MP -midnight prowler-

午前二時。篠崎哲男は自室の薄暗い闇の中で身支度を始めた。黒いジャージの上下を身に着け、頭には黒いニット帽を目深に被り、黒い手袋をはめた。靴下も黒系だ。厳密には黒ではなく濃紺だが、遠目には黒だし、暗色であることに違いはない。ジャージのフロントのジッパーは一番上まで閉めた。最後に、黒くて太いセルロイドのフレームのダテ眼鏡をかける。

部屋の明かり自体は、午前零時過ぎには消した。それから約二時間、哲男はベッドで仰向けになったり腹這いになったりしながら、ベッドサイドの小さなライトだけを点けて、その光の下で本を読んで過ごした。軍服を着て、腹をかっ捌いて死んだ小説家が最後に書いた長編小説だ。哲男は読書家だが、既に死んでいる著者の作品しか読まない。べつに厳密にそう決めているわけではないが、結果的にそうなっている。それだけのことだ。たいした意味はない。

そもそも、目は行をひたすら追い続けたものの、内容はほとんど頭に入ってきてはいなかった。しかし、もう何回と読んでいる本だし、それはそれで構わなかった。どうせ、単なる時間つぶしなのだ。

やがて時刻が一時五十分を過ぎ、哲男は本を閉じてベッドから下りた。そして洗面所へ行き、手と顔を冷たい水で洗い、トイレで小を済ませて部屋に戻り、支度を開始した。その準備自体は、いつもの手順通りなので、何の問題もなかった。

全ての用意が整うと、冷蔵庫から冷たいジャワティのペットボトルを取り出して立ったまま一口飲み、それを戻してから玄関へ向かった。下駄箱の上に、予め財布などが入れてあるナイロン製の黒いウエストバッグがあり、哲男はそれを腰に巻いて鍵を持った。

黒いナイキのスニーカーを履いてドアを開け、外に出ると、いきなり涼しい夜気に包まれた。哲男が暮らしているマンションは十階建てで、その六階に部屋があるのだが、廊下が外に面しているため、ドアから一歩出ると秋も深まりつつある十月の夜の空気が凛と冷えていた。

哲男は部屋のドアを施錠し、エレベーターへと歩いた。鍵は、キーケースにしまい、ウエストバッグに入れた。そのバッグの中には、鍵の他に、小型のカッターナイフや小さく折り畳んだビニール袋などが、財布と一緒に入っている。しかし、所持している現金は最低限だし、運転免許証や名刺等、身分を証明するものは何も持っていない。篠崎哲男は、篠崎哲男であることを証明する手段を何一つ持たないまま、エレベーターで一階へ下りた。ごく一般的な賃貸マンションなので、どこにも監視カメラの類いは設置されていない。もちろん、オートロックなんてものもない。駐車場も駐輪場も集合ポストも非常階段も、そしてゴミ捨て場も、誰でも自由に出入りできてしまう。

敷地から外に出る時、ちらりとゴミの集積場所を見ると、明日の朝、厳密に言えばもう今日だが、燃えるゴミの収集日なので、早くもいくつか半透明の指定されたゴミの袋が出されていた。一応、当日の朝に出すよう通達されているのだが、あまり守られていない。そもそも、このマンションには夜の商売の人が少なくないので、朝は寝ている人が多いから仕方ないのかもしれない。

マンションの前の道に出て、哲男はゆっくりと歩いていく。午前二時ともなれば、いくら周囲は民家やアパートやマンションでも、静まり返っている。車も通らず、人も歩いていない。立ち並ぶマンション等を見上げれば、まだ明かりを点している窓もあるが、路上に人の気配はない。歩きながら、哲男は頭の中で巡回ルートを確認する。ゴム底のスニーカーを履いているので、足音はしない。遠くで犬が吠えているが、すぐに止んだ。

予定では、所要時間は約四十分、距離にして約二キロの巡回だが、このうち所要時間は流動的だ。今夜は、三つの定点ポイントを巡回する。まずは、隣の町のマンションだ。そのマンションは五階建てで、哲男にとって最重点ポイントだ。次第によっては、そこだけで今夜の巡回が終了になることもありえる。

真夜中の巡回で最も気をつけなければならないのは、警察の職務質問だ。午前二時過ぎに男がひとりで、しかも黒ずくめの格好でウロウロしていたら、いかにも不審者だ。まず間違いなく声をかけられるだろう。しかし、これまでに、哲男は一度も警官に遭遇したことがない。巡回を開始して二ヶ月ほどになるが、ニアミスすらない。たぶん、巡回のルートと警邏のルートがズレているのだろう。それでも、もしも遭遇してしまったら、「深夜のジョギングだ」と主張するつもりでいる。そのために手ぶらなのだし、ジャージを着ている。色が闇に溶け込みやすい黒である理由は、「たまたま、だ」とこたえるつもりだし、ジョギングといいながら歩いているところを呼び止められてその点を追求されたら「疲れたのだ」と言うつもりだった。

やがて、目的のマンションが近づいた。その建物は、通りに面しているが、入り口は駐車場の奥にあり、監視カメラはない。そして、その駐車場は五台ほどスペースがあり、この時間であれば、すべて埋まっている。そのため、入り口は通りから見えない。

しかし、哲男は、入り口なんかには用事がない。用事があるのは、入り口であるエントランス脇の、駐輪場近くのゴミ捨て場だ。駐車場と駐輪場の間に細い通路があり、それがエントランスまで続いているのだが、そのゴミ捨て場までは、通りからでも視認が可能だ。

哲男は何気なく歩きながらゴミ捨て場へと視線を走らせる。この町内も翌朝が燃えるゴミの収集日だが、このマンションは規約がしっかり守られているのか、この時間でもまだひとつのゴミ袋も出ていない。もっとも、それは哲男にとって想定内のことだ。むしろ、出ていたら混乱してしまう。哲男は、素早く目だけを走らせて何もないゴミ捨て場を確認し、いったんマンションの前を通り過ぎると、電柱の陰に身を潜めた。そこからだとゴミ捨て場は見えなくなってしまうが、代わりに、エントランスが見通せる。そして、それこそが哲男にとって好都合なのだ。

時計を見ると、午前二時十三分だった。いくら深夜で人気のない路上でも、電柱の陰に身を潜めていられるのは、せいぜい五分程度だろう。哲男は、もしも誰かに見られても構わないよう、ジョギングに疲れた人を装って電柱に寄りかかり、息を整えている振りをする。

果たして、待機を始めて二分後、つまり二時十五分になって、エントランスに人影が現れた。グレーのスウェットの上下を着た女性だ。茶色い長めのストレートの髪が、エントランスの柔らかい光を浴びて栗色に光っている。二十代前半の、水商売風の派手な雰囲気の女性だ。その女性の出現を覗き見て、哲男は「時間通りだ」と思った。この女性がゴミを出す時間は、いつもだいたい決まっているのだ。

女性は、周囲には全く気を配らないままエントランスから出てくると、そのままゴミ捨て場へ向かった。その手には、半透明のゴミ袋を持っている。哲男は、念の為にその大きさを脳裏に刻み込んでから、そっと電柱の陰から離れてマンションの前から立ち去った。

その近辺を適当に歩き回り、三分後、哲男は再び先ほどのマンションに近づいた。辺りに素早く視線を巡らせて周囲に誰もいないことを確認すると、今度はそのままマンションに近づいた。そして、まるで住人の帰宅を装うように堂々と駐車場の脇に入ると、ゴミ捨て場へ目を向けた。すると、そこには、ビニール袋がひとつだけぽつんと置かれてあった。

哲男はさりげなくそちらへ歩き、すっと手を伸ばしてそのビニール袋を持った。それほど重くはない。哲男は、それを持ったまま駐輪場へ入っていき、外側で螺旋状に取り付けられている非常階段の下の暗がりに身を滑り込ませた。

直接届く光はないが、完全な闇ではないため、ゴミ袋の状況は視認可能だった。哲男は、きゅっと閉じられている口を丁寧に開けると、とりあえず大きく広げた。そして中身を確認していく。

明日は可燃ゴミの収集日なので、中身は燃えるゴミだ。煙草の箱や、口紅が付着したその吸い殻がそのまま放り込まれていたり、ティッシュやお菓子の包装紙等が入っている。たまに料理をするのか、野菜のカスなどもある。シュレッダーで裁断された何かの請求書らしき紙もある。哲男は数本の吸い殻をポケットに入れた。

そして、更に急いで中身を確認していく。いくら死角にいるといっても、そんなに時間的、精神的な余裕はない。しかし袋がビニールなので、音には注意を払わなければならない。あまりに大胆に漁ると、シャカシャカと音が出るのだ。

ひとつひとつ吟味しながら、注意深く奥へ奥へと手を差し入れていくと、やがて、中身が詰まった厚手の紙バッグに行き当たった。それを見つけた時、哲男は薄い闇の中でニヤリと笑みを浮かべた。ゴミ袋自体が半透明だから、わざわざ紙のバッグに詰めて捨てるのは、とくに見られたくないものなのだろう。しかも、表面に光沢が加工された厚手の紙バッグで、外からでは全く中が見えない。

持ち上げてみると、軽い。哲男は、その紙バックだけを出して再びビニール袋の口を閉じた。そして、紙バッグの中身は確認しないまま素早くジャージの腹に隠し、非常階段の下から出て、周囲を警戒しながらゴミ捨て場まで戻り、さりげなく袋を元の位置に返して、そそくさと敷地を出る。入ったときが帰宅者を装うなら、出るときは、住人が深夜の散歩にでも出掛けていくよう装う。いずれにせよ、コツは、堂々としていることだ。

そうしてマンションの敷地から脱出した哲男は、そのまま振り返らず、ひたすらしばらく歩いた。腹の中に隠した紙バッグは、その下方をジャージのズボンの腰に挟み、落ちないようにした。

何度か小刻みに角を曲がり、じきにコンビニが見えてきて、哲男は歩きながら手袋と帽子とダテ眼鏡を外すと、それらをジャージのポケットに突っ込み、悠然とコンビニ内に入った。眠そうな男の店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきて、哲男は、「すいません、ちょっと先にトイレを貸してください」と丁寧に言った。すると店員は、「開いてますから、どうぞ」と奥の扉を示した。哲男は、「どうも」と会釈してそのドアへ向かった。店内に、客の姿はない。

雑誌の棚の前を通って壁のドアを開ける。すると、洗面所があり、その先にもう一枚ドアがあった。男性用の小便器はなく、男女共用だ。鍵は、入り口と、もう一枚のドアの二カ所で施錠できる仕組みになっていた。哲男は、洗面所に入ってひとまず鍵をかけ、そのまま奥の個室に入って、そちらでも鍵をかけた。

そこでようやく「ふう」と大きく息を吐き、腹から先ほど手に入れた紙バッグを取り出すと、便器の蓋を下ろしてそこに座り、膝の上に置いた。紙バッグは口が無造作に巻かれていたが、それを戻しても、すぐには開かなかった。丁寧にも、びっちりとガムテープで封印されていたのだ。しかし、もともと光沢のある加工された表面になっているので、そのガムテープは、端に爪の先を引っ掛けて捲ると、簡単に剥がれた。

両手でガバっと袋を開く。すると、中には衣類が詰められていて、パッと見ただけでもコットンやレース素材の下着類が認められ、俄に胸が高鳴った。まさに宝の山だった。哲男は興奮しながらこの場で中身を弄りたい衝動に駆られたが、あまりに長い時間トイレにこもっているのも不自然だし、ひとまず中身が衣類であることが確認できたので、それだけで満足し、再び封をすると、腹の中に押し込んだ。しかし本来、下着類は、厳密には「燃えるゴミ」ではなくもしかしたら「資源ゴミ」かもしれないが、やはり人情として、どさくさに紛れてこっそりと捨てたい女性が多いのだろう。

そんなことを考えながら哲男は、ついでだから、と、せっかく男女共用のトイレにいるので三角ボックスを開けてみた。ナプキンやタンポンや伝線したストッキング等でもあれば、と思ったのだが、しかし残念ながら中は空だった。

トイレを出た哲男は、五百ミリリットルのコーラとベビースターを買い、コンビニを出た。べつにたいしてそれらが欲しいわけではなかったが、何も買わずに出てくるのも心地が悪い。

そのコンビニから自宅までは、だいたい二キロほどだ。本当はこの後、二軒ほどゴミ捨て場をチェックする予定だったが、もう今夜は充分素晴らしい収穫があったので、帰宅することにした。

歩きながら、コンビニで袋が手に入ったので、ポケットの中の帽子や手袋やダテ眼鏡を移した。ただ、戦利品だけは、依然としてジャージの下だ。さりげなくポケットに手を突っ込んで、内側からそれを支えながら歩いていく。口笛でも吹きたいくらいに気分が良かったが、わざわざ注目を浴びるようなことをすればすべてが台無しになってしまうので、ぐっと堪え、ゆっくりと普通に歩いた。本当は、全速力で走って帰り、一刻も早くしっかりと中身を確認したかったが、人目を引いたら最悪なので、口笛以上にその衝動を苦労して抑えながら、ひたすら地道に家路を辿った。

そうしてじきに何事もなく自宅に帰り着くと、しっかりと施錠してから寝室へ行き、天井の明かりは点けないままジャージの上着を脱ぎ、コンビニの袋から帽子や手袋や眼鏡を抜き出してベッドの上へ放り捨て、外へ明かりが漏れることのない台所へ移動して電気を点けると、床に胡座をかいて座った。焦る気持ちを抑えるように、まずは買ってきたコーラを一口飲み、紙バッグを目の前に置いて時計を見た。すると、午前二時四十分過ぎだった。

「さてさて」

哲男はひとりで口に出してそう言い、手のひらを擦り合わせてから、まずはポケットから口紅のついたマルボロ・メンソールの吸い殻を取り出して咥え、舌と唇で充分に味わってから、それを出し、改めて紙バッグの口を開いた。そして、いったんその袋の中へ顔を突っ込み、大きく深呼吸した。すると、なんとも濃密な匂いが鼻腔をくすぐった。しばし哲男はその香りに酔い痴れた後、早速手を入れ中身を取り出していく。

中の衣服は、様々だった。まず全体を大雑把に包み込むように、薄いキャミソールのワンピースが入っていた。そして、その中に、ブラジャーが二点、パンティが三点、ストッキングが一点、入っていた。どれも、充分に傷んでいて、着用して未洗濯のままこの袋に詰められたようだった。ブラジャーもパンティも、レースの部分が解れていたり、一部の布地がすり切れそうになっていたりした。ストッキングは、大きく伝線していた。どれも、まさにゴミだった。しかし、哲男にとっては、宝物だった。

哲男は、床にキャミソールを広げ、一点ずつ手に取って仔細に検証していった。まずは適当にブラジャーをチェックした。それは、薄いベージュと青みがかったグレイの二点で、どちらも細かく花の柄が描かれていた。試しに、そのパットの内側部分の匂いを嗅いでみると、ほんのりと汗の匂いが染み込んでいるようだった。ただし、残念ながら温もりは既にない。

続いて、三点のパンティを、一枚ずつ広げ、入念にチェックしていく。一枚目は、ブラジャーと対になっているベージュの化繊のショーツで、一部がレースになっていた。裏返してクロッチを見ると、まるで黴のように秘部の形が落ちない染みとなっていて、新しい染みが上塗りされていた。それはとろりとした半透明な液状で、匂いを嗅ぐと、生々しい香りが鼻を突いた。それはまさしく牝の匂いだった。野性的で、獣の匂い。その中には、おしっこのものと思われるツンとするアンモニア臭も含まれていた。哲男はその匂いに陶酔しながら、「これは今夜脱がれたばかりだろう」と見当をつけた。

残りの二点は、黒地に銀の刺繍が施された化繊のものと、普段履きなのか、相当傷んだ薄いピンクの無地のものだった。それらは、脱がれたまま未洗濯とは思われたが、日にちが経過しているせいか、クロッチに鼻を押し付けても、うっすらとした沁みの形状は確認できたものの、匂い立つような牝の香りは消失してしまっていた。

そして最後は、ストッキングだった。これは、未だに爪先部分がじっとりと湿っていて、それは触っただけでわかった。更に、匂いを嗅ぐと、饐えたような酸味の効いた刺激臭が突き抜けた。思わず哲男は、「これは臭いな」と呟き、「ついさっきまで一日穿いていたのか?」と独り言を言った。もっとも、臭いからといって嫌なわけではない。それは哲男にとって、嬉しいことだ。臭ければ臭いほどいい。実際、このゴミの持ち主は、かなりの美人だ。その美人の足や股間の匂いをこうして密かに嗅いでいること自体、哲男にとってはとてつもない喜びなのだ。しかも、本人は、そのことを知らない。もちろん、哲男にとってその女性は赤の他人で、顔は知っていても名前は知らないし、素性は全く不明だが、女性の場合は、哲男の存在そのものを知らない。哲男は顔と住んでいるマンションだけとはいえ、その女性の存在に対する認識があるが、向こうにはそれさえない。哲男のことなんて、その存在さえ知らないし、ゴミが抜かれている事も、もちろん知らないはずだ。おそらく、自分が捨てた下着を誰かが持っていっているなんて、そんなことは想像すらしたことがないだろう。

つまり、一方的な関係なのだ。しかし、それが哲男にとってはたまらない。哲男はついついあの女性の側へ行き、「どこの誰とも知れない男が密かにあなたの匂いを嗅いでいるんですよ」と耳元でそっと囁きたくなる。そして、その場面を想像すると、既に勃起しているペニスが一層固くなってしまう。

とりあえず哲男は急いでデジカメを持ってくると、戦利品を床に並べて一点ずつ撮影し、それが終わるや否や、たまらずジャージのズボンとパンツを脱ぎ、ストッキングの爪先を口に含んだ。続いて、左手でベージュのパンティを掴んでその湿っているクロッチに鼻を宛てがい、匂いを吸い込みながら、いきり立っているペニスを扱き始める。そして、うわ言のように「ああ、いい匂いだ」と呟いて陶酔する。

そもそもゴミなんて、ゴミ捨て場で袋から手を離した途端、文字通り自分の手から離れ、関心が消えるものだろう。だから、そのゴミを誰かがコッソリと回収し、再利用していると知ったら、その気色悪さは相当なものだと思われる。しかしその「本人が知らないところで、本人の一番恥ずかしい匂いをこっそりと嗅いでいる」という秘密の感覚こそが、哲男には蜜の味なのだ。今頃、当の本人は何も知らず、ベッドで眠っているかもしれない。もしかしたら部屋には彼氏がいて、あの最中かもしれない。そんな場面をいくつか勝手に想像しながら哲男は、「でも、あなたの知らないところで、あなたの知らないぼくという人間が今、こうしてあなたの淫乱な雌の匂いを嗅ぎながらオナニーをしているんですよ」と空想の中で囁く。すると、その歪んだ性欲に爆発的な興奮が加わり、哲男の手の動きが加速する。

「はあはあはあはあ」

誰もいない部屋に、哲男の喘ぎ声が静かに響く。哲男はパンティに顔を埋め、ストッキングの爪先を大胆にしゃぶり続けながら、激しく自らを擦り上げている。おぞましい姿だ。しかし哲男は、この姿をあの持ち主本人に見せたい、と思っている。

本人の目の前で、本人の知らない男が、本人が知らないうちに盗んだ下着で自慰をしていたら、どんな反応を示すものなのだろう。哲男は、たまらなくその反応を知りたい、と思った。しかし、こんな行為を、誰かに見せれば、その瞬間、すべては終わる。まして、本人に知らせるなんて、自殺行為で、絶対に無理だ。

そのジレンマも、哲男の興奮に拍車をかける。いまや、すべてが哲男の歪んだ欲求と直結している。

やがて哲男は「うっ、ううっ」と短く呻き、そのまま白い液を発射した。

哲男が、深夜の徘徊を始めたのは、二ヶ月ほど前からだ。もともと性癖は歪んでいたし、女性が出すゴミにはただならぬ興味を抱いてたが、しかし、いくら女性のゴミであっても、どこの誰が出したものなのかわからないのでは、あまりに危険が高過ぎて、手が出せなかった。いくらかわいい服や下着が出てきも、その持ち主がかわいい女性とは限らないし、もしもババアやブスのものだったら目も当てられないから、憧れはあっても行動には移せないでいた。

それでも、夏のある日の深夜、世界は転換した。その夜、少し飲んで零時過ぎに帰宅している途中、偶然、綺麗な女性がゴミを出している場面に遭遇したのだ。その時、周囲には誰もおらず、哲男は、その女性がゴミを捨てて立ち去ると、神の思し召しか? と思いながら、ふと気がつくとそのゴミに手を伸ばしていた。

残念ながら、その時のゴミには衣服や下着、ナプキンやタンポンやオリモノシートといった哲男の興味を惹く物は何も入っていなかったのだが、こっそりとゴミを漁る感覚が、哲男には忘れられないものになってしまった。

以来、哲男は、誰が出したのかわかっているゴミ限定で、漁り始めた。通常のゴミ漁りなら、気が向いた時にゴミ捨て場へ出掛けていき、人目を忍んで漁り、欲しいものだけその中から抜いてきたり、いっそ袋ごと取ってくれば済むのだろうが、哲男のこだわりは、その方法を許容しなかった。哲男は、前もって入念にリサーチし、そして目的のものだけを手に入れるようにしていた。手順は、いたってシンプルだ。とにかく深夜に歩き回り、ゴミを捨てている女性を見つけるのだ。そして、女性がゴミ袋を捨ててその場から立ち去ってすぐ手に入れる。これなら、誰が捨てたか、持ち主がわかっているゴミだけをゲットできる。

しかし、言葉にすると簡単だが、現実はかなり困難だ。そもそも、ちょうど女性がゴミを出している場面なんか、そうそう遭遇できない。また、その時に誰かが周囲にいたり、ゴミ捨て場の場所そのものが、人や車の通りが絶えない道路に面していたりして、手を出しにくい位置にあると、あまりにリスクが高過ぎるから、やはり無理だ。

もっとも、ゴミを拾ってくることが厳密に犯罪にあたるのかどうか、哲男にはよくわかっていない。ゴミは、持ち主が所有権を放棄したモノだから、いったん「捨てられ」れば、その後は「誰の物でもない」気がする。

最初のうちは、誰かに現場を押さえられたらどうしよう、という恐怖心がどうしても拭いきれず、その場で漁って戻しておくということができなかった。だから、いちいち袋ごと持ち帰って自宅で選別していたのだが、いつもいつも望むものが入っているわけではないし、ゴミも増える一方で、結局、その方法はあまりに非効率的で、やがて「ゴミを漁る」という行為にだんだん慣れてきたこともあって、いつしか哲男はその場で欲しい中身だけを選別して、ゴミ袋自体は元の場所へ戻しておくようになった。もしもゴミを捨てた女性が翌朝などにゴミ捨て場へ来て、間違いなく前夜に捨てたはずのゴミ袋が無くなっていると気付けば、たちまち警戒されてしまう。それでは、短期的に考えればべつに問題はないが、定期的な巡回ルートに組み込むなら、警戒心は一切抱かれないほうが得策に決まっている。その時だけ手に入ればいいのなら、袋ごと取ってきても構わないが、次に繋げるなら、その場でチェックしたほうが良い。ただし、そうはいっても、ゴミ捨て場で堂々と漁る勇気は、さすがの哲男にもない。だから、ゲット・ポイントを選定する段階で、ゴミ捨て場の近くに死角があるかどうかが重要で、そのことを基準にした。いくら綺麗な女性が捨てているゴミだとしても、場所が悪ければ手は出さない。それは、哲男が自らに課した縛りのひとつだった。「誰が捨てたわかっている物」、そして「漁りやすい場所に捨てられている事」、この二点が融合した時、哲男は初めて行動に出る。

このように石橋を叩いて渡るというより、石橋を叩いて、渡れるとわかっても、それでも尚慎重に様子を見るのが、哲男だ。これはおそらく、性格の問題だろう。

しかし、基本的な問題として、そもそも哲男好みの女性がゴミを出している現場に遭遇することが、かなり難しい。難しいというより、その邂逅は、奇跡に近いレベルだ。少なくとも、狙って出会えるものではない。偶然に依存せざるを得ないのが現状だ。

それでも、その偶然の中からチャンスを引き寄せる努力は怠らない。具体的には、深夜の徘徊で、既にゴミが出ている集積所があれば、数分でもいいので、怪しまれない範囲で監視してみるとか、そういう地道な行動だ。ちなみに、今夜の女性も、そのようにして見つけた。今夜の女性の場合、定期的な監視の結果、毎週決まった時間にゴミを出していることまでわかり、哲男にとって最重点ターゲットとなった。このような女性は、他に二人ほどリストインしている。哲男は、インターネットからダウンロードした地図を使い、コンピュータ内でリストを管理している。地図にマーキングをし、ターゲット女性の情報や採取時の注意事項、ゴミの収集日などがメモしてある。もちろん、実際に採取した時の詳細なデータも記録している。何月何日、どこで、何を、どれだけゲットしたか、すぐに把握可能だ。そのデータの管理には、本来は日記用として開発されたアプリケーションを利用している。だから、時系列に沿った参照が容易だった。そこには、対象物の種類が詳細に記載されている。色、デザイン、状態等だ。そして、すべての採取物をデジカメで撮影し、添付してある。もちろん、そのアプリケーションには念の為にパスワードがかけてあり、他人がもしも開こうとしても開けないようになっている。いくら自分専用のラップトップであっても、用心しすぎて悪いことはない。そして現物は、ジップロックで一点ずつ保管し、クローゼットの中にある旅行用の大きなスーツケースにしまっている。

ただし、当たり前のことだが、常にゴミの中に下着類が含まれているわけではない。哲男は、下着と靴下とオリモノシート以外のゴミに興味が全くないから、割合でいえば圧倒的に空振りで終わることが多い。それでも一応、行動記録には残している。いつか俯瞰的に参照したとき、そのログから何かヒントのようなものが見えてくるかもしれないからだ。

実際には、むしろゴミの中に未洗濯の下着が含まれていることのほうが、稀だ。中にはたまに、わざわざ洗濯してから捨てるような女性もいる。それはおそらく、タンスの整理等の結果だろうと思うが、まさか「穿いてから、そのまま捨ててください」と抗議するわけにはいかないから、こればかりはどうしようもない、と諦めている。

哲男が狙うのは、あくまでも未洗濯のまま捨てられる下着や靴下類だ。オプションとして、生理用品やオリモノシート、そして暑い時期限定で汗腋パットも対象に含まれるが、基本のラインは、下着と靴下だ。しかし、洗濯されてしまっていたら、もう価値は半減する。そういう意味で、哲男は間違いなく変態だが、下着泥棒はしない。なぜなら、洗濯前の下着が手に入るのなら賭けてみる価値がありそうだが、たいていの場合、入手可能なものは、洗濯後に干されているものだからだ。洗われてしまったら、単なる布とはいわないが、魅力は削がれてしまう。

世の中には、ニュースを見ていると時々、下着類を何百枚とか何千枚とか盗みまくって捕まる変質者がいるが、その心情を哲男は理解できない。そのほとんどは干されているものをゲットしてきたのだろうし、どうせ目についたものを適当に盗ってくるのだろうから、どんな女性が穿いていたのか把握できていないだろうし、いくら色とりどりの布がコレクションされていくとしても、それで何が嬉しいのか、哲男にはわからない。最低限、穿いていた女性がわからないと、あまりにリスクが高すぎるのではないか、と考えてしまうのだ。いくら綺麗でセクシーな下着でも、それを穿いているのが綺麗でセクシーな女性とは限らない。

だから、下着泥棒が、戦利品を床やベッドの上に広げてそこで眠ったりする、その心情は痛いほど理解できるが、洗濯済みでは意味がないだろう、と思うのだ。確かに、洗濯済みでも、かつて女性が着用していた華やかな下着に埋もれることができれば、それはそれで極楽浄土だろう、とは思う。しかし、そこには、決定的に欠けているものがある。それは、匂いと温もりだ。もっとも、未洗濯のものを入手しても、匂いはだんだん変化するし、温もりなんて最初からない。それでも、観念的な温もりが、未洗濯の物にはある。そして、それこそが、哲男の求めてやまないものだ。その欠落を埋めるために、哲男は下着泥棒ではなく、ゴミを漁るのだ。

哲男は、下着と靴下関係以外だと、タンポンやナプキンやオリモノシートも入手するが、それらは、基本的に観賞用だ。オリモノシートは舐めたり匂ったりするが、さすがの哲男でも使用済みの生理用品は使えない。それでも、軽く匂いを嗅いだりはしないこともないが、たいていはジップロックに保管し、たとえば暗赤色に染まったタンポンを眺めながら「これがアソコに入っていたんだよなあ」等と想像して楽しむ。要するに、妄想の補完に利用するのだ。女性の股間部分に対して異様なまでに執着心が強い哲男だから、その脳内の補完は有効だ。かわいい女の子や美人の蒸れた爪先や腋や股間の匂い、それが哲男を衝き動かす原動力となっているのだが、しかし、持ち主が把握できているからこそ興奮する点だけは譲れない。どこの誰が捨てたものなのかわからない生理用品やオリモノシートは、下着類以上に危険だ。とはいいながらも、コンビニ等で男女共用のトイレに入れば、必ず汚物入れはチェックしてしまう。それは、哲男の「性」だ。欲しいとか欲しくないとかではなく、ついチェックしてしまう、それだけのことだ。

対象がかわいい女性や美人であれば、たとえ激烈な悪臭であっても、その「臭い」は「匂い」に変換される。「大便」や「小便」が「黄金」や「聖水」に置き換えられるのと、基本原理は同じだ。この基本原理に忠実な哲男は、だからこそ人物の掌握に心血を注ぐ。しかし名前や住所や電話番号や性格といったパーソナルなインフォメーションは必要ない。どんな女性なのか、そのビジュアルさえ把握できれば問題ない。どうせ、言葉を交わすことはなく、それぞれの生活が交叉することはないからだ。常に、哲男側から発せられる一方的な視線だけで完結する歪んだ関係だ。

哲男は時々、使用済み下着と靴下専門の資源ゴミ回収業者になりたい、と思う。合法的に堂々と手に入れられる立場になれば、人生はバラ色だろう。もちろん、業者となれば、不細工な女やオバサンやオバアサン、そして下手すると男のものまで請け負わなければならなくなるが、そんなものは、空き缶をスチールとアルミで分別するように、手に入れてから選別すれば済む話だ。ひとまず全部回収し、欲しいものだけをストックし、残りは処理する。これで完璧だろう。

しかし、所詮は夢だ。そもそも、そんな業種は世の中に存在しないだろう。たとえ創出したとしても、需要がないだろう。だから、現実的に考えるなら、合法的に使用済み下着を手に入れる手段はなさそうだから、靴修理の職人にかなり憧れる。靴屋の店員でもいいが、修理なら、デフォルトで履き込まれた靴が持ち込まれるから、いろいろと楽しめるはずだ。女性用のハイヒールやブーツ専門の修理の店なんか、理想的かもしれない。おじさんの革靴なんかは死んでも触りたくないが、綺麗な女性のヒールやブーツなら中敷に鼻先を押し込んで細部にまで丁寧な仕事を施したい。靴屋でも、女性物専門の店なら、良い。来店した綺麗な女性の足元に跪き、いろいろな靴を勧め、もしもお買い上げいただけたら、古い靴の処分を請け負うのだ。そして捨てずに、頂く。完璧だろう。靴屋の場合、大人の女性向けブランドも良いが、若い女の子向けのスニーカー専門店も捨て難い。どちらも店員としての行動は同じだが、若い女の子の履き古されたスニーカーは、大人の女性のパンプスやブーツ以上に貴重な気がする。何ヶ月にもわたって、雨の日も晴れの日もひたすら履き続けられ、汗や湿度をたっぷりと含んだ若くてかわいい女の子のスニーカーなんて、その内部の状況を想像するだけで悶絶してしまう。マニアなら、きっとプレミア価格でもいいから手に入れたいと思う垂涎のアイテムだろう。

哲男としても、いつか若い女子高生などの靴関係も手に入れたいと考えているが、ゴミの中から辿り着くのは難しそうだった。相手を把握して取得するゴミの場合、どうしてもその対象は一人暮らしの女性になってしまう。それ以外では、まず無理だ。手当り次第に漁るなら、いずれ家族と同居している女子高生物に出会える可能性もあるかもしれないが、そういうゴミが地域のルールを破って前日の夜から出されることは、あまりない。そして、いくら哲男でも、日が昇って、朝になってから収集までの僅かな時間に漁る勇気はない。

そもそも、欲をかいてはいけない。自分を戒めるために、いつも哲男は「現状に満足せよ」と強く自分に言い聞かせている。無事に漁ることができ、その中からたまにお宝が出てくること自体、それは奇跡なのだ。そのことを心得ていないと、いつか失敗するだろう。手練の犯罪者がミスを犯すのは、たいてい調子に乗って余計なことをしでかしてしまったときだ。分を弁えていれば大丈夫だったものを、調子に乗ってしまったがために、すべてが瓦解してしまうパターンは多い。そうならないために、哲男は常に細心の注意を怠らない。少しでも危険があれば手を出さない勇気、それが重要なのだ。

十月も後半となると、夜の空気はひんやりとしている。少し酔っている哲男は、自宅近くのバス停で最終のバスから降りた。午後十一時十八分。住宅街の外れにあるバス停付近は、ひっそりと静かだった。

八時過ぎからビールをジョッキで三杯飲んだ哲男は、心地よい酔いに包まれながら、夜道を歩いていく。空に月が出ていて、下界を銀色に照らしている。アスファルトの路面には、哲男の影が淡く落ちている。

バス停から自宅までは、ゆっくり歩いて十三分の道のりだ。夏場だと、それだけの移動で汗をかいてしまうが、秋が始まっている今、夜の散歩と思えば気持ちよい。哲男は、ポケットに手を突っ込みながら、のんびりと歩いていく。

ときどき車が通り過ぎる以外、静かな街路だ。人影もない。哲男はふと、いまこの瞬間、誰か魅力的な女の人がゴミを出していれば簡単に漁れるのにな、と思う。しかし、ちょっとまだ時間が早いから、それは望めない。だいたい、この辺りの地区の可燃ゴミの収集日は、月曜と木曜で、金曜日の夜の現在、ゴミが出される可能性は非常に低い。この収集日の問題だけは、哲男にはどうしようもない。制御不能だ。

歩いていくと、マンションの二階の暗いベランダに、洗濯物が揺れている。女性の一人暮らしなのか、明るい色のスウェットやシャツやジーンズなどが干されている。下着も干されているかもしれないが、通りからは見えない。最近は下着泥棒を警戒して、堂々と下着を干す人は少ない。もしも見えるところにあれば、それはたぶんオバサンのものだろう。ワインレッドやゴールドやパープルのレースやTバックなんて、滅多に拝めるものではない。そういうものは、古い由緒ある寺の秘仏のように、普段は見えないところに隠されているものだ。

夜の無人の街路を歩いていると、哲男の場合、どうしても血が騒いでしまう。ついつい視線が、ゴミを探してしまうのだ。しかし収集日にはまだ早い今夜の場合、どの集積所も空だ。たまにぽつんとボリ袋が置かれていたりするが、それはいかにも生ゴミの雰囲気で、手を出す気にはなれない。もっとも、そういう感覚を狙って、美人が生ゴミの中に使用済みの下着類を潜ませて捨てている可能性はある。だから、もしも捨てている現場に遭遇できれば、哲男が収集に着手する可能性はある。しかし、既に捨てられているものには、興味が湧かない。それでも、「酔いが醒めたら、明日は休みだし、期待は薄いが軽く巡回してみるかな」と哲男はぼんやりと考えた。

バス停から自宅までのルートは、深夜の徘徊とは重ならない。あえて、重ならないようにしているのだ。これも、哲男の用心深さ故のことだった。毎日通る場所は、なるべく避けたほうがいい。知らない間に、自分が気付かないうちに誰かの印象に残ってしまっている可能性があるし、もしもゴミ漁りの事実が露見して、それと自分が結びつけられたら、いくら証拠は残していなくてもまずいという思いが強い。

そんなことを漠然と考えながら、哲男は自宅へと歩いていく。角を曲がり、マンションまであと五百メートルほどに近づく。周囲は、完全に人気が絶えている。立ち並ぶ建物の窓にはまだかなりの数の明かりが灯っているが、路上には誰もいない。

と、あるマンションの建物の前に差し掛かった時、入り口から女性が出てきた。そこは九階建ての賃貸マンションで、たぶん住人だろう、ジーンズにトレーナー姿の、長い髪を後ろで無造作に束ねた二十台とおぼしき女性が、手にゴミ袋を持って現れた。その瞬間、哲男の血が沸騰した。まさか、収集日に早い今日のような夜に、こんな場面と遭遇できるとは、想像さえしていなかった。しかも、そうとうな美形の女性だ。トレーナーの上からでもはっきりと大きな胸の隆起が視認できるし、ジーンズに包まれた尻や太腿の量感も素晴らしい。

哲男は、この道が毎日使う通勤の経路であることに多少の懸念は感じたが、とりあえず物陰にさっと身を潜ませた。幸い、女性は周囲に全く気を配っておらず、哲男の存在に気付いた様子はなかった。

女性は、ぶらぶらとゴミ集積所まで歩いてきて、手に持っていた袋をぽんと放り捨てると、すぐに踵を返し、建物の中へと戻っていった。それは、ほんの十数秒の出現だった。

その女性の姿がエントランスの先に消えると、一瞬哲男は「どうしようか」と逡巡した。放り投げた感じからして、中身は軽そうだった。しかも、それほど満タンに詰まってはいない。それに、その集積所自体、植え込みの陰にあって、通りからは、見えることは見えるが、丸見えではない。小さく腰を屈めて素早く漁ることは、たぶん可能だろう。まだ時間が零時前で、しかも通勤ルート上であることが問題といえば問題だったが、それ以上に、今しがた見かけた女性は、かなり魅力的だった。あの女性のゴミなら漁りたい。哲男は強くそう思った。そしてその思いが、哲男の背中を押した。

哲男は周囲に気を配りながら、胸の内で十秒数え、誰もいないことを確認してから物陰を出てその集積所へと突き進んだ。そして、植え込みに身を隠すようにしゃがみ、ゴミ袋と対峙する。ポリ袋は半透明なので、外からでは中身をしっかりと確認できない。それでもうっすらと、煙草の空きカートンらしい箱の存在が認められた。袋の口は、しっかりと結ばれている。

哲男は、もう家は近いし、あえて危険は犯さず、「いっそこのまま持ち去って自宅で入念に中身を検証しようか」とも考えた。しかし、この集積所にはまだこの袋しかゴミが出されていないし、そのたったひとつのゴミ袋が消失したら、捨てた本人に気付かれてしまう恐れがある。だから、哲男はこの場で手早く開封することにして、固く結ばれた部分を解きにかかった。適当に破いてしまいたいくらい、それは頑丈に結ばれていた。哲男は焦りながらビニールの隙間に爪の先を差し入れ、少しずつ緩めていく。

その時、不意に頭上から甲高い女性の声が降り注いだ。

「ちょっと、そこで何してるの!」

哲男の動きが止まる。一瞬にして心臓が凍り付いた。声は、いまさっきゴミを捨てた女性だろう。きっと、ふと何気なく、ベランダかどこかから階下を覗いたのだ。そうしたら、怪しい男がゴミを漁っていた。そんな感じだろう。

哲男の全身から一気に汗が噴き出し、激しい動揺に襲われる。声のほうを見上げてその存在を確かめる余裕なんて、哲男にはなかった。ただ、頭の中では非常事態を告げる警戒警報が最高レベルで鳴り響いていて、口がカラカラに乾き、果てしない恐怖だけを感じていた。捕まれば、きっと、どんな言い訳も通用しない。とにかく逃げなければ、と思った。女性の声は、静かな住宅街に鋭く響いた。誰かがそれを耳にして窓を開けて外を覗き、たちまち注目を集めてしまう可能性が非常に高い。

「ちょっと、そこのあんただよ!」

女性の語気が強まり、苛立ちが剥き出しになっている。フリーズした哲男は階上を見ようともせず、むしろ下唇を噛み締めて地面を見つめると、次の瞬間、ゴミの袋はそのままにして脱兎の如く駆け出した。

「待ちなさいよ!」

上階で女性が叫んでいる。その声を振り切るように、哲男は全力疾走で街路を駆け抜けていく。

哲男は走った。でたらめに角を曲がり、一切後方は振り返らず、ひたすら夜の闇に紛れ込むように、死にたいくらいの強烈な恥ずかしさを抱えながら、息を切らして全速力で走り続けた。

やがて走り疲れて、哲男は見知らぬ町の見知らぬ児童公園の暗がりのベンチに座った。まだ体が小刻みに震えている。哲男は乱れた息を整えながら、煙草に火をつけ、少しずつ冷静さを取り戻していく。

そして、未だに恐怖心は払拭されていなかったが、それでも哲男は「生きよう」と思った。

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