青春の肖像 二十歳・帰郷

〈1〉

列車が減速を始めた。冬枯れの風景が窓の外を流れている。葛西学は席を立ち、網棚から荷物を下ろした。

車内はガラガラに空いている。学はボストンバッグを持つと通路を進み、ドアの前に立った。列車がゆっくりとホームに滑り込む。

ドアが開き、学はホームに降り立った。暖房の効いた車内から出ると、吹きさらしのホームは寒かった。学はフリース・ジャケットの襟を合わせ、ブルッと身を震わせてから携帯電話を取り出し、自宅にかけた。そして電話口に出た母親に告げた。

「今、駅に着いたから、これからそっちへ行くよ」

二年ぶりの帰郷だった。学は二十歳になり、明日の成人式に出席する為に故郷の町へ帰ってきたのだった。駅の佇まいは変わっていない。学は携帯電話を仕舞うと、ゆっくりと改札口に向けて歩き出した。

学はこの町の高等学校を卒業した後、東京の三流私立大学にどうにか進学し、町を出た。それ以来、盆も正月も一度として帰ってこなかった。別にそれで何の不都合もなかった。両親は折を見てしばしば上京していたし、東京で新しい友人も出来、帰る必要がなかった。学にとってこの町は、忌まわしくもそれでいて甘美な、あの十七歳の夏の出来事と共に、記憶の彼方に封印されたのだった。

東京で大学生活を送るうちに、学は、内面的にも外面的にも、劇的に変化した。身長は低いままだったが、体重はかなり落ち、髪も薄く茶色に染めて、それなりに東京の洗礼を受けていた。大学では美術サークルに属し、演劇部の公演ポスターを製作したり、友人が主宰するロックバンドのライブ告知のチラシを作ったり、結構生活を楽しんでいた。この正月には、サークルの仲間とスキー旅行にも行った。しかし何といっても、一番の変化は、恋人が出来たことだった。相手は一歳年下の別の大学に通う女の子で、彼女とはバイト先のコンビニで半年前に知り合った。もちろんもう体の関係もある。学は彼女と初めて寝る時、童貞を奪われたあの別荘での体験が脳裏を過ぎったが、ビデオや雑誌で仕入れた知識を最大限に動員して、きわめて普通にまとめて済ませた。ただ、彼女とのオーソドックスなセックスでは、あの時ほどの興奮は得られなかった。それでも、当たり前の恋愛が出来たことに学は喜びを見い出していたし、それなりに納得していた。しかし、かといってあの夏の日の出来事を完全に忘れたわけではなかった。忘れようと努力はしたが、無理だった。学は東京という情報の渦の中にどっぷりとはまり込んで暮らすうちに、自分の性癖がマゾと呼ばれる部類に含まれることを知った。ただしそのことは誰にも言えなかった。彼女になど絶対に言える性質の事柄ではないし、そもそも恋人はそんなタイプではなく、おとなしくて真面目な性格だった。学はそういう彼女を気に入っていたし、彼女に虐めてもらいたいとは全く思わなかった。彼女とはごく普通に付き合いたかった。そして、友人達にも、自分のマゾという性癖は知られたくなかった。よって学は、その願望を密かに育むこととなった。表面的には学校へ通い、サークル活動に精を出し、バイトをし、彼女と普通に付き合いながら、その一方、ひとりで部屋にいる時には、マゾ雑誌を読み、ビデオを観て、妄想に耽った。とはいうものの、自分がハードなマゾヒストではないことには、薄々気づいていた。軽く鞭で打たれるくらいならいいが、蝋燭を垂らされるのは嫌だし、つまり、体を痛めつけられることには全然惹かれなかった。だから都内にごまんとあるSMクラブも敷居が高かったし、むろんそんな金も勇気も無かったけれども、それよりも精神的にじわじわと責められ、支配されたいという願望がとても強かった。結局のところ、あの別荘で行われたようなことが学にとっては究極且つ理想的なプレイといえた。そしてあのような状況は、いくら金を積んでも簡単に手に入るものではなかった。それは、99%の偶然と1%の幸運が重なって初めて経験できる。そんなきわめて貴重な体験を、学は幸か不幸か最初に経験してしまった。

学は改札を抜け、駅前のアーケードの商店街をぶらぶらと歩いていった。二年前の夏、塾の帰りに偶然、川島かなえと牧村美樹子に声をかけられたマクドナルドの前を通った。店の周りには、あの夜の彼女達のような、派手な装いの女子高生が数人たむろっていた。学は眩しげに現役のギャルたちを見遣りながら、その前を通り過ぎた。

今回、どうして学が二年ぶりに帰郷し、地元の成人式に出席しようと思ったかというと、それは、高校時代からずっと仲が良い今井という同級生から久しぶりに電話がかかってきて、「たまには会って、一緒に成人式に出ようぜ」と誘われたからだった。今井は、高校を卒業した後、学と同じように町を出て、現在は大阪の大学に通っている。学にはもう一人、金田という仲の良い友達がいて、今井からの電話のすぐ後に金田からも電話があり、とんとん拍子に話が纏まった。金田は卒業後、町に残り、実家の商売を継いでいた。金田の実家は代々造り酒屋を営んでいて、その銘柄は都内のデパートでも目にすることができる。

この帰郷に際して、真っ先に学の頭に浮かんだのは、彼女達はどうしているだろう? という思いだった。吉森夕子、川島かなえ、牧村美樹子。あの三人とは、卒業以来全く音信不通だ。もっとも、あの別荘から帰ってからだって、ほとんど話すことは無かった。学校で顔をあわせても、かなえと美樹子は同じクラスだのに滅多に口をきかなかったし、夕子にいたっては、クラスが違うこともあって一度として話す機会はなかった。そして三年に進級すると、かなえや美樹子ともクラスが別になり、廊下で擦れ違ったり、全校集会や学園祭や体育祭などでその姿をちらりと見かけることはあったものの、会話らしい会話を交わすことも無く、そのまま卒業してしまった。あの別荘での破廉恥な出来事をむやみに口外されることが無かったことは学にとって幸いだったけれど、相手にもしてもらえないというのは少々寂しかった。だからなのか、余計に記憶ばかりが鮮明に甦り、あまりに思い焦がれたがために、その記憶は学の中でかなり美化されていた。

成人式には彼女達も来るのだろうか。会いたい。しかし会っても無視されるのではないか。どんな風に変わっているだろう。様々な思いが学の心の中で交錯した。

やがて学は実家の前に立った。小学校入学のときに引っ越してきて以来、高校卒業まで過ごした、二年ぶりの家。学は柄にもなく感慨に耽りながら門を潜り、玄関のドアを開けて「ただいま」と言った。

大きな姿見にスーツ姿の学が映っている。ネクタイと上着のポケットに差したハンカチの色は赤で、それが黒っぽいダークスーツにピリリと映えていた。

家の外でクラクションが、ファーンと鳴った。友人の金田が迎えに来たのだ。学は「行ってくるよ」と両親に告げ、靴を履いて玄関を出た。

門の前の道路にパールホワイトのセルシオが停まっていて、その傍らに金田と今井が立っていた。ふたりとも三つボタンのスーツを着ている。学は「おう」と軽く手を挙げ、ふたりに近づいていった。

「久しぶりだな、葛西」

今井が言い、三人は二年ぶりの再会を喜んだ。

「痩せたなあ、見違えたよ。まあ、とにかく乗れよ」

金田が運転席のドアを開けながらリアシートを示した。今井は助手席に回る。学は後ろのドアを開け、身を屈めて乗り込んだ。そして三人がそれぞれ席に収まり、車が静かに動き出すと、学は前へ身体を乗り出すようにしてハンドルを操る金田に言った。

「これ、おまえの車? すごいなあ」

「違うよ、俺のはシルビア。これは親父のなんだ。シルビアじゃ三人乗るには狭いし、これの方が見栄えもいいからさ、頼んで借りてきたんだ」

成人式の会場は地元の小学校の体育館で、車なら五分とかからない距離だった。小学校の校門付近にはもう既に多くの新成人が集まっていて、晴れ着姿の女性達が華やかだった。金田はセルシオを駐車場に止め、三人は会場へ向かった。

思っていたより、知った顔が少なかった。しかし、それも考えてみれば当然だった。今井、金田、学の三人はたまたま小学校から高校まで一緒だったが、そんなのは本当に稀で、ここにいる殆どの人は小学校の卒業以来なのだった。この地区は、中学校に上がると三つの学区に分かれるし、学が小学校から付き合いがあるのは今井と金田の二人だけだった。そのことに思い至ったとき、学は「ということは、ここに吉森夕子と牧村美樹子は来ない」と気づいた。かなえだけは小学校が同じで、中学で別々になり、高校でまた一緒になったのだから、この成人式に来ていれば会場のどこかにはいるだろうが、夕子の住所は隣の市だったし、美樹子は高校の近くに家があったはずだから、ここにいるわけがないのだった。

男性は圧倒的にスーツ姿が多く、中には長髪を後ろでまとめて紋付袴を着ている人もいたりしたが、女性陣はほぼ百パーセント晴れ着だった。その艶やかなことといったら、とても同い年とは思えなかった。学はそんなことを思いつつ体育館へ歩きながら、無意識のうちに川島かなえの姿を探していた。しかし結局、会場内に入ってテーブルにつくまでには、とうとう見つけることができなかった。

「あれっ? もしかして葛西? 俺だよ、俺、麻生。覚えてないか? 小学校六年で一緒だったろ。ほら、学芸会の時、一緒に『浦島太郎』の魚をやったじゃん」

「ああ思い出した。麻生、久しぶりだな。でもなんだよ、その頭、キンキンじゃん」

「これな、俺、今東京の大学へ行っているんだけど、バンドやっているんだ」

「ふーん、俺も今、東京にいるよ」

「へえ、そうなのか」

そんな懐かしい会話もあったりして、なんとなくムードが高まってきた。金田や今井もそれぞれ知った顔に会って会話が弾んでいる。そして、やがて式が始まった。

式自体はつまらないもので退屈だったが、その後、会場の外ではいたるところでグループが出来上がり、盛り上がった。学たち三人も、小学校六年のとき一緒のクラスだった連中と芋づる式に出会い、男性ばかり十五人ほどのグループの中に入っていた。そこで二次会の話になり、駅前のカラオケ店へ行くことになった。それぞれ車で来ていたから、いったんここで別れ、一時間後に店の前で再度集まることに話が決まった。

学は今井や金田と一緒に、金田の車に向かって、群集を掻き分けるようにして歩き出した。その時、学は偶然、女性ばかりのグループの中に、川島かなえの姿を見つけた。かなえは何やら笑顔でキャーキャー騒いでいた。髪をアップでまとめ、綺麗な晴れ着を着ていた。化粧も高校時代ほど派手ではなく、かといって薄くはなかったが、相変わらず魅力的だった。学はその姿を一目見て、胸がときめいた。他の二人には気づかれないように、学は歩きながらかなえの姿を目で追った。やがて、不意にかなえが何気なく学のほうを見、一瞬目が合った。その瞬間、かなえも学に気づいたようだった。だが、すぐに彼女は仲間との会話に戻っていった。そしてもう二度と目が合うことはなかった。学は落胆の色を隠せなかった。しかし思い切って声を掛ける勇気もなく、また、そのきっかけも失ってしまったから、どうすることも出来なかった。学はだんだんかなえから遠ざかりながら、ただその明るい笑顔を未練がましくちらちらと盗み見し続けた。

「おい葛西、何をやっているんだよ、置いていくぞ」

今井が振り向いて言う。

「ごめんごめん」

いつのまにか二人に後れを取っていた学は、そうこたえると、かなえへの気持を断ち切るように、ふたりを小走りで追った。

結局その日、学が家に帰りついたのは深夜だった。学は疲れ果てて自宅に戻った。携帯電話の番号を交換したり、「また会おうな」とか「東京にいるなら一度飲もうぜ」とか言ってみんなとは別れたけれど、たぶんこちらから電話をすることはないだろうし、かかってもこないだろう、そして、金田や今井以外、改めて誰かとどこかで会うこともないだろう、と学は思った。成人式の日とは、そういうものだ。ほんの一瞬だけ過去を懐かしみ、だけれども明日からはまたそれぞれ別の道を歩んでいく。そしてその道が再び交わることなど、そうはないのだった。

一日は瞬く間に過ぎ去っていった。カラオケに四時間いて、夕食をファミレスで食べ、居酒屋を二軒ハシゴした。酒に強くない学は、ジュースや時々ウーロンハイを飲んで付き合った。しかしその間ずっと脳裏を占めていたのは、ちらりと見かけた川島かなえの姿だった。今頃彼女もこの町のどこかで誰かとはしゃいでいるのだろう、そう思うと、心は俄然そちらへと傾いた。そして、おそらく美樹子や夕子も、あまり遠くはないどこかで同級生達と旧交を温めている。その想像は、自分で思っている以上に学に地団太を踏ませたが、どうしようもなかった。

学は着慣れないスーツを脱ぐと、風呂に入ってサッパリし、自室のベッドに寝転んだ。今回は、三日ほど家にいるつもりだった。もう日付も変わってしまった。明日はゆっくり昼近くまで寝ていよう。学はそう思いながら電気を消し、布団を被った。

「学、ほら起きなさい、電話よ」

翌朝、学がぐっすりと眠り込んでいると、母親に揺り起こされた。

「はあ?」

学は目覚め、眠気眼を擦りながら枕元の時計を見た。すると、まだ七時だった。ベッドの傍らに母親が立っていて、コードレスホンを学に突きつけている。

「早く出なさい。もう、ここへ置いていくわよ」

そう言うと、母親は子機をベッドに放り投げて部屋から出て行った。学はまだ寝ぼけたまま子機を取ると、誰だよ、こんな早くに、と思いながら受話器を耳に当てて「もしもし」と言った。

「もしもし? 葛西? 私、わ・た・し。誰だかわかる?」

受話器から聞こえてきたのは明るい女性の声だった。学はすぐに誰かわかった。それは川島かなえの声だった。瞬時に学の頭ははっきりした。

「ああわかるよ。川島だろ? 久しぶりだね」

「うん。昨日、チラッとおまえを見かけたからさあ、懐かしいなあと思ったんだ。帰ってきてたのね」

「ああ。金田とか今井に誘われたんだ」

「そう。でもおまえ、私に無視されてショックだったんじゃないの?」

含み笑いを洩らしながらかなえが言った。

「え? 別にそんなこと……」

「ふーん。ふっそう。じゃあいいわ。せっかくあの後、ユウコとかミキと連絡取ったら、みんな喜んじゃって、おまえを呼んで別荘でまた遊ぼうって話になったのに。ふーん。別に何とも思わなかったんだ。それじゃあ、もういい。こんなに朝早くから電話して悪かったわね。もしかしてまだ寝てた? ごめんねえ。じゃあ、悪いからもう切るわ」

学は慌てて、もう電話を切ろうとしているかなえを引き留めた。

「ちょっ、ちょっと待って」

「何?」

かなえが冷めた口調で言う。学は、しどろもどろになりながら弁明した。

「ご、ごめん。本当は違うよ」

「何が違うの? 私に無視されて悲しかったの?」

「う、うん……」

その学の返事に、かなえは嬉しそうに声を弾ませた。

「それじゃあ、私達と遊ぶ?」

「う、うん」

「何よ、はっきりしないわねえ。嫌なの?」

「い、いや。遊びたいよ」

そう言ってしまった瞬間、この二年間、東京で少しずつ積み上げてきた真っ当な生活がガラガラと音を立てて脆くも崩れ落ちていくのを、学は感じた。

「遊びたい、じゃないでしょ? 遊んでください、でしょ」

かなえが咎める。学は素直に言いなおした。

「はい。遊んでください。お願いします」

もうすっかり気持はあの頃に戻っていた。結局、何も変わらなかったし、何も変わっていなかった。十七歳の夏で止まったままだった時計が、三年という時間を超え、いま再び時を刻み始めたようだった。かなえが電話の向こうでクスクスと笑いながら言う。

「また犬になりたいんだ、ハハハ」

その言葉で、あの夏の情景が学の脳裏に鮮やかに甦った。ケラケラ笑い転げるギャルの足元に跪き、全裸で首輪を巻かれながら足の指をしゃぶっている自分の姿が、学の理性をチリチリと焼いた。学は無意識のうちに、朝勃ちのペニスを握っていた。それはガチガチに硬直していて、しかもかなえの声を聞いたことで、さらに硬度を増していた。

かなえは、もう三人で勝手に決めていた待ち合わせの場所と時間を学に告げた。今日の午前十時、駅前のモニュメント。その時間と場所は、あの夏の日に別荘へ行くために待ち合わせたときと同じだった。そのことから、学と同じように彼女達もあの時のことを忘れていないことが明白だった。

かなえは電話を切る前に、ひとつだけ学に訊ねた。

「ねえ葛西。本当のことを言いなさいよ。おまえ、私の家へ来たときのことや、ユウコの別荘での出来事を思い出してセンズリしたことある?」

学は正直に、「ある」とこたえた。するとかなえは満足そうに笑って、「じゃあ後で……変態のワンちゃん」と言って電話を切った。

変態のワンちゃん……かなえのその言葉は、通話を終えた後も学の心にいつまでも反響し続けた。学はもう、東京にいる恋人のことなど、完全に忘れていた。

約束の場所である駅前のモニュメントには、十五分も早く、九時四十五分に着いてしまった。約束の時間より十五分早く着いてしまうところまで、あの夏の日と同じだった。違うのは、どんよりと曇った冬の空と、吹きつける冷たい風くらいだった。

駅前の風景は、それほど当時と変わってはいない。ただ奥まった一画で、イトーヨーカドーの新店舗が建設中だった。

「葛西? 葛西でしょ? アンタ、痩せたねえ」

背後から突然そう声を掛けられて学が振り向くと、そこには吉森夕子が立っていて、その後ろに川島かなえと牧村美樹子がいた。夕子は白いダウンのロングコートに白いブーツといういでたちで、茶色い髪に金色のメッシュが入っている。かなえは、昨日はアップにしていた髪を今日は下ろしていて、襟にボアの付いたピンクのブルゾンを着て、真冬だというのに白いミニスカートを穿いていた。そして美樹子は黒いベロアのカーディガンに、黒革のハーフコートを羽織り、下は黄色い革のミニスカートだった。三人とも上背があるので、背の低い学は自然と取り囲まれる格好になった。三人に見下ろされて、学はあの頃のような緊張に捕らわれた。それは久しく忘れていたドキドキ感だった。

「おまえも二十歳になって、ちょっとはマシになったじゃん」

美樹子が言い、かなえと夕子が笑った。今日の学は、グレーのフリースジャケットを着て、リーバイスのジーンズにワークブーツを履いている。

「だけど犬になりたいんだよね、こいつは」

夕子が大きな声で言った。学は真っ赤になって俯いてしまった。周りに誰もいないのが幸いだった。

「とりあえずお茶でも飲もうか。再会を祝して」

意味深長に「再会」という言葉を強調して夕子が、みんなを近くの喫茶店へ誘った。四人はぞろぞろと駅前広場を横切りながら、女の子三人も学ほどではなかったにしろ、久しぶりに会ったらしく「元気にしてた?」などと、学を放置して盛り上がっていた。

喫茶店の窓際の席に落ち着き、卒業してからの彼女達それぞれのこの二年間の話を聞いて、学は軽い衝撃を受けた。三人のうち、かなえと美樹子はもう結婚していて、しかも美樹子には今年一歳になる男の子までいるのだった。美樹子は三歳年上の、この町でクリーニング店を営む家の長男と一緒になり、親と同居はしていないが、店は手伝っているということだった。今日は、同性の友達と会うからと言って子供を自分の実家に預けてきたらしい。かなえは、五歳年上のトラック運転手と結婚して隣町に暮らしていて、まだ子供はいないものの妊娠二ヶ月だと言った。つまり、もうふたりは川島や牧村ではなく、かなえは新井、美樹子は野崎という苗字に変わっているのだった。そして、夕子の卒業後は、他の二人とは別の意味で驚きだった。夕子は高校を出た後、いったんは地元の短大に進んだが、そこを一年で辞め、いまはハワイに住んで向こうの大学に通っているとのことだった。

「ところでおまえはどうなの? 髪の毛も茶髪にしちゃって、だいぶ痩せたみたいだけど、東京の大学へ行って、どう? 彼女とか出来た?」

かなえにそう訊かれ、学は照れくさそうに「ああ」と頷いた。すると美樹子がおかしそうに茶化した。

「ふーん。ユウコに犯されるように童貞を捨てたおまえに彼女がいるとはねえ。じゃあ何? エッチもしてるの?」

「ま、まあね」

学は小さくなって答えた。同級生の女の子から茶化すように聞かれて、恥ずかしくてたまらなかった。そして、この三人は……一生忘れることのない初体験の目撃者なのだ、と改めて思った。

「ってことは、私の脚に縋りついてオナってて、その後、私に跨られてほんの数秒で出しちゃったおまえが、今じゃ誰かを偉そうに組み強いて、しかもリードとかしてるってわけ? ははは、こりゃ、お笑いだわ」

長いメンソール煙草を燻らしながら夕子が乾いた笑い声を上げ、他の二人も笑った。学はテーブルに視線を落とし、アイスティーのグラスの中の氷をストローで意味もなくかき回し続けた。ウエイトレスが「どういうグループなのだろう」という好奇の目で、学たちの様子を見ていた。

「それじゃあ、あんまり遅くなるとアレだから、そろそろ別荘へ行こうか」

煙草をバッグにしまいながら夕子が言うと、美樹子が「車を取ってくるわ、待ってて」と言い残して先に店から出て行った。そして、やがて大きな黒いアストロが店の前の路上に止まると、「あっ来た」と夕子が言って、かなえと一緒に立った。学は伝票を手許へ引き寄せた。ここの支払いは間違いなく学の役目だった。

「ほら葛西、行くよ」

夕子が学の肩をポンと叩いて言った。

〈2〉

美樹子の黒いアストロは、フロントガラスを除く全部の窓に黒いフィルムが貼られていて、外から内部は全く見えないようになっていた。よって、中から眺める外の景色は暗い。美樹子が運転席でハンドルを握り、広いリヤシートに夕子とかなえと学が乗り込んだ。

「ねえ葛西。今日は時間がないからさあ、早速始めようか。さあ、二年前みたいに、ほら、さっさと裸になりな」

車が走り出すなり、夕子が学に命じた。しかし学はさすがに躊躇してしまった。いくら窓にはフィルムが貼られているとはいえ、町中を走る車の中で裸になる勇気はなかった。

「ちょっ、ちょっとそれは……。冗談だろ?」

「は? 冗談? おまえ何言ってんだよ、マジに決まってるじゃん。ほらほら、早く脱げって。脱いだら、おまえの好きなコレを付けてやるから」

そう言う夕子の手には、あの夏、別荘で使った首輪があった。こうなった以上、学はもう脱ぐしかなかった。学はそう決断すると、揺れる車の中で服を脱ぎ始めた。その様子を、美樹子が運転席からルームミラーで、運転に支障をきたさない程度に覗いていた。学は夕子とかなえの目の前で服を脱いでいくうちに、はからずももう勃起してしまった。ふたりとも既に上着を脱いでいて、それぞれ胸の隆起を強調するような、体にぴったりとフィットしたノースリーブのニットを着ていた。だから、そのボリューム満点のボディが嫌でも目に入って、学はたちまち昂ってしまったのだ。しかも、それは手を伸ばせば簡単に手が届くほど間近にあった。ただ、勃起の理由は決してそれだけではなかった。このふたりの美人に注視されている状況そのものに、学は興奮していた。これは、平凡な大学生として月並みな生活を送っている毎日の中では、絶対に味わう事のできない性質の被虐的なゾクゾク感だった。かなえが学の股間の状態に気づいて、歓声を上げた。

「やだ、こいつもう勃ってる!」

「マジで変態だね」

夕子も同調し、学はそんな嘲笑を浴びながら素っ裸になると、ふたりの前でお座りをした。

「ほーらワンちゃん、首輪を付けてあげましょうねえ」

夕子が小馬鹿にした口調でそう言いながら首輪のベルトを外す。

「あ、ありがとうございます」

学は声を震わせながら言い、頭を前へ差し出した。夕子は、そんな学の首に首輪を装着し、引き綱を引っ張りながら「まずは、チンチンしてごらん」と命じた。

学はその座ったままの体勢から腰を浮かすと、上体を伸ばし、腕を胸の前まで上げて手を揃えて下へ垂らし、言われたとおりチンチンの格好をした。夕子は、そんな学をあからさまに嘲笑しながら、まるで挑発でもするようにゆっくりとブーツを脱ぐと、長い脚を見せ付けるように学の前へ投げ出した。

「ねえワンちゃん。この脚、どう?」

「す、素晴らしいです」

チンチンの格好を保ったまま、モゾモゾしながら学は答えた。横からかなえがブーツの底で学のペニスを踏む。学は思わず仰け反り、快感の呻き声を洩らしてしまう。

「何よがってるのよ。ほら、この脚で何がしたいか言ってごらん」

夕子が学の目の前に脚を高く掲げながら訊く。学は叫んだ。

「オ、オナニーがしたいです!」

爆笑が車内に広がる。美樹子も運転席でハンドルをバンバン叩きながら「葛西、おまえ早速変態全開だな!」と大笑いしている。そして夕子が、呆れながら言う。

「ほんとどうしようもない変態ワンコだね、おまえって奴は。恥ずかしげもなく『オナニー』だなんて。まあ、いいわ。ほら、やってごらん」

「ありがとうございます!」

学は猛然と夕子の脚に縋りついた。そしてどさくさに紛れて夕子の短いスカートの奥に顔を埋め、そこに籠もる仄かな芳香を吸い込みながら、脚にペニスを擦り付けて盛んに腰を振る。

「うわっ、すげー興奮してる、この犬」

かなえが笑いながら嘲る。夕子は学に脚を与えながら、煙草に火をつけた。学は一心不乱に腰を使い続けている。

「ちょっと、興奮するのはいいけど、汚いものを撒き散らしてシートとか汚さないでよ」

運転席の美樹子がルームミラー越しに学に言う。しかし学はもうすっかり夢心地でトリップしていて、まるで呪文のように「夕子様、夕子様、夕子様……」と二年分の鬱屈を吐き出すように呟きながら黙々と腰を振っている。そしてやがて、学は夕子の脚に華々しく射精した。三人の笑いが一層高まる。

「もうイッたのかよ? 相変わらず早いねえ。ほら、このティッシュで自分の出したモノの始末をしなさい」

夕子が、ニ、三枚まとめてティッシュを箱から抜いて学に渡した。学は夕子の脚に付着した自分の精液をそれで拭った。そしてついでに、自分の性器も拭う。美樹子は運転に集中していたが、かなえと夕子はそんな学の行動をしっかり見下ろしていた。その視線を意識した瞬間、学の屈辱感は完全に極まった。

後始末をしている間に、車が信号待ちで止まった。一通り拭い終えると、学は目を上げ、ちらりと窓を見た。すると、暗いガラスのすぐ外は歩道で、大勢の通行人が行き交っていた。

別荘に着くと、学は全裸で首輪を巻いたまま夕子に引き綱を引かれながら、四つん這いで車を降りた。そしてその体勢を保ったまま彼女達について芝生の上を進み、山小屋風の建物に近づいていった。空は晴れているものの山の空気は冷たく、鋭い刃物を思わせる風が学の肌を刺した。夏には青々としていた芝も枯れ、弱々しい陽光は降り注いでいたが、手のひらに伝わる地面は冷たく固かった。

夕子は引き綱を持ってポーチに上がり、玄関の錠を解除した。四人はリビングに入り、夕子は暖房をつけてから、二階へと続く階段の手摺りの支柱に、学の首輪へと繋がっている引き綱を引っ掛けた。そして、学に言う。

「そこにお座りしていなさい」

学はフローリングの冷え冷えとした床に、犬のお座りと同じ格好で座った。あまりの寒さに体がブルブルと震え、剥き出しの股間もすっかり縮み上がっている。やがて、天井近くに設置されたエアコンから暖かい風が吹き出して、急速に部屋の温度が上昇を始めた。彼女達はソファに身を沈め、揃って煙草に火をつけた。かなえが、途中のスーパーで買ったジュースやパンを袋から出してテーブルの上に並べていく。

五分もしないうちに、室内は暖かくなった。大きな窓の向こうには、明るい庭が広がっている。彼女達は依然として学を無視したまま、漸く上着を脱ぐと、ジュースの缶を開け、パンの袋を破った。

昼を少し過ぎた時間だった。学も腹が減っていた。しかし、まだ繋がれたままで、彼女達は無視してパンを食べ始めている。すると、暫くしてかなえが学を見て、「あ、おまえにもエサを上げなきゃねえ」と言った。学は、「はい」と答えた。するとかなえは、自分が食べていたメロンパンを少しだけ千切ると、学に向かって投げた。それは学額に当たり、跳ね返って床に落下した。かなえが、咎めるように言う。

「何やってるのよ。おまえは犬でしょ? だったら、口でキャッチしなきゃダメじゃない」

かなえは、もう一切れパンを千切ると、もう一度学に向かって放った。学は言われたとおり、腰を伸ばして口を開け、それを受けようとした。しかし、またしてもパンの切れ端は学の額に当たって落ちた。

「ヘタくそねえ」

「すみません」

そう謝って学がパンに手を伸ばしかけると、ニヤニヤ笑って見ていた美樹子が鋭くそれを制した。

「ちょっと、ちょっと。おまえは犬でしょ? 犬がどうして手を使うのよ。ちゃんと口で咥えて食べなさい」

他の二人も、頷いて同意している。学は仕方なく、両手を床について上体を伸ばしながら屈み込むと、パン切れを咥えた。そして体を起こし、ムシャムシャと食べる。

「おいしい?」

かなえがソファから立ち上がり、学に近づきながら訊く。学は、「はい」と頷く。するとかなえはさらに学の傍に来て、おもむろに学の髪を掴んでぐいっと後方へ引っ張り上を向かせた。

「それじゃあ、もっと美味しいものをあげるわ。口を大きく開けなさい」

そう言うと、かなえはメロンパンを齧り、口の中で咀嚼し、そのグチャグチャになったものを学の口の中に吐いた。

「面白そう。私もやる」

その様子を見ていた夕子が、小倉の入ったデニッシュを持って学の傍まで来た。美樹子も、食べかけのカレーパンを手に「私も」と言ってはしゃぎながら、夕子に続く。

学は、かなえの口から吐かれた唾に塗れたパンをモグモグと食べている。それは何とも形容しがたい食感だった。柔らかくて暖かくて、紛れもなくメロンパンの味がした。そして、それを飲み下すのとほとんど同時に、今度は夕子の口からデニッシュが吐かれ、続いて美樹子の口からカレーパンが吐き出された。学は必死にそれを食べた。しかし、一度に大量に口に含んだので、喉を詰まらせてしまった。何度も胸を叩く。

「あらあら、苦しそう」

三人は学を囲むようにしゃがみ笑っている。学は咽ながら「何か飲む物をください」と懇願する。しかし夕子は素っ気無い。

「おまえが飲むものなんて何もないわよ」

「そ、そんな……」

学が情けない声を出すと、夕子が笑いながら言った。

「しょうがないわねえ、だったら私のオシッコでも飲む?」

「オシッコ!?」

学は素っ頓狂な声を上げた。しかし、そんな反応を示しながらも、内心では実は喜びの感情が爆発していた。密かにマゾヒストとしての暗い欲望を抱き続けていた学にとって、女性のオシッコ、つまり「聖水」と呼ばれるその液体は、憧れの対象だった。そして今、その千載一遇のチャンスが思いがけず訪れた。学は、大きく頷いて、「ください!」と叫んだ。

「ほんとに飲むのかよ?」

嘲笑しながら夕子が言う。学は、更に声を大きくして懇願する。

「夕子様、お聖水をお恵みください!」

学にとって、夕子の聖水ほど尊いものはなかった。マゾ雑誌を読むようになってから、オシッコを飲むというその行為に、学はずっと思い焦がれていた。初めてグラビアで全裸のマゾ男が女王様の股間から迸り出る金色の放水を顔面に浴び、そして口を開けてそれを受けている場面を見た時、学は「自分も飲みたい」と強く思った。しかし女の人のオシッコを飲むチャンスなど、これまで一度もなかった。また、「飲ませてくれ」だなんて誰にも言えなかった。

「マジかよ、おまえ。っていうか、聖水って何だよ?」

かなえが笑いながら訊く。学は目を瞑り、大声でこたえる。

「オシッコのことです!」

「すげーな、葛西。おまえ、本気でオシッコ飲むのかよ」

「はい!」

三人が大爆笑する。やがて夕子が肩を竦め、学の首輪から引き綱を外しながら、言った。

「冗談で言っただけなのに、本当に飲むとは……。まあ、いいわ。しかし、お酒は飲めないくせにオシッコは飲めるなんて、正真正銘の変態だ」

そうして引き綱を外し、さらに言う。

「じゃあ、飲ませてやるから、台所から古新聞と大きなビールのジョッキを取っていらっしゃい」

「はい!」

学は即座に立ち上がると、そのまま走って台所へ行き、積まれていた新聞の束から数日分を適当に引き抜き、食器棚からビールジョッキを取ると、すぐにリビングへ戻った。そして、夕子の前に新聞とジョッキを置く。

「早いわねえ。ハハハ。それじゃあ、そこに新聞を広げて敷きなさい」

学はいそいそと新聞を敷いた。すると夕子が、その新聞紙の上に立った。そして、下着を脱いで足元に落とし、片方だけ引き抜くと軽く足を開き、スカートをたくし上げた。学の目の前に、薄い恥毛に覆われた股間が誇らしげに突き出される。

「ほら、ジョッキをこの下に持ってきなさい。いくわよ」

学は両手でしっかりとジョッキを持って夕子の股間の真下に差し出し、その瞬間を待った。静寂。やがて、夕子の股間から金色の聖水が迸り、ジョボジョボと音を立てて見る間にジョッキの中へ溜まっていった。金色の滴が跳ねて学の手を濡らしていく。そして、縁近くまでなみなみと注ぎ込まれた後、漸く止まった。

ジョッキを包むようにして持つ手のひらに、グラスを通して小水の温もりがほんのりと伝わっている。ツンと鼻を刺す香りが立ち昇っている。学は暫しその感慨に浸った。

「さあ、飲みなさい」

悠然と微笑んで夕子が促す。他の二人も興味津々の表情で学を見守っている。

「ありがとうございます」

学は三人の視線をヒシヒシと感じながら、しかしジョッキからは目を離さずそう言うと、その縁に口を近づけた。俄かに香りが強くなる。金色の液体の表面に、学の顔が映って揺れている。夕子の聖水……それは学がこの二年間、切実にずっと夢に見続けていたものだった。その夢が今、ついに成就する。

「いただきます!」

学はぐっとジョッキを持ち上げて呷った。そして喉を鳴らしてそれを一気に飲み干していく……。

あたりはもうすっかり暗い。学はアストロの後部座席のスライドドアを開けると、朝に待ち合わせをしたモニュメントに近い駅前の歩道に降り立った。白い月が夜空に煌々と輝いている。

「じゃあねー、葛西」

開いたドアの内側で夕子が言った。かなえも笑いながら手を振っている。運転席のガラスも下りていて、ハンドルに手を掛けたままの美樹子が、おどけて投げキッスをした。その間に、スライドドアは勢いよく閉まった。そして、三人を乗せた黒いアストロは走り出し、夜の闇に赤いテールランプを滲ませながら遠ざかっていった。

呆気ない別れだった。学は暫くその場に立ち尽くしていた。再会の約束は交わさなかった。もしかしたら、永遠の別れかもしれなかった。アストロのテールランプはもう見えない。学は彼女達の連絡先を知らなかった。卒業アルバムを見れば実家はわかるかもしれないが、三人とももう別の場所で生活を築いている。

冷たい風が吹いている。学は孤独だった。それでも、いつまでもこの場にいるわけにもいかなかったし、歩きださなければならなかった。

結局、夕子の聖水を飲んだ後、学は徹底的に三人の玩具として弄ばれ、合計で五回は白い液を噴出させられた。時には自分で、時には誰かの手に、時には誰かの足によって射精した。とくに、最後は圧巻だった。床に全裸で仰向けになっているところへ、三人から次々に聖水を浴びせられ、それを飲み、塗れながら、三人交互に跨られた後、夕子の中で学は果てた。

その時のことを思い出すと股間が疼いたが、しかし余計に孤独が身に沁みた。学は閑散とした夜の駅前広場に佇みながら、アストロが走り去った方向を未練がましく見つめ続けていた。

やがて、それでも学は歩き出した。冷たい風から身を庇うようにジャケットのジッパーを首元までいっぱいに引き上げ、ポケットに手を突っ込む。と、その時、ポケットの中の携帯電話が震えた。彼女達と過ごしている間、ずっとマナーモードにしていたのだ。そのことを思い出しながら学は携帯電話を開いた。すると小さなディスプレイには、恋人の名前と電話番号が表示され点滅していた。学は立ち止まり、一呼吸置いて気持ちを落ち着けてから応答のボタンを押す。

「もしもし」

聞き慣れた優しい声が響いてくる。

「もしもし、マナブ? 私。全然電話がないからさあ、こっちから掛けちゃった。今、いい? 何かしてる?」

「いいよ。今、友達と別れたところ」

「そう。で、成人式はどうだった?」

学は電話を持ち替え、片手をポケットに突っ込んで再び歩き出しながら応える。

「成人式は、あんなもんだろ」

「ふーん。もしかして、昔の彼女と浮気なんかしていないでしょうね?」

「そんな色っぽい話なんかないよ。明日はそっちへ帰るからさ、夜にでも会おうか」

「いいけど、バイト終わるの十時だよ。それからでも、いい?」

「いいよ」

学は何百キロも離れた恋人と話しながら、ごく当たり前のささやかな幸福を感じていた。これを失いたくはない……だけど、彼女は本当の自分を知らない、と学は思った。しかし同時に、彼女と付き合っている自分が本当の自分なのか、それとも夕子達の前で破廉恥な姿を晒して興奮していた自分が本当の自分なのか…… それが学にはわからなかった。たぶん、どちらも本当の自分なのだろう……だから、バランスを取っていくしかないのだ、と恋人の声を聞きながら思う。

やがて通話を終えて、学は携帯電話をポケットに戻した。すると、先ほど感じた寂しい気持ちが心なしか薄らいでいた。もう学は、孤独ではなかった。

白く輝く夜空の月を見つめながら学は思う。夕子達との一連の経験は素晴らしいものだった。彼女達は、普通の暮らしをしていてはなかなか得ることができないアブノーマルな悦びを学に教え、そして気づかせた。しかし、別に知らないで済むことだったといえば確かにそうで、もしかしたら、知らないままのほうが学にとっては幸福だったかもしれなかった。それでも学は、後悔はしていなかった。学にとって彼女達は、青春そのものだった。だから今、彼女達との別れは、青春の終わりを意味していた。これから先、学がどこへ向かって進んでいくのか……それは学自身のその小さな肩にかかっている。

学は沈黙する携帯電話をポケットの中で握り締めながら、人気も疎らな歩道を歩いていった。街灯の明かりが、学の影を淡く路面に長く落としていた。

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