を運んだ。そして、足の指の間に溜まった垢や埃、更には足の裏や 踵の角質を、手や軽石を使って削ぎ落とし、その茶碗の中のご飯の上へ振りかけていく。老人は両手で大事そうに茶碗を持ちながら、嬉しそうに拝受している。

やがて老人が深く礼をして去る。するとすぐに次の男が植村仁美の前に立つ。そして老人と同じように跪いて茶碗を差し出す。植村仁美が、そのご飯の上へ唾を吐く。

私は、暫くそんな光景を漫然と眺めた後、本館の自室へ戻るため、再び歩きだした。

部屋の広さはせいぜい四畳半くらいだ。黒く塗られた壁に、蝋燭の炎が揺れている。明かりはその一本の蝋燭だけで、私の目はゆらゆらと揺らめくその小さな火に吸い寄せられている。

室内には壁際にぽつんと椅子が一脚置かれているだけで、濃密な百合の花の香りが満ちている。それは噎せ返るほど強い。私の精神は、その強い花の香気 と、闇を強調するように揺れる蝋燭の炎によって、どこか違う場所へ連れていかれてしまいそうな漠然とした不安感と、母なる海の穏やかなうねりに似た大いな る安らぎを同時に感じ、早くも不思議な感覚に包まれ始めている。

耳に装着したイヤホンから絶え間なく音楽が流れていた。それは、古代部族のチャントや電子音楽や特殊な民族楽器を使ったメロディなどが絶妙に組み合わされた、これまでに一度も耳にしたことがない種類の音楽だった。

十分ほど前、私はロビーで冴木響子と待ち合わせをした後、彼女に連れられてこの部屋へ入った。宮森明子や植村仁美の姿は見なかった。私は黙って冴木響子の後について夜の回廊を歩き、無人のセントラルホールに入った。

ホールに着くと、冴木響子は私を地下へと誘導した。今朝早く住人達の儀式を眺めた場所から、その時は気づかなかったのだが、地下へと続く階段があった。

急な階段を二階分下りていくと、上層のアリーナと同じくらいの広さのスペースに出た。壁はコンクリートが剥き出しで、床は固い木材のフローリング張りだった。そして、その中央に、いま私が入っている部屋がプレハブ小屋のように置かれていた。

だから厳密にいえば、ここは部屋の中に置かれたもう一つの部屋だ。たとえば地震のシミュレーション装置を想像してもらうとわかりやすい。震動を発生 させる機械の上にスケルトンの住居が再現されている、あんな感じだ。但し、壁はしっかりとした木材だし、窓はなく、出入りのためのドアが一つあるだけだ。

冴木響子はわたしをこの部屋の前まで連れてくると、ようやく口を開いた。

「これからあなたには明日の朝までこの中に入ってもらいます。何も怖いようなことはしませんから、安心してください」

そう言われても無防備にはなれず、緊張気味に私が頷くと、続けて彼女が言った。

「では、裸になってください。そしてこの中に入って床に座って宮森明子を待ってください。正座が理想的ですが、辛ければ胡座でも体育座りでも何でも構いません」

そしてドアを開き、中を私に見せた。

「椅子が一脚だけありますが、あれに座ることだけは許可できません。体勢は自由ですが、必ず床に座ってください。それと、壁からイヤホンのコードが出ていますから、それを耳に装着してください」

矢継ぎ早に命じられたが、私は最初の『裸』という時点で、そんなことは聞いていなかったので激しく躊躇した。しかし冴木響子はそんな私の躊躇など完 全に無視して意にも介さず、いつのまにかサディストの雰囲気を漂わせながら「早くしなさい」と命令口調で私を促した。その静かでありながら強いムードに、 私は瞬間的に気圧されたのか、殆ど無意識のうちに萎縮しながら「はい」と頷いていた。

もう戻れなかった。私は怖ず怖ずとその場で服を脱ぎ、裸になった。そして股間を手で隠しながら、脱いだ服について「あのう、この脱いだものは?」と冴木響子にその処理の方法を訊ねたのだが、彼女から答えはなく、「早く、中に入りなさい」と一層強く命じられた。

「すいません」

私は恐怖に近いものを感じながら冴木響子に頭を下げ、ドアを通り抜けた。そして部屋に入ると、背後から冴木響子が「そこのイヤホンを付けて、お座りしてなさい」と命じ、私がそれを装着すると、もう何の言葉もなく、いきなりドアが閉じられたーー。

始まりも終わりもない音楽と強い百合の香りに包まれながら、闇に揺らめく蝋燭の小さな火を見ていると、時間の感覚が捩じれていく。殆ど真っ暗に近い ので、裸でいる自分の体の輪郭や感覚さえ曖昧になってくる。私は床に胡座をかいて座り、蝋燭の炎を見つめたり、時々視線を外して闇を凝視してみたりしなが ら、いつになったら宮森明子は現れるのだろう? と考えていた。しかしその思考も、やがて混濁してくる。音楽が意識を掻き回し、闇が視覚を奪い、強過ぎる 花の匂いが現実感を遠ざけていくのだ。

やがて、起きているのか寝ているのかわからないくらい時間の感覚が希薄になってきた。四方を壁に囲まれている圧迫感や閉塞感すら徐々に薄らいでい く。私は間違いなく一糸纏わぬ全裸で床に座っていたが、時々ふと自分がいま裸であることさえ忘れそうになってきた。空間と意識と肉体が溶け合い始めている ようだったのだ。

どれくらい時間が経過したのか。それが全く定かではなくなってきた頃、ふと気がつくと、耳から聞こえ続けている音楽の中に女の喘ぎ声が混じり始め た。そして更にその声に意識を集中させると、喘ぎ声だけでなく、女の強い何かを命令するような声や、笑い声も聞こえ始めた。一瞬、幻聴か? とも思った が、たぶんそうではなかった。囁き、嘲り、笑い、喘ぎ、そんな様々な女の声が、音楽とは呼べないような音楽の中に響いていた。

そのうち、私はだんだん変な気分になってきた。いつしか、激しく女性を求め始めていたのだ。その証拠に、闇の中で私の性器は完全にそそり立ってし まっていた。思わずその性器に手が伸びそうになったが、おそらくどこかにカメラがあって監視されているだろうから、かろうじてその衝動を抑えた。しかし、 疼きはいかんともし難くなってきた。イヤホンから響く女の声は、明らかに強くなってきている。目を閉じると、女のセックスの姿態が浮かび、まるでフラッ シュバックするように、この施設内で見かけた居住者達と冴木響子達の姿が甦って意識に挿入されてくる。支配者層である女、服従するしかない被支配者層の男 達。歪だが平和な構図。揺らめく炎が脳裏を占めて時間の経過が澱みはじめる。

私は頭を掻き毟り、強く目を閉じる。そして奥歯を噛み締めながら頭を抱え、蹲る。音楽のボリュームが上がったようだ。頭蓋骨の中で激しく反響するかのように女の声と楽器の音が絡み合う。

その時、不意にガチャリとドアが開いた。外の光が何の前触れもなく闇に差し込んだので、私は反射的にそちらを向きながらも、その眩しさに狼狽え、身を庇うように体を丸めながら目を細めた。

ドアから入ってきたのは宮森明子だった。すぐにドアは閉じられ、彼女は蝋燭の近くに立った。私はその姿に思わず息を飲み、条件反射的に正座した。彼 女は挑発的な黒いボンデージに身を包んでいた。踵の高いハイヒール、しなやかでいて肉感的な脚のライン、切れ込みの激しいワンピースのボンデージが逞しい 腰をぴったりと包み込んでいる。更に視線を上げていくと、胸の辺りが大きく開いていて、柔らかそうでたわわなバストが突き出している。蝋燭の明かりに照ら された肌は透き通るように白く、広い肩幅のうえに、美しい顔立ちがあり、絶対零度の瞳で私を冷たく見下ろしている。私はその視線に痺れた。瞬間的に性器の 硬度が限界を超え、完全に勃起した。百合の香りに混じって、狭い室内には彼女の香水が漂っている。豊かに波打つ髪の間に、イヤリングが煌めきを放ってい た。私は痴呆のように彼女の美しさに見とれていた。

宮森明子はまるで汚いものでも見るように私を睥睨しながら、私の耳のイヤホンを、コードを摘んで引っ張るように外し、それを床に放り捨て、壁際に置 かれた椅子に腰を下ろした。私はその足元に正座のままにじり寄り、居住まいを正した。宮森明子が優雅に脚を組む。そして、胸の谷間を強調するように前のめ りに屈むと、じっと私を見つめ、軽蔑するように唇の端を持ち上げて冷笑を浮かべた。

「嫌ねえ、おまえ。自分の股間を見てみなさい。もうギンギンじゃない。おまえもここにいる連中と一緒でマゾなの?」

そう訊かれて私が返答に窮していると、いきなり頬にビンタを張られた。

「おまえ、返事もできないの?」

「すいません」

私は咄嗟に、条件反射的に額を床につけて謝っていた。宮森明子から蔑みを含む笑いが小さく漏れたが、私は顔を上げることができなかった。いたたまれ ない気持ちだった。私は決してマゾヒストではない。そう強く自分に言い聞かせながら、私はようやく床から額を離して上体は起こしたが、彼女の顔へ視線を向 けることはできなかった。このうえなく屈辱的な気分だったが、唇を噛んで耐えた。こんな姿は死んでも恋人には見せられない、そう思った。

しかし、宮森明子は容赦なかった。私を更に精神的追い込むように、私の顎に手をかけて前を向かせると、おかしそうに侮蔑の笑みを浮かべながら私の目 を覗き込み、ふとその笑みを消して冷徹な瞳に戻り、再びビンタを張った。そして、おもむろに壁に手を伸ばし、壁紙を剥がした。すると、そこに巨大な鏡が出 現し、全裸で跪いて、しかも勃起している情けない私の姿が映し出された。宮森明子が私の髪を無造作に掴み、鏡と無理やり対面させる。

「ほら、鏡を見なさい。なんて格好なの。これでも、おまえはここの住人と何か違うと言うの? どう見てもマゾ豚そのものじゃない」

「す、すいません」

私はまともに鏡を見つめることができず、俯いて小声で言った。その視界には、宮森明子のハイヒールが揺れていた。黒い革と白い甲のコントラストが艶 かしかった。つるつるとした脹脛の曲線が柔らかそうだった。と、その彼女の足が伸びて私の性器の上に置かれた。冷たいハイヒールの底が、熱く滾る性器を踏 み、彼女はまた顎に手をかけて私の顔を自分に向けさせると、至近距離で真っ赤に塗られた唇を窄め、ふぅと息を吹きかけた。その吐息で、私の後頭部の深い辺 りにビリビリとした心地良い痺れが走った。そのまま宮森明子が訊く。

「おまえ、人前でオナニーしたことある?」

「いいえ、ありません」

そんな経験などあるわけがない。自慰など、人に見せるものではないだろう。その気持ちは強かったが、私の声は蚊の鳴くような小さいものだった。

「じゃあ、初体験ね。ほら、見ててあげるから、やりなさい」

「そ、そんなことは……は、恥ずかしいです」

私は必死に首を横に振った。宮森明子が幼い子供をあやすような優しい口調で言う。

「誰も見てやしないわ。さあ、体だけじゃなく、心も裸になりなさい」

宮森明子は私の性器をヒールの底で踏んだまま、私の耳元に唇を寄せて囁いた。彼女の髪の香りが私の理性の欠片を翻弄する。彼女の体からは、とても良い匂いが絶えず漂っていた。それは甘くて、正常な思考回路を麻痺させ狂わせるには十二分過ぎるほど濃厚な芳香だった。

それでも、私にはまだ人前で自慰をするという決断が下せず、激しく混乱しながら躊躇していた。すると、宮森明子は唐突に性器から足を下ろし、すさまじい勢いで私の頬を平手で張った。そして、優しい雰囲気など完璧に消し、がらりと強い口調に変えて言った。

「ほら、さっさとやりなさい。おまえは変態なんだよ。今更何が恥ずかしいの? こんな格好を晒しておいて、まだ自分はマゾじゃないと言い張るつもり? 鏡を見てみなさい。裸で跪いて、チンポおっ勃てて興奮してるくせに何をマトモぶってるの。おまえはマゾ豚なのよ!」

私の顔に宮森明子は唾を吐き、更にビンタを張る。私は正座の足のうえに手を軽く握って置き、体を震わせながら俯いた。確かに、彼女の言う通りだっ た。私はマゾヒストではないはずなのに、こんな風な屈辱的な扱いを受けながら確かに昂ってしまっていた。それは決して認めたくないことだったが、残念なが ら否定し難い事実でもあった。そして次の瞬間、私の中で何かが瓦解し、本能的に絶叫していた。

「すいません、やります。いえ、やらせてください! 是非見てください、ぼくの恥ずかしいオナニーを!」

宮森明子はそんな私の反応に満足したのか、椅子の背凭れにふんぞり返ると、腕を組んで私を見下ろした。魅惑的で冷徹な視線が私の煩悩を貫く。彼女がそのまま顎をしゃくり、「さっさとやりなさい」と命じる。

「はい!」

私は正座のまま腰を浮かせて性器を握ると、猛然と自慰を始めた。一瞬、同じことをしていた住人達をどこか冷めた目で若干軽蔑しながら見ていた自分の 事を思い出して強烈な自己嫌悪の念が湧いたが、もうそんなことまで気持ちは回らず、すぐに己の世界に沈没した。そして、人前でマスターベーションをするな んて、本当に生まれて初めての経験だったが、このうえなく興奮した。宮森明子は鑑賞しているだけで、何も言わないし、何もしない。その足元で、私だけが昂 り、淫らで破廉恥な吐息を漏らしながら猿のようにシコり続ける。

白くてすべすべしていそうな宮森明子の脚が常にすぐ目の前にあり、私は無性に触りたくてたまらなかった。そして実際に、耐えきれなくなって手を伸ば した。すると、届く寸前で邪険に手で払われ、「おまえ、何考えてるの!」とそのまま蹴り飛ばされた。私は為す術もなく後方へ転がり、すぐに体勢を立て直し てひれ伏す。

「申し訳ございません!」

「私に触ろうなんて百年早いわ。マゾ豚という分際を弁えなさい。おまえはひとりでシコってればいいのよ」

「はい、本当に申し訳ございません」

私は謝罪し、再び自慰を再開したが、それでもまだ彼女の脚に触れ、頬を寄せ、ハイヒールを脱がせて足の指もしゃぶりたいという欲求に支配されてい た。私は知らぬ間にそんなことを考えていた自分にはっと気づいて愕然となったが、どうすることもできなかった。いまや私の常人としての人格は完全に崩壊の 一途を辿っていた。

「私の目を見てシコシコしなさい」

いつのまにか俯いていた私に宮森明子が命じた。私は自慰を継続しながら恐る恐る気配を伺うように上目で彼女に視線を向けた。すると、目が合った瞬 間、私は超絶的な羞恥心に捕われ、体と精神の奥深い部分で何かが鮮烈に爆発した。宮森明子が唇を歪めて冷笑しながら私の頬を強く張り飛ばす。

「その自信のない目、それこそがマゾの目なのよ。おまえは哀れな一匹のマゾ豚、わかった?」

そう言って瞳を覗き込んだまま更にビンタを張る。私はそれを受けながら、激しくペニスをシゴく。

「はい! ああ、明子様ー!」

私は叫んでいた。もう何も隠さなかった。私は彼女の前であまりにも無力だった。完全に身も心も彼女に支配されていて、私自身、何よりそうあることを強く望んでいた。

「はあはあはあはあはあ」

私の呼吸が絶頂に近づくにつれて荒くなっていった。狭い密室には私の淫らな呼吸音だけが充ちていた。いつしか私の腰は完全に浮き上がり、突き出すよ うに勃起を晒しながら激しく擦り続けている。それはまるで目の前に座る支配者に行為を捧げるような、自分の破廉恥さを強調する仕草だった。

「ああ、も、もうイキそうです。明子様、どうかぼくのイク瞬間を見てください!」

私はそう絶叫し、白い夢の中へ華々しく墜落した。しかし宮森明子は何も答えず、ただ冷ややかに見据えているだけだった。私は射精を終え、言い知れぬ 屈辱感に打ち震えていた。手と性器は精液に塗れたままだったが、ティッシュも何も与えられず、後始末もできずにいた。惨めだった。私が今してしまったこと は、生産性とはまるで無関係の空虚な行為だった。人前でひとりで果てることは、ひとりでこっそりと処理する時とは比べものにならないくらい虚しかった。私 は簡単に一線を越えてしまった。放出を終えて徐々に平静を取り戻してくると、後悔の念が沸々と湧いてきた。死にたいほど恥ずかしく、穴があったら入りたい 心境だった。しかし、穴はないどころか、相変わらず目の前には支配者の女性がいて、部屋は狭く、逃げ場所などどこにもなかった。

性器がだんだん硬度を失い、次第に萎えていった。それにつれて私の心も沈んでいった。私は精液に塗れた手を膝に置いて正座したまま、宮森明子の前で項垂れていた。彼女は依然として何も言わなかった。

やがて宮森明子は立ち上がると、また壁紙の一部を剥がした。すると今度はそこに50インチほどのテレビモニターが現れた。彼女は、綺麗に壁紙を剥が し終えると、まだ顔を上げられないでいる私を見下ろし、「変態」と短く一言だけ言い、唾を私の後頭部に吐き捨てて、そのまま部屋から出ていった。ドアが開 き、すぐにまた閉じる。

私は再び唐突に孤独になった。目を閉じると、瞼の裏には幻のように宮森明子の白い脚が焼きついたままだった。私はすっかり萎えてしまった性器をベト ついた手で触りながら、これまでに味わったことがなかった未知の快感と、絶望の縁に立たされたような恥辱を同時に実感していた。

彼女が去って暫くすると、モニターが明るくなった。どこかでリモートコントロールされているらしい。私は明るくなった画面に目を遣った。すると、ビデオ機器と接続されているのか、映像の再生が始まった。狭い室内全体が、そのモニターの輝度によってぼんやりと明るくなる。

唐突に映像が始まる。それは何かのサブリミナル映像のようだった。コマ落としの短いカットが次々に映し出されてはフラッシュが瞬くみたいに忙しな く、心の表面を削るような不自然なノイズとともに切り替わっていく。ノイズは大音量で、画面が映し出していくのは原色が点滅する超高速のスライドショー だ。

画像は実に様々だった。単なる抽象的なCGだったり、宇宙や遺跡や自然現象だったり、男と女のセックスだったりSMプレイだったり、群衆の行動や街 角のスナップだったり、残酷でショッキングな死体だったり、蛆が湧いた腐った傷口のアップだったり、出産シーンだったり、スタイル抜群なビキニモデルの挑 発的なポーズの連続だったり、古い戦争のジャングルでの戦闘の様子や空爆、原爆雲、要人暗殺、首相や総統や大統領の演説、スタジアムでのマスゲーム、サバ ンナでシマウマを襲うライオン、その屍骸にたかる禿鷹、腐った肉を貪るハイエナの群れ、野球やサッカーのゲーム、子供の笑顔、難民キャンプの孤児、コーラ やビールや自動車のロゴ、幸せな家族、焼けただれた死体、どろどろに溶け出した脳髄、ロックスターの派手なライブステージ、テーブルの上に無造作に転がる 眼球、絞首刑、銃殺、暴動、光が降り注ぐ宗教画、仏像、男女の性器、絡み合う舌、サーカスの舞台裏で寂しく煙草を吸うピエロ、歓声を浴びながら拳を突き上 げる勝者のボクサー、明かりが消える手術台……そんな様々な何の脈略もない画像が延々と切り替わりながら終わりがないように50インチの大画面の中で続い ていく。私はその光の明滅に引き寄せられ、意識が混濁していく。

やがて不意にノイズが沈黙し、画面も暗くなった。そしてやけに長く感じる静寂の後、再びぼんやりと画面が明るくなり、そこに宮森明子の姿が浮かび上がった。

薄暗い部屋の中のようだ。彼女はボンデージ姿で、裸のM男を跪かせている。調教ビデオのようだった。彼女はその映像の中で、ひたすらM男を苛め抜い ていた。縛り、吊るし、殴り、鞭を打ち、笑い、蹴り、嘲り、締め上げている。カメラワークが絶妙だった。苦悶によがりながらもどこか恍惚となっているM男 の表情や彼女のサディスティックな笑みにアップで迫り、全体的な俯瞰図が効果的に挿入される。

私は画面に惹き付けられていた。つい今さっき果てたばかりだというのに、また俄に昂っていた。宮森明子の挑発的な言葉や鞭の音などが大音響で流れて いる。暗い部屋の中でモニターの画面だけが明るいため、その映像は簡単に私の脳裏を占領した。気がつくと、いや、気がつくまでもなく、私は性器を握りし め、擦り上げ始めている。

調教の映像は延々と続いた。ありとあらゆる責めが50インチの画面の中で繰り広げられている。私は自慰を続けながら自分の精神が壊れ出すのをひしひ しと感じていた。宮森明子という存在以外、何も意識には入ってこなかった。私は画面を注視しながら、首輪を装着して苛められているM男に嫉妬していた。画 面の中で宮森明子の調教を独り占めしている名前も知らない男が羨ましくてたまらなかった。自分もそうして欲しい、と胸を掻き毟るように悶える。もう、とて もではないが普通の精神状態とは呼べないレベルに私は達してしまっていた。

ともすると私は自慰に耽り、放出を果たしては、すぐにまた昂り、性器を擦る。終わりなく続けられる映像世界に支配されながら、私は何度も自慰をして その度に白濁液を噴き上げた。そんなことを繰り返しているうちに、私の中から後悔や自己嫌悪といった概念はすっかり消滅していった。

どれくらいそんな調教の映像が続いたか定かではなかったが、ふとした瞬間、ビデオの雰囲気が変わった。唐突に調教場面が消え、宮森明子のイメージ フィルムのようなものに切り替わった。画面の中の彼女は神々しく、自分とは存在のステージが違うということを改めて脳に刷り込まれた。彼女は女神だった。 彼女こそこの世界の創造主だった。私は何の矛盾もなくそう思った。私など卑しい下僕に過ぎない。強烈な劣等感が感情を貫いて精神の深部にインプットされて いく。画面には次々と彼女の体の各パーツが大写しになっていく。艶かしい脚、高貴な雰囲気を漂わせる足の裏や指、発達した腰、豊かなバスト、情熱的で赤い 唇、そしてダイヤモンドの煌めきに似た光を宿しながら強い意志を秘めて透き通る瞳……私の神経がチリチリとショートする。しかし性器と乳首だけは決して見 ることができない。そのもどかしさが、私を一層狂わせていく。

「ああああ明子様ー」

誰もいない小さな暗い部屋でひとり、私は叫んだ。淫微な被虐感に痺れながら、私は狂っていた。闇の中で七転八倒し、ひたすらペニスを擦り続ける。

「明子様、明子様、明子様、ぼくをあなたの奴隷にしてください!」

闇に向かって絶叫し、私はまたしても精液を噴出する。ビデオが、再び調教映像に切り替わった。音声が更に大きくなっている。時間だけが過ぎていく。 私は何回となく射精する。それでも、性欲は全く衰えることがなかった。衰えるどころか、時間が経つにつれて射精の間隔が短くなり、性器は萎える暇がないく らい常に屹立し続けた。

私はもう何も隠さず、大胆にマゾ性を覚醒させ、開花させ、その衝動に身を委ねた。手と性器は既に大量の精液に塗れていて、その穢れは床にも飛散した ままだった。拭き取るものがないから、ひたすら出しっ放しだった。普通なら狭い密室だから生臭い匂いに充ちているだろうが、百合の花の香りが強いので精液 の臭いはまるで感じなかった。

どれくらいの時間が経過し、どれくらい射精を果たしたかわからなかったが、不意にドアが開いた。光が射し、その中に宮森明子が立つ。私は弾かれたよ うに自慰を中断すると、彼女の足元にひれ伏した。床に近い位置から彼女の足元を覗くと、ハイヒールは履いておらず、素足だった。私の視界を白くしなやかな 爪先が占める。透明なペティキュアが塗られた形の良い爪に、蝋燭の炎が映って揺れていた。私はこの世の造形とは思えないその美しい爪先を盗み見しながらご くりと生唾を飲み込んだ。

宮森明子は無言のまま嘲笑の雰囲気だけを漂わせて椅子に座り、脚を組むと、顔を上げた私の目の前に右足の爪先を突きつけた。手には鎖が繋がった首輪 を持っている。そして、突きつけた足を鼻先や唇に触れるか触れないかという微妙な距離で保ったまま、私を煽るように指先を挑発的にくねくねと動かした。私 はその動きに心を奪われていた。そして、怖ず怖ずと宮森明子を見上げ、懇願した。

「どうか明子様、その素晴らしいおみ足に御奉仕させてください。どうか、どうかご許可を、どうか御慈悲を!」

私は床に両手をつき、お座りの体勢を保ったまま宮森明子の足の裏に顔を最接近させ、哀願した。すると、宮森明子は鼻でフンと笑い、「首を出しなさ い」と命じ、私がその通りにすると、その首に首輪を巻いてベルトを固定し、鎖を持って引き寄せながら、「ほら」と爪先を私の鼻と唇の間に押し付けた。

「ありがとうございます、明子様!」

私は彼女の足の踵を両手で掲げるように持ち、爪先を口一杯に頬張った。指を何本も同時に口に含んだ後、一本一本丁寧にしゃぶり、指の間にも執拗に舌 を伸ばし、狂ったようにぷっくりとした足の裏の指の付け根を舐め、再び唇を窄めて指を一本ずつ吸った。舌を長く伸ばして土踏まずを舐め上げ、鼻先を五本の 指の付け根に押し付けてその部分の香気を吸い込んだ。更にもう片方の脚を股間に引き込み、太腿に抱きつき、ペニスをその脚の脹脛辺りに擦り付ける。宮森明 子の嘲笑がケラケラと室内に響き渡った。その軽蔑を隠さない笑い声はまるでダイヤモンドダストのように煌めきながら、一心不乱に足を舐め、そして脚に縋り ついて腰を振る私に降り注いだ。

「おまえ、すっごい格好ね。まさに飢えたマゾ犬って感じ。頭、大丈夫?」

と、その時、四方の壁がまるでシャッターが上がるみたいにするすると上方へ動き始めた。明るい光が溢れる。

「えっ?」

私は慌てて周囲を見回した。すると、今まで壁だった場所の先に、冴木響子と植村仁美が立っていた。ふたりとも、レザーのボンデージ姿だった。宮森明子の脚に縋りついたままフリーズしていた私は、そのままの体勢を保ったままふたりを見た。

「響子様、仁美様……」

突然の出来事でもちろん混乱し、激しく戸惑ってはいたが、一度火がついてしまった盛りの炎はそう簡単には収まらなかった。それどころか、宮森明子だ けではなく冴木響子と植村仁美にも見られているこの状況を認識したことによって、一層燃え広がってしまっていた。私はようやく宮森明子の脚から離れ、冴木 響子と植村仁美の前でひれ伏した。植村仁美が、侮蔑の響きを内包しながら呆れたような口調で言う。

「こいつ、首輪なんか付けちゃって、しかも私達のことを『様』付けで呼んでるわよ」

その台詞と口調に、私は更に昂った。冴木響子が冷ややかに言う。

「ここまで簡単にマゾになるとはねえ。やっぱり、もともとその素質があったのね」

冴木響子と植村仁美は、いつのまにか私のすぐ脇に立っていた。もう完全に常軌を逸していた私は、床に這い蹲ったまま、ふたりの脚にも絡み付いた。

「響子様! 仁美様!」

まとわりつく私を、冴木響子は邪魔臭そうに脚を蹴り上げて振り払った。

「まるっきり犬ね」

そう吐き捨てられても、私はもう全く屈辱的には感じなかった。一瞬だけ触れられた冴木響子のストッキングに包まれた脚の感触が夢のようだったし、私は三人の足元に跪ける悦びに感激すらしていた。宮森明子が横から首輪と繋がる鎖を強く引いて私を蹴り、言う。

「ご奉仕はどうしたの?」

「申し訳ございません!」

私は再び宮森明子の前で跪き、ペロペロと足を舐め始めた。その私の股間を、彼女が足の甲で蹴って命じる。

「このままオナニーしなさい。あ、その前にちゃんと響子様と仁美様に見ていただけるようお願いするのよ」

「はい!」

私は足を舐めることを中断し、二人を見上げ、叫んだ。

「響子様、仁美様、どうかぼくの恥ずかしいオナニーを見てください!」

冴木響子が笑い、私のペニスを蹴る。

「ちゃんと明子様にもお願いしなくちゃダメでしょう?」

「あ、申し訳ございません」

私は宮森明子に向き直り、頭を下げる。

「明子様、どうかぼくのオナニーを見てください!」

すると宮森明子は、これまでに放出した床に飛び散ったままの精液に顎をしゃくりながら、訊いた。

「おまえ、これだけ出しておきながら、まだ出せるの?」

「はい、出せます!」

その返答に、三人の支配者は高らかに笑った。そして、植村仁美が私の頭をヒールの爪先で踏み、促した。

「やれ。さっさと出せ」

「はい!」

私は植村仁美の足が頭からどけられると、上体を起こし、宮森明子の爪先を咥えながら腰を浮かせて猛然と自慰を開始した。もう私は止まらない。止めるものなど何もない。足の指を執拗にしゃぶりながら腰をくねらせ、降り注ぐ鋭い視線に身悶えながら、激しく手を動かす。

「あああああ」

そんな私の仕草に、爆発的な嘲笑が湧き起こった。そして、私は三人から代わる代わる蹴られた。それでも足は舐め続け、手は止めなかった。幸福だっ た。このうえない幸福の極地だった。私は首輪と鎖で行動を制限されながら蹴られ、殴られつつも自慰を晒し、めくるめくマゾヒズムの泉に溺れていた。

やがて巨大な光の輪が私を包んだ。それは甘美なる射精の瞬間の到来だった。これまでの中でも最大級の快感の波が押し寄せ、虹色の光が放射状に交錯する。

私は果敢に、その眩い光の彼方へと跳躍した。

目を覚ますと、私はソファで横になっていた。天井にクリスタルの豪華なシャンデリアが見えた。まだ灯は入っていない。体を起こすと、大きな窓から夕暮れと思われる斜光が差し込んでいた。

体には毛布がかけられていたが、上体を起こした拍子にそれは音もなく滑り落ちていて、私は裸だった。パンツすら穿いていない。頭の奥に、鈍痛のよう に、ぼんやりとした破廉恥な記憶がある。しかしそれが実際の記憶なのか、それとも夢なのか、よくわからなかった。細部までは思い出せないが、相当淫らな姿 を晒してしまった気はする。その証拠というか、酷く疲れている。

私は毛足の長い絨毯に足を下ろし、ソファに座った。テーブルの上に、私が昨夜着用していた衣服がきちんと折り畳まれて置かれている。

そもそも、ここはどこだ? 私は服を身に着け、改めてソファに身を沈めながら周囲を見回した。すると、白いグランドピアノが目に入った。部屋の隅に は上品なホームバーがあった。どうやらここは冴木響子の自宅リビングのようだった。しかし人の気配はない。完全に静まり返っている。全身に疲労感があり、 何も考えたくない気分だった。喉の渇きを覚えていたが、立ち上がることすら億劫で、しばらく私はそのままぼうとしていた。

夕日が山の端に掛かったらしく、部屋が翳りだした。私は忍び寄る薄闇を見つめながら、時間の感覚が完全に麻痺していることを実感していた。たぶん昨 夜だと思うが、私は午後八時過ぎに、冴木響子に連れられてセントラルホールの地下に設えられた小部屋に入った。ただ、それが本当に昨夜のことなのか、自信 がなかった。もしかしたら三日前かもしれないし、一週間前のことかもしれない。それでも、とにかく今が夕暮れということだけは確かだから、小部屋に入った のが昨夜だとすれば、少なくとも二十時間くらいは既に時間が経過している。尤も小部屋の中にいた時間の記憶は、依然として曖昧模糊としていて、全体的にか なり恥ずかしいことをしたという事実の断片が脳裏に残っているだけで、実感は極めて薄い。まだ頭の芯が痺れていて、詳しく思い出そうとすると、途端に頭痛 が強くなるのだ。ただ、私の中で何かが以前とは確実に変わっている、という感覚はあった。

「目が覚めた?」

ドアの方から声がして、振り返ると、冴木響子が立っていた。続いて部屋に光が瞬き、シャンデリアが灯った。

冴木響子は紺色のタイトスカートに、白いごく普通のシャツを着ていた。記憶の中のボンデージとは随分印象が違う。とても理知的で、清楚な感じすら漂わせている。彼女は静かに絨毯の上を歩き、私の前で立ち止まると、訊いた。

「どう、気分は?」

「まあまあです?」

「何か飲む?」

「はい、いただきたいです」

「何がいい? お酒? ジュース? お茶? お水?」

「水がいいです」

「わかったわ」

冴木響子はいったんホームバーに入り、冷蔵庫からミネラル・ウォーターのボトルを出すと、大きなグラスになみなみと注いで、それを持ってソファへ来て、私の前のテーブルに置いた。

「ありがとうございます」

私はその冷たい水を一息に半分以上飲んだ。冴木響子はそのまま私の正面のソファに腰を下ろし、ゆっくりと脚を組んで私を見つめた。グラスをテーブル に戻しながら、つとそのテーブルの先にある彼女の爪先を見ると、スリッパは穿いておらず、ストッキングの中にペディキュアの赤い色がうっすらと見えた。そ のまま視線で脚を辿ると、魅力的な脚線美が短いスカートの裾まで続いていた。

「気になるの?」

私の視線を感じたのか、悪戯っぽく笑ってスカートの裾を直しながら冴木響子が訊く。私は耳まで真っ赤になるのを自覚しながら俯いた。

「すいません」

「いいのよ。あなたはそういう反応を示すように目覚めさせられたのだから」

「えっ?」

驚いて私は冴木響子を見つめた。すると彼女は優雅に微笑した。

「昨夜のことは全部本当よ。あなたは実際に相当破廉恥なことをしたわ。でも、あれはマインドコントロールなんかじゃないの。あなたはただ私達によっ て、眠っていた本能を覚醒させられただけ。元々あなたにはああいう性癖が隠されていたのよ。自分でも気づかなかったかもしれないけれど、それは本当よ。 だって、そうでもなければ、真っ暗闇の小部屋の中で、たかだか二、三時間ビデオを見せられたくらいで、あそこまで淫らになるわけがないわ」

私は言葉を失っていた。自分が、ここの住人と同じマゾヒストだって? そんなことは信じられなかったし、信じたくなかった。しかし、考えてみると、 いや考えるまでもなく、反証は何ひとつないのだった。宮森明子に責められ、嘲笑われながら自慰をして興奮していたのは確かだったし、最後には冴木響子や植 村仁美の前でもあられもない姿を晒してしまったのも、紛れもない事実だった。冴木響子が更に言う。

「だって、そうでしょ? 人前で喜んでオナニーをするなんて、それも完全に馬鹿にされて笑われているのにますます興奮しちゃうなんて、マゾ以外の何物でもないでしょ?」

彼女の言う通りだった。記憶通りの姿を実際に見せてしまっている以上、もう認めるしかなかった。それでも、一歩ここから出たら、昨夜のことは全部忘 れる。絶対に誰に言わないつもりだ。取材さえ終わればもう二度とここへ来ることもないだろうし、彼女達と会うこともないだろう。そして、私の破廉恥な姿を 知っているのは彼女達だけなのだから、ここでの記憶自体を封印してしまえば、私はまだ普通に戻れる筈だし、自分さえ黙っていれば誰にも知られることはない だろう。若干後悔しながらもそんなことを考えていると、冴木響子が訊いた。

「ところで、もう気分は落ち着いたかしら?」

「ええ、まあ」

私がそう答えると、彼女は脚を組み替え、背もたれから体を起こした。

「それじゃあ、これからあなたに会ってもらいたい人がいるの。呼んでもいいかしら?」

「ええ。でも、誰ですか?」

「それは会ってからのお楽しみ」

意味深に冴木響子は言い、ソファから立ち上がると、壁に取り付けられている館内電話の受話器を取り上げ、ラインの向こう側へ言った。

「もしもし? うん、もう彼は目覚めてるわ。そろそろこっちへ来て」

受話器をフックに戻すと、冴木響子は再び同じソファに座った。私はいったい誰が来るのか気を揉み、実際に訊ねてみたが、彼女は微笑むだけで教えなかった。

息苦しいような時間がじわじわと過ぎていった。私は水を全部飲み干し、冴木響子がお代わりを勧めたが、辞退した。そして、やがてドアがノックされた。反射的に私はそちらを見た。冴木響子が椅子に座ったまま「どうぞ」と答えると、ドアが開いた。

「えー!」

私はそこに現れた人物を見て絶句した。大袈裟な表現でも何でもなく、私は卒倒しそうになってしまった。なぜなら、にっこり笑いながら部屋に入ってき たのは、恋人の牧村恵だったのだ。私には訳がわからなかった。なぜ彼女がここにいるのだ? 私は詳しい行き先を彼女に告げていない。それなのに……なぜ?

状況がまるで飲み込めず戸惑い続けている私に、冴木響子が笑いながら言った。

「恵。彼ったら、かなり動揺しているみたいよ」

「ふふふ、そうでしょうね。心底びっくりしてるでしょうね」

ふたりともなぜか随分親しげな口調で言葉を交わし、牧村恵は小首を傾げてくすくすと含み笑いを漏らしながら私の対面、冴木響子の隣のソファに座っ た。私は混乱しながら、いったいこれはどういうことなのだ? と思った。なんだかふたりは親しげな雰囲気だし、事態が全く把握できなかった。恋人の顔すら まともに見られないまま、私はまだ弛緩している思考を猛スピードで無理やり回転させたが、納得のいく解答は導き出せなかった。しかし、それも仕方のないこ とだった。何せ、ほんの一分前までは全然想像すらしていなかった状況の真っただ中にいるのだ。ここに恋人の牧村恵が現れるなんて、全く想定外の展開だっ た。冴木響子が私の戸惑いを弄ぶように微笑みながら言う。

「随分面食らっているみたいだから、そろそろ種明かしをしましょうか」

そして牧村恵を見る。

「ねえ恵、私から説明してもいいかしら?」

「ええ、お願いするわ」

牧村恵は煙草に火をつけて頷いた。しかし私は相変わらずまだふたりを見つめることができない。テーブルの脚の向こうに、牧村恵の小さな足があり、私は肌色のストッキングに包まれたその爪先に視線を落としていた。冴木響子が口を開く。

「まず、どこから話そうかしら。そうね、やっぱり最初は私と恵の関係から説明しないと駄目でしょうね。私と恵は、歳はちょっと離れているけれど友達 なの。というのも、実は恵も私や明子達と同じSMサークルに所属していたの。つまり、あなたは知らなかったでしょうけど、恵もサディストという訳。それで このまえ、彼女から私に電話が掛かってきて、いま付き合って二年になる彼氏がいるのだけれど、ごく普通の付き合いでしかなくて、ちょっと物足りない、とい う話で、私が、どうしたいの? と訊くと、彼女はこう言ったの。暫くの期間そちらに預けるからマゾ性を開花させてくれないかって。まあ言ってみれば、犬を 躾のために訓練所に出すような感覚ね。私はその時、別にいいけど、と答えたのだけれど、でもどうやってその彼をここへ連れてくるつもり? って訊いたの。 だってそうでしょ? いきなり無理やりその気のない人を連れてくるのはここの方針に反するし、拉致監禁みたいなことをしたって、澤井さんにその気がなけれ ば絶対に脱走するもの。だから、そのまま恵に言ったの。そうしたら彼女、その点はちゃんと考えてあるから大丈夫って言うのよ。どうして大丈夫なの? って 訊いたら、こう言ったの。彼はフリーのルポライターで、取材という口実を作って彼をそこへ行かせるから、少しずつマゾヒズムというものを見せてあげて、適 当なところで引きずり込めば、多少そのケはあると思うから、きっかけさえあれば簡単にうまくいくと思う。方法は任せるから、お願いって言われた。私も、最 初はどうかなあと思ったけれど、面白そうだったから結局その話に乗った」

私はちらりと牧村恵を盗み見た。すると彼女は微笑みを返しながら煙草を消し、冴木響子が話を続けた。

「あとは、あなたが経験した通りよ。最初の編集部への手紙を出したのは恵で、ギャラの百万は私が用意した。どうせそのお金は後から恵が返してくれる ことになってたし。で、次の二回目の手紙と列車の切符は、私が送ったわ。本当は二度目の手紙というのは当初の予定にはなかったのだけれど、恵から、あなた が迷い出しているという話を聞いたから、踏ん切りをつけてもらうために急遽考えたの。ちなみに、その間のあなたの行動は全部恵からこちらへ筒抜けだったの よ。でも、二度目の手紙と切符が結果的には功を奏したみたいね。翌日、あなたは早速律儀にここへやって来たもの」

すべてが巧妙に仕組まれたことだった。私は見事にピエロを演じきったらしい。そしてその結果、牧村恵の望んだ通り見事なまでにマゾヒストとして覚醒してしまった。衝撃的な事実を知らされて未だにまともに顔すら上げられない私に、牧村恵が言った。

「ちなみに、昨夜のあなたの様子はさっきビデオで観たわ。撮られているのは知ってた?」

私は力なく首を横に振った。

「そう。でも、なかなか面白かったわ。すっごい変態になってたもん。今まで見たことのないあなただった。さすがは天下の恩寵園ね。たかだか二日や三日で覚醒させちゃうんだもん。ビデオはコピーして貰ったから、家でゆっくり一緒に観ても楽しそうよね」

牧村恵はそう言うと、冴木響子に片目を瞑って見せた。私はただ彼女達の掌の上で転がる自分自身の宿命を粛々と受け止めていた。冴木響子が脚を組み変えて言う。

「彼の場合は、元々そういう資質があったから呆気ないくらい簡単に覚醒させられたのだと思うわよ。全くのノンケだったら、どうだったかわからないわ」

そして私を見て、言葉を繋ぐ。

「まあ、これからは恵の専属奴隷として精進なさいね。それと、せっかくここを取材したのだから、ギャラは返してもらうけど、記事にして雑誌に発表し たら? あなたがしきりに知りたがっていた住人達の気持ちも今なら少しは理解できるでしょう? 実名とか詳しい場所とかさえ明かさなければ、ありのままを 記事にしてもいいわよ」

「はあ……」

私は心ここにあらずという反応で答えた。するとすかさず牧村恵がきつい口調で咎めた。

「何、そのお返事は。響子さんに失礼でしょ!」

その言葉で、私は反射的に背筋を伸ばし、弾かれたように居住まいを正してから頭を下げて謝罪した。

「すいません」

その私の反応に、ふたりは乾いた笑い声をたてた。

「すっごーい。もう完全に調教されてる。これはこの先が楽しみだわ」

牧村恵が楽しそうに言う。私は恥ずかしくてたまらず、俯いた。冴木響子が牧村恵に言う。

「あ、そうそう、この子、恵もビデオを観たからもうわかってると思うけど、相当な足フェチよ。だから、ご褒美は足を与えておけば充分だと思うわ。そ れと、マゾの方向性としては、あんまり体を肉体的に責めるより、精神的にじわじわと追い込んだ方が喜ぶみたい。恥ずかしい格好とか大好きみたいだし、犬み たいに扱われると嬉しいみたいだから、その辺からだんだん調教していけば、この先の成長もかなり見込めるし、素質はいいものを持ってると思う。もしかした ら大化けするかも。きっと楽しめるわよ。で、たまにはここへも連れてきてね。何せ彼は、ここで一から調教したマゾの記念すべき第一号なんだから」

「ええ、絶対に連れてくる。特に明子にはお世話になったし」

「そうね、明子みたいなタイプがこの子みたいなマゾには効果的なのよ。だけど一番最初に彼の資質を見抜いたのは仁美なのよ。だって彼がここへ着いた 時に応対したのが彼女なんだけど、一目見ただけでいけると思ったらしいわよ。その晩には、もう断言してたもの、絶対マゾだって」

「そうなんだ、さすが仁美さんね」

牧村恵が笑って答えている。彼女達は本当に私の存在を犬くらいに見て扱っていて、私はそんな風に彼女達に扱われながら、そのことを喜んでいた。たぶ んそのように調教されたのだろう。ここへ来る以前の私なら、今の彼女達が交わしているような会話には著しく立腹し、心の底から不快に思ったに違いない。し かし現在では、腹を立てるどころか心地良く聞いている。そんな心境になっていること自体が、おそらく調教の賜物なのだった。私の運命は、既に彼女達の手中 にある。それは動かし難い事実だったし、私にとって至上の悦びでもあった。

「ところで、今夜は彼と一緒にここへ泊まっていく?」

冴木響子が牧村恵に訊き、彼女は首を振った。

「ううん、これからすぐに帰るわ。早くうちに戻って楽しみたいし」

「そうね、じゃあ、もう夜になるけど、気をつけてね」

「うん。でも、こいつに運転させるから。私は疲れてるし」

「それがいいわ。この子はたっぷり睡眠が取れてるし、命令には絶対服従だから」

そう言って、冴木響子が私に目を向け、「ね?」と念を押す。私は「はい」と返事をした。

「ほら、いいお返事」

二人は声を揃えて笑った。

「それじゃあ、そろそろ行くわ。いろいろお世話になっちゃって、ありがとう」

牧村恵が冴木響子に言い、ソファから立ち上がると、「行くわよ」と私を促した。私は素直に従い、腰を上げる。冴木響子が言う。

「明子と仁美には私から伝えておくわ」

「お願いします。というか、近いうちに、改めてこちらへ来るわ。ちゃんとみんなにお礼を言いたいし」

「わかった、待ってる」

冴木響子が玄関まで私達を見送ってくれた。そしてさよならを交わし、私は丁寧に「お世話になりました」と頭を下げた。冴木響子はそれに微笑で答えた。

回廊に出て、私は牧村恵と肩を並べて本館の方へと歩きだした。周囲の森は既に夜の気配に包まれていた。住人達はどこにいるのか、その姿は見えない。様々な建物に明かりが入っているから、そのどこかにいるのだろう。そしてそこには、宮森明子や植村仁美もいるのだろう。

「これであなたも一端の奴隷ね。変態のM男くん」

静かな回廊を歩きながら牧村恵が楽しそうに言った。私は小さく「はい」と肯定した。

「私はここで飼われている住人達みたいに四六時中マゾでいろとは言わないわ。でも、私が望んだ時はすぐに奴隷となって楽しませるのよ。いいわね」

「はい、恵様」

その私の返事に、彼女は満足そうな笑みを浮かべた。

本館の車寄せに、牧村恵の赤いアルファロメオが止まっている。三階のゲストルームから荷物を取ってきてロビーへ降りてきた私は、恭しく頭を下げる執 事に会釈を返して、車寄せに出た。澄み切った夜空に煌々と白い月が輝いている。牧村恵は既に車のエンジンだけを始動させて、助手席に座っている。私は荷物 をリアシートに置き、運転席へと回った。

私は一瞬だけ感慨深く本館の建物を見上げてから、運転席のドアを開け、シートに収まった。執事が我々を見送るため、車寄せへ出ていた。牧村恵は助手 席でパンプスを脱いでいて、私がシートベルトを装着し、クラッチを踏んでギアを入れようとした時、不意に私の顔の前にそのストッキングに包まれた足を差し 出した。私は動作を止め、目の前に差し出された爪先を見つめる。

「ほら、ご主人様の足よ。隷属の証に口づけしなさい」

執事がこちらを見ていた。しかし私は躊躇なく、クラッチペタルから足を浮かし、シフトレヴァーから手を離すと、彼女の足を両手で大事そうに踵で支えて持ち、その爪先にそっと口づけをした。

それは、とても幸福で素敵な感触だった。

広告
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。