たった一葉

仕事を定時で終えた君は、帰り支度を始めた。
周りの同僚たちも残業はしないようで、「お疲れ様でした、失礼します」と言って、次々に席を離れていく。
君は私物をブリーフケースにしまい、椅子の背に掛けていたジャケットを着ると、電話をその内ポケットにしまった。
そしてコートを取りに行こうとロッカーへ向かいかけた時、別の部署の女子社員から声をかけられた。

「ちょっと、時間ありませんか?」

彼女は、君とは所属する課が違うので、あくまでも年下の同僚というか、後輩というか、何れにしても部下ではなくて、そもそもそんなに親しくもない。
無論、顔は知っているし、会話を交わしたことはあるが、終業後にこんな風に話しかけられるなんて、君にとっては意外なことだった。
しかし若くて美人だし、もともと水泳をずっとやっていたとかで体躯が逞ましく、変態M男の君としては、密かに憧れる対象ではあった。
彼女はすでに私服に着替えを済ませていて、葡萄色のコートを着込んでいた。

「あるけど、どうした?」

君は足を止めると、年上の先輩の余裕みたいなものを言葉に滲ませながら訊いた。
そもそも、時間なんてものは、あるもないも、あるに決まっている。
君に退勤後の個人的な予定なんて滅多にない。
嫁も恋人もいないし、たまの飲食以外では、ひとりでこっそりと風俗へ行くくらいのものだ。
ただ、それにしても、たいして親しくもない彼女が自分に何の用事があるのだろう、とは思った。

「よければ、上の空いている小会議室で、お話ししたいんですけど。ここではちょっと」
彼女は心なしか声を潜めて言い、君の返事を待った。
「なんか意味深だなあ」
君はイマイチ彼女の意図がわからないまま曖昧にこたえた。
「わたしと二人きりは拙いですか? というか迷惑です?」
「いや、別に拙くはないし、全然迷惑なんかじゃないよ、同僚だし」
君は苦笑して首を横に振った。
実際、拙くなんかないし、迷惑なわけがなかった。
それどころか、どんな用事なのかは知らないが、彼女に誘われてそれほど広くない部屋で二人きりで同じ空気を吸えるなんて、君にとっては天にも上るくらい嬉しいことだった。
「あれだったら、職場の外でもいいけど?」
君が言うと、彼女はバツが悪そうに肩を竦めた。
「お茶を飲みながらとか食事をしながらとかでもいいんですけど、お店だと周りに人がいるじゃないですか? だから誰もいない会議室の方がいいんですけど……ダメです?」
「いいや、僕はどっちでもいいよ」
「よかった」
彼女はパッと顔を明るくして微笑むと、言った。
「じゃあ、わたし、先に行って待ってますから」
「わかった、コートを持ったら、すぐ行くよ」
部屋から出て行く彼女の後ろ姿を見送りながら、君は心を躍らせている自分を自覚した。
誰もいないところで話がしたいなんて、いったい何なのだろう。
もしかしたら告白とかされちゃうのだろうか、と考えて、そんなわけないよな、とすぐに却下した。
変態とかM男ということはもちろん職場では隠しているが、それを除外しても、男としての魅力なんて何もない君が彼女のような素敵な女性から好意を寄せられることは万にひとつもあるわけがない。
君はそう自分の立場を弁えて、身の程を知れ、と自らを戒めた。
それでも、彼女とふたりの時間を過ごせるという事実は、どうしても君を浮き足立たせてしまった。

君がコートを持って上の階へ移動し、誰もいない廊下を歩いて小会議室のドアを開けると、窓際の椅子に彼女が座っていた。
コートは脱いでいて、白いハイネックのセーターに短いシンプルなスカートというスタイルで、入り口に背を向けている。
「ごめん、待たせちゃって」
そう君が声をかけるより先に、彼女は椅子をくるりと回転させて降り向いた。
白いセーターの胸が大きく、その魅惑的な隆起に君は思わず注視してしまいそうになったが、なんとか理性でその衝動を抑えて、テーブルの上に適当に畳んで置かれている彼女のコートに視線を逸らした。
大きな会議用のテーブルが部屋の中央にあり、椅子は左右それぞれ三脚ずつ、合計六人まで使える部屋だ。
壁際に置かれたホワイトボードには何も書かれておらず、大きなモニターも沈黙している。
窓のカーテンは開いていて、見慣れたいつもの景色が広がっている。
静かなので、空調の微かな音が聞こえていた。
部屋は適度に暖かい。
彼女が立ち上がり、わざわざどうも、と頭を下げ、明かり点けますね、と言って壁のスイッチを操作して天井の蛍光灯を灯した。
それから、いちおう鍵をかけとこ、と悪戯っぽく笑いながらドアへ行き、ロックすると、元の椅子に戻って再び腰を下ろした。
「よかったら隣に座ってください」
そう君を促して、自分の隣の椅子を勧めた。
「まあ向かいでもいいですけど」
照れ臭そうに付け足して、彼女は笑った。
君も曖昧に笑顔で頷きながら、本当は隣に座りたかったが、がっついていると思われたくなかったから、テーブルを挟んで差し向かいに座った。
コートとブリーフケースを隣の椅子に置く。
彼女はテーブルの上にラップトップを置いていて、モニターに画面が出せるようにケーブルを繋いでいた。

「ああ、なんか疲れちゃった」

急に態度を崩して、親しげに彼女は言うと、脚を組んだ。
その際、剥き出しの太腿が君にも見えるように、わざと椅子を後ろに引いたように見え、君は慌てて目を逸らした。
もちろん本心としてはじっと凝視したかったし、できることならすぐ前まで行って跪きたくなったが、ぐっと我慢した。

「それで、僕に何の用?」
君は彼女の微妙な態度の変化に気づいたが、あまり深くは考えずに、職場の先輩風の余裕を見せながら訊いた。
「何の用?」
小首を傾げながら彼女は鸚鵡返しをして、妖艶としか形容しようのない、どこか冷めた、それでいて挑発するような、不思議な笑みを浮かべた。
そして、不意に、君の苗字を呼び捨てで呼び、君がびっくりした顔をすると、クスクスと笑った。
「どうしたんだい? 突然」
君はわけがわからなかったが、まだ何とか態勢を保ちつつ、戸惑いを隠して訊いた。
「呼び捨てもなかなか新鮮でしょ?」
脚を組み替え、さらりとそう言った彼女に、君は苦笑した。
「確かに新鮮だけどさ、でも、偉いとは言わないが、いちおうこっちはかなり年上で仕事では先輩だし、びっくりするよ」
「まあ、それはそうだろうけど」
彼女は同意しながらも、すぐに肩を竦めて見せて、ラップトップの蓋を開いた。
コンピュータがスリープから復帰すると、壁の大きなモニターも明るくなり、ラップトップのディスプレイが映し出された。
「でもさあ、こんなの見ちゃったから、もう無理じゃね?」
完全に君を年上とも職場の先輩とも思っていない口調で彼女は言うと、ラップトップのトラックパッドに指先を滑らせてブラウザを起動すると、予めブックマークしてあったウェブページを開いた。
「これ、超笑えるんだけど」
「あっ」
君はモニターを見て愕然となり、言葉を失った。
ウェブページはブログで、一枚の画像がアップされていた。
それは、ボンデージ姿の女王様と全裸で亀甲縛りを施されながら首輪を付けたM男が並んで立ち、M男が女王様にリードと一緒に勃起したペニスを持たれている画像だった。
女王様の顔の半分くらいは画像を撮影している電話で隠され、M男の顔の目の周囲と勃起したペニスを含む股間部分だけモザイクがかけられている。
破廉恥で卑猥な画像だ。
痴呆のように呆然となりながらモニターの画像に釘づけになっている君を彼女はじっと見つめながら、呟く。
「さあて、この全世界に破廉恥な姿を惜しげもなく晒している恥ずかしいM男は誰でしょう?」
君はモニターから視線を外して、恐る恐る彼女を見た。
彼女は君のオドオドした視線を真正面から受け止め、唇の端を歪ませて笑っている。
その画像のM男は、君だった。
しかし君は最後の抵抗を試みた。
「誰って……?」
君はわざとらしく首を傾げた。
そんな君に、彼女は最後通牒を突きつけるように、言った。
「あのなあ」
彼女はトラックパッドを指先で操作して画像を拡大した。
M男の胸元あたりが大きく映る。
「これ見てみ? 左の乳首の上にかなり大きな、琵琶湖みたいな形をした痣があるでしょ? あと、ここの黒子」
カーソルを動かして、左脇腹の黒子を示す。
「これってかなりの特徴だよね、で、髪型とか、顔は目だけはモザイクが入っているけどこの輪郭、でもって、全体的なこの体型のシルエット……知っている人が見れば丸わかりでしょう? チンコは見たことないからモザイクがあろうがなかろうが知らないけど?」
彼女は画像を拡大したまま君を見た。
君は汗が噴き出すのを自覚しながら、どう答えるべきか混乱していた。
この画像は紛れもなく自分だった。
一ヶ月ほど前に地方へ出張した時、SMクラブを利用してこの写真を撮った。
君はこのところずっとその地方都市へ出張するたびに同じSMクラブで同じ女王様を指名してプレイしていた。
それで前回、画像を撮られて、ブログにアップされた。
尤も、「撮られた」とか「アップされた」とかいっても、無断で強制的にされたことではない。
プレイの一環のような感じで、羞恥プレイの一種のように撮影し、もちろん君も許諾した上で撮影し、アップロードされたのだ。
むしろ後からそのブログを見て、君は何度もオナニーをしたくらいだ。
その際、ちゃんと「載せていい?」と確認されたし、女王様はアップする前に、君の前で君の顔やペニスを隠す画像処理を施してみせ、記事と共にアップロードすると、その画像はオリジナルのデータと一緒にクラウドや端末に保存する前に削除し、念のためにゴミ箱を空にするところまで君に見せてくれた。
だから画像は、この世界に加工済みのものが一枚存在するだけだ。
それも地方都市のクラブの、別に有名でもない女王様のブログの過去ログに埋もれながら、だ。
しかしそのたった一葉の画像が、君のことを知る人の目に触れてしまった。
こんなことがあるのだろうか、と君は愕然となった。
画像を撮ってアップした時は、さすがの君も少し不安になったことは事実だが、絶対にバレることなんかないって、と言われたし、君もバレるわけがないだろう、と安心していた。
実際、この一ヶ月、何事もなく過ぎていた。
それが今になってなぜ? しかもなぜこの女の子が知ったのだ? と君は訝しんだ。
たいして親しくもない彼女が、どうして君の体の特徴に気づき、自分だと確信したのだろう?
それが君は不思議でならなかった。
それでも、彼女が指摘した特徴は、確かに君を君と特定できる証拠になる。
黒子はともかくとしても、琵琶湖型の痣は致命的だ。
ただ、そんな裸にならなければわからないような特徴まで君のことを知る者なんて、滅多にいない。
日常的に裸でまぐわう恋人ならピンと来るかもしれないが、そんな相手はいないし、目の前にいる彼女はもちろん恋人ではない。
そもそもどうして彼女が自分の裸について知識があるのか、君にはわからなかった。
痣も黒子も服を着ていたら見えないし、わからないのだ。
そして、ブログのログなんて、あっという間にアーカイヴに埋もれていくのに、どうして今更彼女が見つけたのか、本当に何もわからず、君はただひたすら困惑した。
特に女王様のブログは、プレイの紹介も兼ねているので、日に何本もアップされる。
その中の一つの記事が知り合いの目に触れる確率を考えると、君は空恐ろしくなった。

「なんかめっちゃパニクっている感じだけど?」
君を弄ぶように言って、彼女は笑った。
「これ、お前だよね?」
年下の美人から「お前」と呼ばれて、君の理性は瓦解し、マゾ性が覚醒してしまった。
「は、はい……」
ついに認め、君は陥落する。
「でも、お前、思っているでしょ? どうして裸にならなければわからない痣とか黒子とか知っているんだろう? って」
「ええ、はい」
君は素直に肯定した。
すると、彼女はあっさりと種明かしをした。
「お前、覚えているかどうか怪しいものだけど、忘年会の時にすごく酔って、周りに強制されて、上半身裸でカラオケを歌わされたのよ、なんかノリノリで『二億四千万の瞳』を歌ってたけど、その時のお前の姿って、結構みんな写真に撮っているのよね、わたしも、別にお前なんか興味ないんだけど、なんかその場の雰囲気につられて撮っちゃって、で、なんとなく消去もせずに保存してたの」
そこまで言って彼女は一旦言葉を切り、またラップトップのトラックパッドを操作して画像の大きさを戻し、プログの記事をモニターに映した。
「実はわたし、S気があって、SM系のサイトとかよく見るのよ、で、嗅覚というか勘みたいなもので、男を見たときにMかどうかがなんとなくわかるの、それで、わたしの中でお前は間違いなくMだと思ってて、ある日、暇な夜に、ふと、もしかしたらお前みたいな輩って出張先でプレイしているんじゃないかな? と思って、検索してみたんだよね」
君は黙って聞いていた。
確かに裸になってカラオケを歌った記憶はある。
彼女が続ける。
「ただ、お前の出張先はわかるし、その街にあるクラブもすぐにわかって、所属する女王様のブログなんかも簡単に見つかったんだけど、なかなかお前は出てこなくて、見当外れか、と断念しようとした一昨日の夜、ついに発見しちゃったんだよね。なんかもう見つけた瞬間、やったー、って感じ。やっぱあいつ行ってたな、って。もちろんさっき言った特徴を、手持ちのカラオケの画像を見ながら確認して、確信したけど、それプラス、別に親しくないけど普段からお前は見てるから、髪型とか全体的な雰囲気とか、いろいろ検討した上で、もう間違いないって確定」
君は項垂れた。
よりによって職場の人間に見つかってしまうとは、一生の不覚だった。
画像を撮ったことを、そしてブログへのアップロードを承諾したことを、今更ながら激しく後悔した。
しかしいうまでもなく、自分以外の誰を恨むこともできないことだし、後の祭りだった。
「しかし、まあ、よくやるわよね」
彼女は言い、モニターに映るブログの記事を声に出して読む。
「えっと何なに?『最近、出張のたびに来てくれるこのマゾ豚、どうしてもわたしの足やら腋やらの匂いが忘れられないらしい(笑)ほんと、好きだよね~、足、どんだけしゃぶってた? 腋も、狂ったようにペロペロしながらクンクン匂いを嗅いでたよね~、で、めっちゃ盛って、おぞましい姿を晒しながら、めっちゃ出したね(笑)』だって」
彼女は爆笑した。
余裕のS性をもう隠そうともせず、気付けば、完全に君より優位に立っている。
君は俯いてその声を聞いていた。
やがて彼女は、すっと席を立ち、テーブルを回って君の傍に来ると、頭を叩いた。
「おい、変態のドM、お前地方で何やってんだよ?」
彼女は嘲笑い、君は俯いたまま謝罪する。
「すみません……」
「すみません?」
彼女は君の顔を覗き込み、ビンタを張った。
「すみません、じゃなくて、申し訳ございません、だろ?」
「申し訳ございません」
君は即座に言い直したが、彼女は続けて椅子を蹴った。
「偉そうに椅子なんか座りやがって、床で正座しろ、ほら」
「は、はい!」
君は弾かれたように立ち上がると、そのまま土下座した。
悲しいかな、その行動はマゾとしての条件反射みたいな感じで、そんな君を見て、彼女は爆笑した。
「この記事読むと、お前、面白いイキ方をしてるのね、『盛りのついた犬みたいに脚にしがみついてチ○コを擦り付けながらせっせと腰振って昇天(笑)』って、何?」
ブログの記事を更に読んで彼女が訊く。
君は恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、小声で説明する。
「えっと、それは言葉の通りで、犬みたいにオナニーするんです……」
「すっごい見てみたいんだけど?」
「すいません……ご勘弁ください」
君は床を見つめて許しを請うた。
彼女を相手にMとしてはやりたいに決まっていたが、いくら何でも、さすがに職場ではできない。
そう思い、もう一度謝罪した。
「申し訳ございません……」
「じゃなくて」
彼女は君の髪を掴んで引っ張り上げ、顔にペッと唾を吐くと、強い口調で言った。
「これは頼んでいるんじゃなくて、命令してんだよ? だから、つべこべ言わず、今すぐここで、その犬のオナニーをやれ」
強烈なビンタを張って彼女は命じた。
「で、でも……」
それでもなお君が生意気にも躊躇していると、「でも?」と彼女は顔を顰めた。
「お前なあ、拒否れる立場だと思ってんのか? あ? どうしてもできないって言うなら、職場中にこの記事をバラすぞ?」
「ど、どうか、それだけはお許しください」
君は必死に言った。
「じゃあ、さっさと裸になって、やれ」
「はい」
君は服を脱いだ。
もう観念するしかなかった。
ただ、相当打ちのめされた気分だったが、マゾとしては絶賛全開中で、パンツを下ろすと、完全に勃起したペニスが飛び出して、彼女は呆れたように嘲笑した。
「お前、口ではああだこうだ言いながら、この状況でバリバリ勃ってんじゃん、マジもんのドMなんだな」
侮蔑の言葉で君を罵倒しながら、彼女は君の前に組んだ脚を投げ出した。
それ見た瞬間、君の中で理性のタガが完全に外れた。

「失礼します!」

君は瞬間的に一匹のマゾ犬と化すと、猛然と彼女の脚に抱きついた。
そしてペニスを柔らかい脹脛辺りに押し付け、太腿を抱え込んで、その肉感に耽溺しながら自ら股間に引き込み、せっせと腰を振る。

「うわっ、マジで犬だな、お前、超笑えるわ」

彼女が君を挑発するように脚を動かし、向こう脛でペニスを擦りながら笑う。
君はその快感に陶酔し、自分を解き放ちながら、どさくさに紛れてスカートの中に顔を押し込み、フンフンと鼻を鳴らしながら脚に抱きつき、ひたすら腰を振る。

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