爛れた悠久

 雨の夜の中に立つ、暗めの青い色でライトアップされた京都タワーは、千年の都の闇の底を跋扈する怨霊や魑魅魍魎を鎮める灯明のように見える。
 ひどい雨だ。JR京都駅の中央改札口前で足許に小型のキャリーケースを置いて佇み、バスターミナルなどがある駅前広場を見渡しながら、どうしようか、と君は思う。
 これから君が向かう場所まで、交通手段は三通りある。バス、地下鉄、タクシーだ。そのうち、地下鉄は少々使い勝手が悪い。レンタカーという手もないことはないが、京都の運転マナーの悪さは全国でも屈指だと君は思っているので、あまり自分で運転はしたくない。しかもこの大雨だし、市街地は一部の大通りを除いて、どの道も狭い印象が強いし、車は時間を読めない部分があるから、レンタカーはやめておいた方が無難だろう、と思う。大雑把に目的地はわかっているが、どうやって行ったら良いのか、いまいち把握できていないし、目的地に駐車場があるのかどうかもわからない。そもそも、これからレンタカーの事務所へ行って車を借りる手続きをする時間的な猶予がない。
 バスは、一応、路線番号と発車時刻を調べてある。それによると、午後八時に近い今、十時頃までは一時間に三本の運行があって、詳しい乗り場の位置はわからないが、次のバスの発車までにはまだ余裕がある。いくら何でもこんな時間までバス乗り場に観光客が長蛇の列を作っていることはない。雨に濡れるバス乗り場は、閑散としている。バスの所要時間は三十分弱ほどのはずだ。そして目的地近くのバス停から十分ほど歩くことになる。その徒歩の時間を考えると、少々気が重い。これだけ雨が激しく降っていると、おそらく足元だけでなく、いくら傘を差していても上着の肩や腕までぐしょ濡れになってしまうだろう。
 だったら、ドアの前まで行けるタクシーの方がいいかもしれない。ただし、結構距離がありそうなので、いくらかかるか不安だった。それならば、地下鉄でなるべく近くまで行って、そこからタクシーを使うというのもアリだ。というか君の目的地は、地下鉄では不便な場所なので、ひとまず烏丸線で北上し、途中駅で下車してからタクシーを使うしかない。駅から目的地まで歩くことは考えない方がいい。たぶん一時間程度はかかる。バスはあるかもしれないが路線も時刻もわからないし、結局、目的地最寄りの停留所は京都駅から乗るバスと同じなので、降車後に十分ほど歩かなければならないことに変わりはない。それだったら、どうせバスを使うなら、駅から乗ったほうが一本で行けるので楽だろう。
 京都の地下鉄は、観光客には使いにくい。南北と東西の縦と横にしか通っていないから、たとえぱ京都屈指の観光地である嵐山や金閣寺や銀閣寺や上賀茂神社や下鴨神社や清水寺あたりへ京都駅から地下鉄でダイレクトには行けない。その結果、市内をくまなく網羅しているバスが大変なことになる。
 しかし目的が観光なら、地下鉄とバスを組み合わせることで、格段に移動時間が短縮できるし、行動範囲も広がる。どこへ向かうにせよ、いったん地下鉄で京都駅を脱出し、烏丸御池で東西線に乗り換えて東にせよ西にせよ目的地付近まで行ったのちにバスを使うか歩くか、今出川や北大路で下車してそこで接続するバス路線で各エリアへ向かうか、ルートを工夫すれば、京都駅前のバス待ちの大混雑は回避できる。
 とはいえ今夜の君の目的は観光ではない。目的地周辺に有名な神社仏閣もない。君がこれから行こうとしているのは、とある昔ながらの町並みの中にある一軒の京町家だ。京都の街は戦争で焼けていないので、古い家が結構残っている。その家も明治時代に建てられたもので、近年、大規模なリフォームが行われたが、外観も内部も建てられた当時の雰囲気を色濃く残しているという。
 という、とはどういう意味かというと、実際に君は行ったことがないし、話に聞いているだけで、実物は写真ですら見たことがないからだ。知っているのは住所だけで、京都駅からの経路や具体的な場所はオンラインのマップで確認した。ただし航空写真はその一帯に雲がかかっていて見えなかったし、ストリートビューはその家だけ、まるで著名人の自宅みたいにモザイクが掛けられていて、建物の詳細はわからなかった。
 それはともかく、本当なら、とりあえず今夜宿泊予定のホテルにチェックインしてから目的地へ向かいたいところだが、それだとかなり遠回りになるし、時間的余裕もない。予約してあるホテルは河原町御池にあり、地下鉄の京都市役所前駅に直結する便利なロケーションだが、目的地とは全く方向が違う。なのでホテルには前もってチェックインがかなり遅くなる旨を伝達済みだ。どれだけ遅くなるかわからないが必ず行くからキャンセル扱いにはしないでほしい、と念を押しておいた。正直、何時にチェックインできるかわからないのだが、深夜零時を過ぎることはないだろうと思っている。
 現在、午後の八時少し前、目的の京町家へは九時に行くことになっている。その時刻の約束は大学病院の診察の予約のように厳密ではなく、だいたい九時頃という緩い指定だが、かといって多少早めに着くのはいいだろうが、大幅に遅れるのはまずい。バスではなく、地下鉄を利用するのであれば、少し回り道になるが、ホテルにチェックインしてから向かうというルートも考慮に入れられるが、たぶん時間的に難しい。いくら地下鉄の駅直結のホテルとはいえ、そちらへ寄っていては、約一時間後の午後九時の約束に間に合わない可能性が高い。だから、ホテルに寄ることは考えず、君は目的地へ直行することに決めた。
 中央口の雑踏の片隅に身を寄せながら君はスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。そしてここからタクシーで向かうか、それともどこかまで地下鉄で行ってそこからタクシーを使うか、地図を確認しながらどちらにしようかと考えた。目的地である京町家の場所にはピンが打ってあるので、だいたいの位置関係は把握できた。とはいえ、もうあまり迷っている時間はない。
 結局、君は、バスはやはり降りてから濡れそうだから却下し、地下鉄で最寄りの駅まで行ってから目的地の京町家までタクシーを使うことに決めた。地図を見て、まずはピンが打ってある目的地を確認し、次に京都駅から北上していく地下鉄の路線を辿って、単なる目測だが最もピンに近い位置にある駅を探し、とりあえず地下鉄でその駅へ向かうことに決めた。
 いっそこの際、料金的なことは度外視するとして、駅からタクシーで直接行ってもいいかとも思ったが、途中で予期せぬ事故や工事で渋滞か何かに巻き込まれて九時の約束に間に合わなかったら大変なので、全部タクシーを使うことはやめた。約束の時間が設定されている場合、市街地の道路を使うのは不確定要素が多すぎる。
 というわけで、君は地下鉄に乗るために、小型のキャリーケースを引きながら地下へと降りていった。

 平日の夜の京都市営地下鉄烏丸線は、なかなか混み合っている。あまり観光客ぽい姿はなく、在住の通勤通学の人が多いように思われた。シートは埋まっていて、立っている人もいる。
 君はなるべく人のいないドア付近で、足許に小型のキャリーを置いて、ぼんやりと立っている。地下鉄は北上していき、東西線との乗り換え駅である烏丸御池に着いた。いったんここで下車し東西線に乗り換えて京都市役所前駅へ行けばホテルはすぐだが、やはり回っている時間的余裕はなそさそうだった。
 結局そこでは下車せず、さらに市内を北上した。

 地下鉄を降りて地上に出ると、相変わらず雨は土砂降りだった。駅前広場のようなものはないので、君は傘を差し、キャリーケースを引いて通りに立ち、流しのタクシーを探した。するとすぐに空車のタクシーが来たので手を挙げて止め、乗り込んだ。そして運転手に、メモアプリに記してある目的地の住所を読み上げて伝えた。運転手はそれをナビに入力して、車を出した。
「どれくらいかかりますか?」
 君は電話の時刻表示を見て、運転手に訊ねた。
「スムーズに行けば十五分もかからないと思います」
 どうやら九時の約束には間に合いそうで君は安堵した。
 しかし京都はたまに来るが、このあたりは初めてだったので、どこをどう走っているのか、土地鑑のない君には全くわからなかった。夜で暗いし、しかも雨まで降っている。
 それでも君はこれで約束の時間には遅れない目処が立ったので、アドレス帳に入れてある目的地の電話番号をタップした。
「もしもし」
 すぐに相手が出た。落ち着いた男性の声だ。君は「九時に約束している──」と自分の名前を告げ、いま地下鉄の駅からタクシーでそちらへ向かっていて、十五分くらいで到着する旨を伝えた。
「わかりました、気をつけてお越しください」男性は言い、付け加えた。「あ、それと、申し訳ありませんが、通りに面した表口は閉まっておりますので、建物の横の少し狭い道を入ったところにある通用口の方へお回りください。どちらにも表札は出ておりませんが、家は角なのでわかると思います。通用口の方にはインターフォンがありますので、到着されましたら鳴らしてください」
「わかりました」
「では、お待ちいたしております」
 通話は終わった。君は上着のポケットに端末をしまい、濡れた窓の外を流れていく、どこだかさっぱりわからない京都市内の街並みを眺めた。

 目的の京町家の前に着くと、君は傘を差してタクシーを降りた。通りの角に建つ家は、君が想像していたよりこぢんまりとしていた。正直なところ京町家といっても間口の狭い所謂「鰻の寝床」の一般的な家ではなく、君は勝手に規模の大きな「表屋造り」のような建物を想像していたのだが、その目的の家は所謂「総二階」と呼ばれるふつうの京町家だった。しかし周囲も同じような古い家ばかりだったが、この家だけが全面的に改修されているため、雨の夜の下でも目は惹いた。
 暗い町並みだった。物音といえば、建物や路面、そして君の傘に当たる雨の音しか聞こえない。先程の電話の男性が述べていた通り、表口の大戸はぴたりと閉ざされていて、明かりが漏れている窓もなく、真っ暗だった。表札もなく、君は、本当にここであっているのだろうか? と若干不安になりながら、脇の細い道へ回ってみた。すると敷地のぐるりには屋根に瓦を葺いた漆喰と板の塀が続いていて、少し行くと通用口の格子戸があった。瓦葺の庇が出ていて、戸の横にカメラ付きのインターフォンがあり、そちらにもやはり表札の類はどこにも見当たらなかったが、電話の男性の説明通りだったので、君は意を決し、もしも間違っていたら謝って立ち去ればいいか、と思いながらインターフォンのボタンを押した。
 マイクの上のカメラの部分に小さな赤いランプがついて、スピーカーから「はい」という声が聞こえた。君は名前を告げてから言った。
「先程お電話させていただいた、九時に約束の者ですが」
「ようこそいらっしゃいました、今、戸のロックを開けますので、中へお入りください。で、入られましたら、左手に母屋の裏口がございますので、そちらへお越しください、その戸は開いております」
「わかりました」
 カチッ、と遠隔でロックが開放される小さな音が聞こえて、君は格子戸を開けた。そのベンガラ色の戸は木の格子戸のように見えたが、実際には鉄製で、隙間の部分には磨りガラスを模したポリカーボネート樹脂素材がはまっていた。
 君は傘を差したまま、戸を潜った。するとそこは奥庭で、さして広くはないが、苔のついた大きな石やつくばいや石灯篭などが配されている。右手に白漆喰の蔵があり、左手に二階建ての木造の家屋があった。その母屋と蔵の間には石畳が敷かれており、上空には瓦葺きの屋根が取り付けられていて、簡易な渡り廊下のようになっている。
 君は指示された通り、左手の母屋へと向かった。すぐ格子戸があり、手をかけると、確かに鍵はかかっておらず、滑るように開く。中に入ると、真っ直ぐ表口へと続く長い土間のような通り庭だった。しかし数メートル先に衝立があって、それより向こうへは進めないようになっている。入ってすぐの右側に障子を開けている座敷があり、そこにスーツ姿の男性が正座していて、「ようこそいらっしゃいました」と静かな口調と微笑で頭を下げ、君を出迎えた。
「どうも、お邪魔します」
 君も頭を下げた。この男性が電話とインターフォンの相手だったのだろう、と君は思った。声が同じだった。男性は君の来訪を労うように言った。
「雨の中、大変でございましたでしょう?」
「確かにすごい雨ですね」
「夕方くらいから本降りになりました」男性は言い、促す。「傘とキャリーケースはそちらへ置いたまま、どうぞお上がりください」
「失礼します」
 君は靴を脱ぎ、長式台から座敷へ上がった。その部屋は八畳で、日本画の掛け軸と盛花が飾られた床の間があり、隣の部屋とはグランプリチェックのような大きな白とグレーの正方形を組み合わせた襖で仕切られている。部屋の中央にワイン色ベースのウールのペルシャ絨毯が敷かれ、そこに中国のものと思われる、あらゆる部分に緻密な彫刻が施された木材と大理石をふんだんに使用した絢爛豪華な応接セットが置かれている。奥庭に面して縁側があったが、障子が閉じられている。君は上座へと誘導されて、拒否するのも不粋なのでそのまま椅子に座った。
「お飲み物は何をお持ちいたしましょうか」
「炭酸水はありますか?」
「はい、ペリエがこざいます、コーヒーやエナジードリンクなども用意しておりますが」
「ペリエでいいです」
「かしこまりました、お待ちください」
 いったん男性が部屋から去った。君は腕時計を見て午後八時五十二分であることを確認し、部屋を見回した。壁は本物の土壁で、鴨居と天井の間の欄間には龍が彫られている。
 静かな部屋だ。雨音も聞こえない。君は手持ち無沙汰のままテーブルの中央に置かれた花瓶を眺める。白いシンプルな陶製の花瓶の中には赤や紫のアネモネが生けられている。
「お待たせいたしました」
 男性がグラスを載せたトレイを手に戻ってきて、君の前にペリエのグラスを置いた。そして「──様は」と君の名前を呼んで訊く。
「当方は初めてでございましたね?」
「ええ」
「それでは、こちらをお読みになっておいてください」
 男性は同じトレイに載せていた一枚の便箋をグラスの脇にそっと置いた。便箋は淡いピンクの和紙でできていて、三つに折られている。
「はい」
「では、後ほど案内に参ります」
「はい」
 男性が空のトレイを持って去った。君はグラスを持ってよく冷えたペリエを飲み、いったんグラスを置いてから、便箋を手に取って広げた。
 そこにはブルーブラックの万年筆で書かれた文章が一行だけ認められていた。

 グラスのペリエを飲み終えてひと心地ついていると、再び男性が現れた。どこかにカメラがあって見ているのか? と思うくらいタイミングが絶妙だった。
「お待たせいたしました」
「はい」
 君は俄かに緊張感が昂るのを意識しながら椅子から立ち上がった。
「傘とお荷物はこちらに置いたままで結構でございますので」
「わかりました」
「お手紙は読んでいただけましたでしょうか?」
「読みました」
「それではご案内いたします」
 男性が先に立って十分程前に入ってきた裏口へと行く。君も靴を履いてそれに続く。そして外に出ると、男性は石畳の上を進んで、君を蔵へと先導する。
 雨は相変わらず激しく降り続いている。奥庭の苔や樹木が艶やかに暗く光って見える。石灯籠に淡い灯が入っている。先程までその石灯籠の中は真っ暗だった。
 蔵の開口部の前までくると、白漆喰の蔵戸前の観音扉は開かれていたが、その先の木製の重厚な引き戸はぴたりと閉じられていた。男性はその引き戸を開けた。
「では、どうぞ」
「どうも」
「靴は外で脱いでお上がりください」
「はい」
 君は靴を脱いで蔵の中に入った。背後で扉が閉じられる。すると、人感センサーが取り付けられているのか、真っ暗だった内部に明かりが灯った。

 どこかで香が焚かれているのか、蔵の中は強い伽羅の香りに満ちていた。
 その内部は、もともとは二階建てだったかもしれないが、現在二階部分はなく、天井が高い。君は照明に浮かび上がったその空間の雰囲気に息を呑む。
 照明は、天井からいくつか様々な長さで垂れ下がる和風のペンダントライトで統一されており、和紙の球形の中で柔らかい明かりを灯している。蛍光灯やLEDなどによる白い光は一切ない。そのため蔵内の光量は充分だが、隅の方は適度に暗い。高い位置に明かり取りのためか小さな窓がいくつかあるが、外は雨の夜なので、暗い。蔵内部の隅の方に、灯の入った赤い大きな提灯が梁から下げられていて、その淫靡な暗い赤が闇の一角を溶かしている。
 上空には黒光りする太い梁が何本も渡されている。そして何本もの鎖が滑車で吊り下げられている。
 床は一面、丁寧にワックスがかけられたフローリングで、人間が一人入れるくらいの大きさの黒い鉄製の檻や赤い大型の拘束椅子などが適度な間隔で置かれている。そして壁には、大きな鏡や黒くて分厚い木の板を使った十字架の磔台がある。
 中でも目を引くのが、部屋のほぼ中央に置かれたロココ調の大きな椅子だ。その部分にだけ強いスポットライトが当たっていて、椅子は存在感を誇示している。一メートル以上はありそうな高い背部分やゆったりとした座面やアームには黒いレザーが張られていて、金色の枠や脚には緻密な装飾が施されている。徹底的に和の空間の中で、その椅子だけが中世ヨーロッパの雰囲気を漂わせていて異質だが、なぜか妙に調和している。当たり前だが、君が使える椅子ではない。その椅子の背後の壁には、たくさんの様々な種類の鞭や拘束具がディスプレイのようにフックにかけられて並び、背の低い木製のキャビネットが置かれている。
 そして蔵の最も奥まった角に、洋式の便器が剥き出しで設置され、その横に磨りガラスで仕切られたシャワーブースがあった。そのブースの壁に寄せるように四段の階段箪笥がある。アンティークの和家具だ。ブースの折れ戸の脇には、脱いだ服を入れるのだろう、飴色になった籐の大きな籠が置かれている。君はフローリングの床を歩き、その一角へと進んだ。籠の中に、白い大きなバスタオルが畳まれて入っている。
 先ほどの便箋には、こう記されていた。
『蔵に入ったら奥にシャワーブースがあるから体を清め、その後は裸のまま、入り口で正座をして待ちなさい。』
 つまりこの蔵は、調教のための施設なのだ。そして調教を受けるために、君はここへ来たのだった。

 君は蔵の内部の雰囲気に気圧されつつも、忘れられないうちに、と思いながら、階段箪笥の天辺にプレイ代を入れた封筒を置いた。どこに置いたらいいかわからなかったが、豪奢な椅子やその背後のキャビネットに勝手に近づくことは憚られたので、階段箪笥の上にしておいた。
 それから君はシャワーブースの前で服を脱いでいった。着ていたものを全部大きな籐製の籠に入れて、裸になると、折れ戸を開けて中に入った。内部は、一畳ほどの広さの一般的な市販のユニットだった。壁はダークな木目調のホーローパネルで、天井のダウンライトは電球色だった。ブース内にはシャワーヘッドと膝上あたりの高さにある水栓以外に余計な設備は何もない。コーナーに棚があり、ボディソープと袋に入った使い捨てのボディタオルが置かれていた。棚の下の床には小さなプラステイック製の白いゴミ箱があり、その傍らに木製の大きな盥が立て掛けて置いてある。
 君は早速シャワーヘッドを持って湯を出し、適温になるのを待ってから、まずはざっと体を流した。それから使い捨てのボディタオルの袋の封を切って、取り出したそのタオルにボディソープを数プッシュ出すと、湯を含ませて泡立たせ、いったんシャワーを止めてから、全身を隈なく丁寧に洗った。シャンプーはないので洗髪は省略したが、顔はそのままボディソープで洗った。
 そうして全身泡まみれにすると、再びシャワーの湯を出し、綺麗に洗い流した。使用したボディタオルの泡も流し、絞り、ゴミ箱に捨てた。
 折れ戸を開けると、シャワーを浴びる前は特に気にならなかったが、体が濡れているためか、蔵の中の空気が少しひんやりと感じられた。ブースの外にはバスマットの類が敷かれていないので、君はユニットの中から手を伸ばして籠の中のバスタオルを取ると、とりあえずざっと体を拭き、膝から下や足の裏などの水滴を入念に除去してから、ブースの外に出た。そしてもう一度全身を丁寧に拭いていった。少し濡れてしまった髪もそのまま拭った。体の水滴を拭き取ると、肌に感じた空気のひんやり感もなくなった。
 君はつい癖で、拭き終えたバスタオルを腰に巻いたが、すぐに『裸で待て』という指令を思い出し、バスタオルを取って適当に畳んで籠の縁に掛けるように置いた。そして全裸で蔵の入り口の扉の前まで歩き、正座をした。
 耳を澄ませてみたが、外の物音は全く聞こえない。かなり分厚いとはいえ扉一枚で隔てられているだけなのに、あれだけ激しかった雨の音が一切聞こえない。
 蔵の中は完全に無音だった。

 どれくらいそうしていただろう、時計がないから不明だったが、扉の前で正座していると、いきなり、何の前触れもなく、引き戸が開いた。重厚な木の扉のためか、その向こうに誰かが近づいてくる気配すら全くわからなかった。ガチャリと音が響いた瞬間、君の緊張は心臓を鷲摑みにされたみたいに一気にメーターを振り切ってレッドゾーンに突入し、正座のまま背筋をぴんと伸ばした。
 雨の匂いと共に、大柄な女性が蔵に入ってきた。君はその姿を見上げ、そして口を半開きにして痴呆のように見惚れてしまう。俄かに包茎のペニスがぐいっと勃起するが、亀頭は露出しきれない。
 目の前に、光沢を湛えた赤いエナメルのボンデージに身を包んだ長身で金髪碧眼の白人の女王様がいた。チューブコルセットに小さなハイレグのショーツというセパレートタイプのボンデージが、凄まじくセクシーだ。ロングブーツも赤い。身長は180cmほどと思われたが、踵の高いブーツを履いている今、おそらく190cmを超えていそうだった。バストもヒップも豊かで、それでいてウエストはくびれ、グラマラスで圧倒的な体躯だ。一見しただけで日本人のM男など全く歯が立たないほどパワフルだとわかる。
 女王様は振り返って、蔵の扉を閉める。ハイレグのため、白く豊かな臀部はほぼ隠されていない。そして扉を閉め終えた女王様は、振り返り、改めて君の前に凛然と立った。君は女王様を見上げる。壮絶さを感じさせる程の美人だ。
 正座をして前を向くだけだと、君の視線の高さは、女王様のハイレグの股間部にすら届いていない。肉感的な太腿は高級な磁器のように白く、赤く艶やかなロングブーツが君の前に聳え立つ。透き通るような白い肌とエナメルの鮮やかな赤いボンデージの対比が夢のようだ。
 緩く波打つ天然のブロンドの長い髪が蔵の中の黄ばんだ照明の下で金色に輝き、透き通った水色の冷たい瞳が君に注がれる。白い肌に映える赤い口紅の塗られた唇が僅かに冷笑を湛えている。同じ人間という種とは思えないくらい圧倒的に美しい。君はその美貌、そのスタイル、そのスポーツでもやっていたのか逞しい肩幅を誇る体格に、無条件で屈服する。
「初めまして、イヴリン女王様。この度は御調教いただく機会にあずかり、恐悦至極に存じます。ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします」
 君は日本語で言って、床に額をつけて平伏した。
「初めまして、包茎の変態」
 イヴリン女王様は君を冷めた目で見下ろし、流暢な日本語で言った。

 この調教施設は風営法の認可を受けている所謂『風俗店』ではない。無理やりカテゴライズするなら個人のサークルようなものだ。システムとしては、誰かの紹介がなければ入れない。そもそもプロモーションの類は一切されていないから、誰かから紹介されなければ、その存在を知ることすらできない。オンライン上でどれだけ検索しても情報はない。個人のブログやSNSや掲示板などの書き込みにすら全く出てこない。だから君はこの施設のことは、SMクラブの女王様から直接、口伝で知った。
 一ヶ月ほど前のことだった。よく利用するSMクラブで馴染みの女王様とのプレイ後、雑談の中で君は、「英語は喋れないけれど白人の女王様に憧れがある」みたいな話をした。すると、その女王様が言った。
「絶対に秘密を厳守できるなら、個人営業みたいな、日本語が堪能な白人の女王様が京都にいるから、興味があるなら繋いであげてもいいよ」
「そんな女王様がいるんですか?」
「いる。でもネットとかには一切情報は出ていないし、仮にプレイできてもSNSとかに書くのは厳禁。その約束が守れない人は無理」
「いくらですか?」
 あくまでも小市民に過ぎない君としては、最も気になる点を最初に訊いた。ネットに書き込む気などなかったのでそのへんはどうでも良かったが、どのみちべらぼうな金額ならはじめから無理だし、やはり肝心なのは料金だ。一晩で何十万もかかるのであれば諦めざるを得ない。君はただの変態M男で、お大尽ではないのだ。
「メチャクチャは高くない」女王様は片手を広げてみせた。「一律これ。プレイ時間の設定はないし、『何がしたい』みたいな内容のリクエストもできないから、高いのか安いのか微妙だけれど」
「五〇じゃないですよね?」
「違うわよ」女王様は苦笑した。「そのゼロはいらない」
 仮にプレイ時間が一時間なら決して安くはないが、外国人の女王様に日本語で調教を受けられるのなら、高すぎることはない。それくらいならなんとかなる、と思いながら、君は重ねて訊ねた。
「すごいハードとかですか?」
「そのへんはざっくりと『ハード』か『スタンダード』かくらいは選べるみたい、ただ『ソフト』はない。まあ行くとしても『スタンダード』にしておいた方がいいでしょうね、外国人ミストレスのハードなんて、日本のM男ではついていけないでしょ? 尿道になんかすっごいプラグやブジーを突っ込まれちゃったりタマを潰されちゃったりとかするんじゃない?」
 確かに、外国人のBDSMというとすごくハードなイメージがある。所詮君はヘタレなので、上半身や尻などにミミズ腫れが何ヶ月も残るような鞭や玉潰しや血を見るようなプレイはできない。それでも『スタンダード』が果たしてどんなレベルかは全く見当がつかなかったが、その上にわざわざ『ハード』が設定されているのなら、それほど残虐なことはされないだろう、と思われたので、さらに訊いた。
「システム的にはどんな感じですか?」
「行きたくなった?」
 女王様が含み笑いを漏らしながら訊き、君は「ええ、かなり興味があります」とこたえた。
「行くなら、わたしの紹介ということでまずはわたしが向こうに連絡を入れる。で、受けてくれるとなったら、たぶんざっくりとした日時の指定があって、その返信がわたしにくるから、それをあなたに伝えて、相手先のメールアドレスも教える、で、その先はあなたがメールで直接向こうと話を詰める、最終的には電話。それで決定したら当日、京都のそこへ行くだけ」
「京都のどこですか?」
「行ったことないから詳しくはわからないけれど、市内の外れの方らしい、少なくとも祇園とか新京極とか繁華街じゃない。予定が確定したら、そのとき向こうが詳細な住所を教えてくれる」
「それで、料金はいつ払えば?」
「行った子に聞くと、直接渡すのではなくて、封筒に入れて持っていってプレイルームに入ったら置いておけばいいらしい。そもそもフロントなんかもないみたいだし、お金を払うタイミングがないらしい。というかその女王様は商売というより、趣味みたいなものだから、生意気で偉そうな『お客さん』ぶった態度だったり嫌いなタイプ認定されたりしたら、何もせずに帰らされることもあるみたい。あとプレイ中でも機嫌を損ねたらたとえ十分でもそこで終了。当然返金はされないし、一生出禁」
「厳しそうですね」
「厳しいね」
「その女王様と会ったことはあるのですか?」
「あるよ。或るBDSMバーの周年パーティで会った。はっきり言ってすごい美人だし、日本人とは体格が全く違うし、所謂ヤプー願望みたいなものがあるマゾからしたらたまらないかもね。しかも日本語が通じるから、その言葉のハードルの低さもいいんじゃないかな?」
「写真とかありますか?」
「パーティーで一緒に撮ったのがあるけど、悪いけれど見せられない、ごめんね」
「いいえ、プライバシーですもんね」
「でもすごい美人であることは保証する」
「僕、英語が話せませんから、白人の女王様とのプレイなんて絶対叶わない夢だと思っていました」
「踏み出せば、その夢が叶うね」
「そうですね」
「行ってみる?」
「はい、行きたいです、その女王様のお名前は何とおっしゃるのですか?」
「イヴリンさん。まだ三十前のはずよ。普通にしていると気さくだし明るくて優しいけれど、調教はすごく厳しいらしい」
 女王様はこたえ、君に確認した。
「本当に行く?」
「行きたいです」
「じゃあ連絡してみるわ、でもキャンセルはなしよ、必ずしも希望日時通りに入れるかどうかはわからないけれど、コンタクトをとった時点で、向こうから断ってこない限り、客側にリクエストする権利はないから。あと、向こうが受けられないって断ってきたら縁がなかったと思って諦めてね、話を振っておいて悪いけれど」
「わかりました」
「あと、受けてくれるとなった場合は、くれぐれも『客』じゃないし、『自分は客だ』みたいな態度は絶対に取らないこと。マジですぐに放り出されるらしいからね」
「心しておきます」
「それじゃあ、連絡がつき次第、そっちにラインするわ。受けてもらえるかもらえないか、結果はどうであれ、一週間くらい以内にはわたしから返事する」
「はい」
「で、もし受けてもらえるなら、向こうの空いている日を何パターンか提案されると思うけれど、平日の夜とかでも合わせられる? というか土日とか祝日とかたぶん無理よ」
「平日だったら休むから大丈夫です」
「めっちゃ気合入ってるね」
 女王様はおかしそうに笑った。
 そのような遣り取りをした四日後の午後、馴染みの女王様からラインが届いた。君はまだ勤務時間中だったが、我慢できず、トイレへ行って何通か続けて届いているメッセージを見た。
『連絡取れた。来月の第一週の火曜か水曜の夜なら可能だって』
『一応向こうにはあなたの名前を伝えてあるけれど、メールを送るときは私の紹介であることと念のために自分の名前も改めてちゃんと記して。どちらの日がいいか決めてから連絡すると話が早いと思う』
『このまえも言ったけど、こうなった以上もうキャンセルはできないから、どちらかで行ってね』
 そういうメッセージの後、先方のメールアドレスが記されていた。
『お手数おかけしました』
『ありがとうございました』
『その火曜か水曜、どちらかで行きます』
 君が短文のメッセージを連発して返信していると、女王様からまたメッセージが来た。
『どういたしまして』
『それと、向こうへの返信は今すぐみたいに急がなくても、仕事終わってからでいいよ。今日中に返せばいいからね』
 君はそれを読み、すぐに返信した。
『わかりました。本当にありがとうございました』
『今度、何かお礼をさせてください』
 するとすぐに着信が届く。
『そんなのいいから、気にしないで』
『とにかくありがとうございました』
『じゃあね』
『はい、失礼します』
 最後の方はほぼリアルタイムでのチャットになったが、メッセージの交換を終えると、君はトイレを出て自席に戻った。そして勤務を終えて帰宅すると、その夜のうちに相手方へメールを送り、翌日返信が来て、その夜に電話で遣り取りし、予約が確定した。もちろんコースは『スタンダード』にしておいた。電話の相手は、外国人の女王様ではなく、落ち着いた感じの日本人男性だった。
 そうして今、君は京都の町屋の蔵の中にいて、美しい外国人女王様にひれ伏しているのだった。

 女王様が無言のまま君の前を通り過ぎ、スポットライトが落ちるエリアに置かれた豪奢な椅子へ向かう。君は立ち上がり、そのすぐ後ろに続く。女王様は椅子に座ると、脚を組んだ。君はその御前で床に跪き、手を八の字に置き、体を小さく丸めて従順の意を示しながら、額を床につけて平伏する。
「イヴリン女王様、御調教をよろしくお願いいたします」
 それについて女王様は何も言わず、君の顎の下にブーツの爪先を差し入れると、そのまま持ち上げて君に前を向かせた。君はマゾの喜び、女王様の圧倒的な美、そして明確すぎる支配者と被支配者の体格差に怯えながら、複雑な表情を浮かべている。上方からそんな君の顔を女王様は冷徹な目で見下ろし、まず一発、強烈なビンタを張った。
「ありがとうございます!」
 君はその一発のビンタで一気に呆気なく昏いマゾの谷底に墜落し、無条件降伏するように屈服する。
「後ろのキャビネットの上に首輪と手枷があるから持っていらっしゃい」
 女王様が命じ、君は「はい!」とこたえると同時にもう弾かれるように立ち上がっており、壁際のキャビネットへと走った。
 キャビネットの上には、赤い首輪とそれに繋がれたリード、そして革製の手枷があった。君はそれらを持つと、急いで女王様の御前に戻り、跪き、両手で差し出した。
「お持ちいたしました」
「頭出して」
 女王様は道具を受け取って命じ、君が上半身ごと前に傾けて頭を差し出すと、まず君の首に赤い革の首輪を装着した。接続するリードは、まるで大型犬を繋ぐような銀色の太い鎖だ。そのリードをくるくるっと手首に巻いて短く持ち、ぐいっと上方へ持ち上げて椅子から立ち上がり、そのまま君も立たせる。
 至近距離で女王様と向かい合って立つと、その美しい顔は君より高い位置にあり、普通に見下ろされた。それだけで君は被虐感に痺れてしまう。暴力的なまでに隆起している胸がすぐ目の前にあり、君は視線の置き場に困惑する。
 優に20cmは高い位置から注がれる冷酷な視線だけで、君の内部で羞恥心と被虐の悦楽が混濁し撹拌されて、引き裂かれそうになる。そしてそれでいて烈しく淫らに、悍ましく浅ましく、破廉恥に昂る。深い湖のようなブルーの眼が、視線を氷のように尖らせている。仮性包茎のペニスが健気に屹立する。
 続いて女王様は君に手を背中に回して後ろを向くように命じて、いったんリードのハンドルを床に置くと、手枷を君の両方の手首に装着した。そして今度は自分で背後のキャビネットへと歩き、抽斗の中から紫色のロープの束を取ってきて、それを解くと、君の上半身、二の腕と胸を一緒に縛った。この処置によって、下半身は自由だが、上半身の自由は剥奪されて、君はもうどれだけ昂っても勝手に自分でペニスは触れなくなった。
 そして女王様はリードのハンドルを左手で拾い上げて持ち、鎖を手首に巻いて短くすると、改めて君と向かい合って立ち、右手で強力なビンタを君の頬に炸裂させた。それは凄まじいパワーで、君は呆気なくよろめいた。本当なら頽れてしまうところだったが、リードを持たれていることと踏ん張ったことでなんとか堪えた。もしもこれが脚もぴたりと閉じた状態で拘束されていたら、踏ん張ることができず、簡単に吹っ飛んでいただろう。
 君は女王様を見上げ、ビンタの礼を述べる。
「ビンタをありがとうございます!」
 女王様は椅子に座り、長い脚を組んで命じる。
「お座り!」
 その強い口調に震え上がりながら君は「はい!」と良い返事をして正座をする。
「膝で立ちなさい」
 女王様がリードを上へ引っ張り上げる。
「はい!」
 君はリードに従いながら腰を浮かせて膝で立つ。女王様は君の股間に脚を差し入れてブーツの爪先で左右の太腿の内側を交互に数回蹴って命令を下す。
「足を開きなさい」
「はい」
 君は自分の肩幅くらいまで両方の膝を左右に広げるように移動させた。すると女王様は立ち上がり、下から君の陰嚢をブーツの甲で勢いよく蹴り上げた。
「うぎゃあ」
 睾丸が体にめり込み、君は叫びながらつい体を弾ませてしまう。しかし首輪に繋がるリードを女王様に短く持たれているため君の行動範囲は限定されており、前方につんのめってしまった。そのとき、本来なら手を床について体を支えるべきなのだが、両手が後ろで拘束されているため、ピンと張られたリードに繋がる首輪が君の体重移動を受け止め、顎に食い込んで、君は前のめりになりつつもどうにか静止する。女王様は更にリードを上へ持ち上げる。君はその動きに追随しつつ体を起こす。
「申し訳ございません」
 君は自身の不甲斐なさを詫び、体勢を立て直す。そんな君の頬を女王様はビンタで張り飛ばす。右手で左の頬を張られたため、今度は右側へ倒れそうになったが、やはり張られたリードがその動きを留め、首輪が君を支える。手が使えず、膝を開いて立っているという不安定な格好のため、短く持たれたリードと首輪が君を受け止めている。
 女王様が更にリードを短く持ち、君を立たせ、左手でリードのハンドルを持ち、右手で続けざまに往復ビンタを浴びせた。瞬く間に君は両方の頬が熱を帯びていくのを感じた。
 君は目を閉じ、歯を食い張りながら、いつ終わるとも知れないビンタの嵐をひたすら受け止めている。やがて女王様はリードを手放し、空いた左手で君のペニスを握ると、それを引っ張りながら君を少し自分の方へ引き寄せ、顔にペッと唾を吐き、一段と強烈なビンタを張った。君は頬の痛みと熱と、鼻のすぐ下あたりにべっとりと付着した女王様の唾の温もりと感触に酔いしれながら背筋を伸ばす。
「お唾とビンタ、ありがとうございます!」
 女王様の美しい顔貌がすぐ間近まで迫り、真っ赤な口紅が塗られた蠱惑的な唇に君は息を呑む。女王様はそんな君を翻弄するように唇を尖らせ、その中で唾を泡立たせてみせた後、再び、ペッと君の顔面目掛けて唾を吐き捨てた。先程よりも質量の増した唾は、君の鼻から口のあたりに着弾し、ゆっくりと滴る。
「ああ女王様のお唾、ありがたいですー」
 君は陶酔し切った蕩けるような顔で礼を述べる。唇に垂れた唾を君は啜る。その甘き香りが君の理性をチリチリと灼いていく。
「そんなに顔に唾吐かれるのが好きなの?」
 女王様が握り続けている君のペニスを捻るように持ち上げて訊く。
「はい! 大好きでございます」
 君は爪先立ちになりながらこたえる。
「情けなくないの? 顔に唾なんか吐かれて。普通、こんな屈辱的なことされたら嬉しいのではなくて、怒るものよ?」
「は、はい……」
「ほんとドM」
 冷ややかに女王様は言い、続け様にペッペッペッペッと唾を吐き、君の顔中が忽ち女王様の唾塗れになる。それは君にとって夢にまで見た状況だった。美しい白人の女王様にバカにされ、蔑まれ、ペニスを捻りあげられながら唾塗れになる──こんな素晴らしい構図は、日常では絶対に体験できない。
「お口開けてごらん」
「はい」
 君が大きく口を開けると、女王様は左手で君のペニスを握ったまま右手の指先を顎にかけ、赤く艶めく唇を窄め、とろりと唾を垂らす。
「ああ女王様ー」
 君はその甘い天上界の流体を享受する。女王様はペニスをギュッと握り、口をくちゅくちゅして更に唾を生成し、熟成させ、滴らす。君は酔い痴れるように円やかなそれを飲む。女王様はそんな君を冷ややかに見下ろしている。
 君は唾を与えられながら、そして女王様の手の中で破廉恥に勃起を晒しながら、扱きたい、扱かれたい、と切に思った。しかし、両手は背中で拘束されているために触ることすらできず、かといって女王様が君のペニスを扱くことなどあり得ない。なので君は本能的に、つい腰を振ってしまった。女王様の手の中でペニスが前後に動き、結果的に扱かれる格好になる。
「おまえ、どさくさに紛れて何やってるの!」
 女王様は激怒し、君のペニスから手を離すと、ブーツの底で思いっきり君の胸元あたりを蹴り飛ばした。首輪のリードを持たれていないため君は呆気なく後方へ転がり、無様にも足を開いてペニスを開陳しながら一回転してしまう。
「わたしの手はおまえのオナホールじゃないわよ」
「申し訳ございません!」
 君は床に平伏し、額を床につけた。本来なら両手を前につくべきだが、背中で拘束されているため、それは不可能だった。
「この身の程知らずの黄色い猿」
 女王様はそのパワフルな体躯を活かして、君の体を思いっきり蹴り上げる。ブーツの甲が君の体の側面や尻に何度となく叩き込まれる。それは重いキックだった。君はひたすら体を丸め、怯え切った目に涙を滲ませ、その蹴りに耐えながら、まるで何かの呪文のように謝罪を続ける。
「すみませんすみませんすみませんすみません申し訳ございません申し訳ございません申し訳ございませんお赦しくださいお赦しくださいお赦しください」
 君は大の大人でありながら、女性からの暴行に、本気で泣いて詫びていた。その声は恐怖に震えていたが、君の背後に回った女王様は完全に無視して、爪先で乱暴に膝を開かせ、君がそれに従って開くと、まるでサッカーのシュートでも打つように、全力で振り抜く勢いの強烈な蹴りを君の股間部に叩き込んだ。
「うぎゃーーー」
 君は蛙のように跳ね、もんどり打って倒れる。仰向けになり、フルオープンになった股間でそれでも尚そそり勃っているペニスを、女王様はブーツで踏んだ。そのまま体重を乗せて圧をかける。
「うっうっうっああ」
 君は苦痛に顔を歪ませながら、歯を食いしばって耐えるが、女王様が少し圧を緩めて靴の裏で君のペニスを擦ると、君は卑しくも「あーん」とよがってしまう。
「全く、どこまではしたないマゾなの」
 唇の端に侮蔑を浮かべながら、呆れたように女王様が吐き捨てる。君は息を弾ませ、汗を噴き出させ、目に涙を滲ませながら、必死に許しを乞う。
「本当に申し訳ございませんでした、どうか、どうかお赦しください」
 君は両手を背中に回したまま跪いて床に額を擦りつけ、恐怖に慄きながら、謝り続ける。これまで多くの女王様とプレイしてきているが、ここまで圧倒的な体力の差を感じさせられ、恐怖を覚えたのは初めてだった。いったん解放された女王様のパワーは、桁違いだった。非力な君では全く太刀打ちできないレベルで、力でねじ伏せられるとはこういうことだろう、と君は身をもって知った。美しくて気高く力強いイヴリン女王様の前では、自分など虫ケラにも劣る、君は心の底から何の矛盾もなく率直にそう思い知らされていた。
 そんな君の顔はマゾそのもので、涙と女王様の唾に塗れながら、ビンタによって朱色に染まっている。

「おまえにはお仕置きが必要ね、いまいちまだ自分がどういう立場なのかわかっていないみたいだから」
 女王様は天井から下がる鎖を握り、ガラガラと派手な音を響かせながら手繰って、フックを下ろした。そしてその先端のフックをまず後ろ手に拘束している背中の手枷に引っ掛け、少し鎖を巻いて上空の滑車から君の手首までの間の弛みをなくした。
 その後、もう一本の鎖を下ろして、次は君の右の太腿の二箇所にロープを巻いてそのままフックに接続し、再び鎖を手繰った。
 勢いをつけて女王様が一気に鎖を引きおろす。すると鎖はガラガラガラガラと大きな音を響かせながら滑車によって巻き上げられていく。それに従って君の右足が徐々に持ち上げられる。やがて爪先が床から離れて浮き、君は左足だけで立つ。
 不安定な体勢だ。後ろ手で拘束された手首に繋がる鎖と右足の太腿あたりを持ち上げる鎖、二本の鎖でバランスを取らなければならない。尤も「取らなければならない」といってもうまく取れるものではない。結局のところ二本の鎖に身を委ねるしかない。
 女王様が剥き出しのペニスをビンタで張り飛ばし、蹴り上げる。ついでに頬にも往復ビンタを張る。どれも全く手加減のない、容赦ないビンタだ。君は、この蔵に入ってからいったい何発のビンタを浴びただろう、とチラリと考えたが、数えているわけではなかったし、よって考えてみたところで正確な解答を得られるわけでもなかったので、無駄なことはやめた。
 じきにに女王様はビンタをやめると、壁際へ歩き、ディスプレイのようにフックにたくさん並べて吊り下げてある鞭の中から赤と白の革を編み込んだ、先端が八条のバラになっているタイプの長い一本鞭を持ち、君に近づいた。そしてある程度の距離のところで立ち止まると、一度ひゅんと鞭を振って空を切り、バシッと派手な音を響かせて床を打ってみせた後、片足吊りの状態の君に、鞭を叩き込んだ。長い鞭の硬い革の先端が君の胸前あたりを打ち据え、そのまま体に巻き付く。
「うぎゃーーーーーー」
 君は絶叫した。それは決して大袈裟な声ではなく、自然に口をついて出た叫びだった。バラ鞭は一本鞭等に比べると打撃力が劣ると思われがちだが、材質次第で充分痛みを与えられる。硬い革の房が君に浴びせられ、体が揺れて、痺れるような鋭い痛みに全身から汗が噴き出す。
 女王様は自由自在に君を鞭打つ。まるで空を飛ぶ八岐大蛇のような鞭は、君の胸、背中、尻、そしてペニスに情け容赦なく炸裂した。
「うぎゃーーーーーーーーーーーー」
 君は鞭が打ち据えられる度に絶叫した。そして気づくとぼろぼろと涙を流して泣いていた。
「全くうるさいマゾね」
 女王様は平然とそう言いながら淡々と鞭を振り続ける。
「お赦しくださいお赦しください、あああ、うぎゃーーーーーーー」
 君の赦しを乞う哀願の言葉と絶叫が交互に響き渡り、不安定な体はぐらぐらと揺れ続けた。体には赤い鞭の跡が刻まれていく。
 いったいどれだけの鞭を受け続けたのか、頭がおかしくなりかけた頃、ようやく女王様は鞭を止めた。そしてその鞭を床に置くと、ようやく止んだ鞭の嵐に少しだけ安堵しながらハアハアハアハアと肩で息をしている君に歩み寄り、吊られたまま怯えた眼を向ける君の顔に唾をペッと吐き、君の背中の手枷と足で吊り上げているロープを解いて、いったん君を解放した。
 ただしまだ背中の手枷自体は外さない。君は、次は何が起きるのだろう、と不安に慄きつつ、支配者の挙動を注視する。
 すると女王様は、自由になった二本のロープのうちの一本を使って君のペニスを緊縛した。玉袋と茎の根元を厳重に縛り、それを天井から吊り下がる鎖の先端のフックに括りつける。
 そして女王様は再び鎖を手繰った。今度はロープの巻きついたペニスだけが吊り上げられていく。ジャラジャラと不穏な音が響き、君の両足の踵が浮いた。その時点で女王様は鎖の上昇を止めた。
 君はペニスだけで吊り上げられた。壁の大きな鏡にはそんな君自身の姿が全部映っている。女王様の傍らで、後ろ手で拘束された不自由な体勢のままペニスだけで吊り上げられている屈辱的な己の姿に、君のマゾ性は激しく痺れた。
 支配者層に君臨する美しく気高い白人女性と貧相で卑しい下等な黄色い猿、その残酷なまでに対照的な構図に、種の違いをまざまざと実感させられ、君は最下層に突き落とされる。高貴な白人ミストレスに比べたら、君など畜生だ。豚や犬と同レベルの生物だ。大きな鏡に映るその対比が目に入る度に、君はそのことを強く認識し、そして刷り込まれる。しかしそれは、一般的な日本人なら屈辱と感じるかもしれないが、変態M男の君からしたら、昏い悦びでしかない。
 女王様は床の鞭を拾い上げた。また打たれるのか、と君は反射的に身構えたが、女王様はそれを持って壁際へ行き、その鞭を元の位置に戻した。そして代わりに、別の道具、スパンキングパドルを手にして君のそばに戻ると、今度はそれで君のペニスを集中的に打った。バシッバシッバシッバシッと叩き込まれる。
「うぎゃーーーーーーーー」
 君は打たれる度に飛び跳ねて叫んだ。女王様はペニスだけではなく、尻や背中や胸などもそのパドルで打った。先端が鋭いバラ鞭と表面積が広くのっぺりとしたスパンキングパドルでは、痛みの種類が全く違ったが、痛いことに変わりはなかった。特にペニスの茎にクリティカルヒットすると、鞭よりも痛みが重くどすりと響いて、君は悶絶した。
 もう君は青息吐息の満身創痍だった。打たれるままに体を揺らし、自分の深部から何かがスポイルされていく快感みたいなものに酔っていた。もちろん痛みは尋常ではなかったが、だんだん大袈裟に叫び声を上げることが少なくなり、ともすると、パドルがヒットした瞬間「ああん」と喘ぎ声を漏らして体を捩ったりもして、まるで雨の日のベランダに干されるボロ雑巾のように黙々と打たれ続けた。
 女王様は途中からパドルの使用をやめ、吊られているペニスを握り、君の頬に往復ビンタを張って、何度となくその顔に、その体に、そのペニスに、唾を吐き捨てた。女王様は君のペニスを手放し、ビンタを張る。次第に君は、甘美なる折檻によって、何か宗教的な解脱に近いような精神状態に陥っていく。女王様が君の体を揺らして遊ぶ。その妖艶で冷酷な微笑に君は融解する。ペニスだけを吊られ、背中に回した手を手枷で拘束されている君は、為す術もなくただ揺れる。
 古都の最も深い夜の底、爛れた悠久の時の澱みに、君は揺蕩う。

 やがて女王様は君のペニスを括るロープを解き、後ろ手の手枷も外した。そうして君はいったんあらゆる拘束から解放され、その場に頽れてしまう。何度も大きく肩で息をする。ビンタや鞭によって散々打たれ続けた頬や体が熱い。そんな君を冷ややかな眼で見下ろしながら女王様が言う。
「ちゃんと体で理解できた? おまえはただのマゾなのよ」
「はい……」
 君は床に這い蹲りながら頷く。
 女王様が椅子に座った。君はその御前で跪く。女王様は再び君の首輪にリードを繋ぐ。そして長い脚を組み、ブーツの右脚を君の前に投げ出す。
「脱がせなさい」
「はい! 喜んで!」
 疲労困憊のはずなのに君は目を輝かせてまるで小学生のように素直に返事をし、両手でブーツのおみ足を掲げ持った。
「失礼いたします」
 ロングブーツは、内側のサイドにファスナーがついていて、着脱しやすくなっている。君はひとまず女王様のブーツの踵を自分の太腿に置くと、左手でブーツを支え持ち、右手でファスナーをゆっくりと慎重に下ろした。リードに繋がれながらそうしていると、君は途轍もない幸福感に抱かれる。
 ブーツの中は素足だった。赤いエナメルを剥がしていくと、白い脚が出現し、温かい夢のような薫香が匂い立ち、君は陶然となる。
 そしてするりとブーツを脱がせ終わると、白く可憐な足の指の爪には紫色のペディキュアが綺麗に塗られている。
 それはまさに芸術作品のような凛然とした風格を湛えていた。ブーツを傍らの床に置き、君は両手で足の側面から下部にかけて包み込むように掲げ持った。すると、掌には確かな生命の証である体温とともに、しっとりとした質感が伝わった。
 女王様はその豪奢な体格の割に足のサイズは平均的な日本人女性より少し大きい程度、もちろん正確な数値は不明だが、君は自分と同じ26.5くらいという印象を受けた。そしてその形状は、一言で表すなら、洗練されていた。ぼってりと丸みを帯びた感じはなく、決して骨張っているわけではないが、シャープでスマートだった。君はしばしその芸術的な造形に心を奪われ、見惚れた。こんな素晴らしい聖なるパーツが今、自分の手の中にあるという現実が信じられなかった。
 君を挑発するように、女王様がその白い指を蠢かせる。温もりを伴う仄かな微香が君の煩悩をチリチリと灼いていく。たまらず君は畏れながら恐々とした目と口調で申請する。
「イヴリン女王様、おみ足にご奉仕させていただいてもよろしいでしょうか?」
「すれば?」
「ありがとうございます!」
 呆気なく下された許可に君は欣幸を爆発させながら、まずは鼻先を足裏の指の付け根のぷにぷにしている柔らかい部分に強く押し当て、大きく薫りを吸引する。その馥郁とした足の香に包まれながら、君は夢幻の世界の住人となる。その馥郁たる足の香に、君は幸福の実体を観取する。
「ああ素晴らしい香りでございます」
 君は半眼となって陶酔しながら、エナメルのブーツの中で熟成された蘭麝を享受する。女王様が指先を動かして君の鼻や唇を足の親指や人差し指で弄る。たまらず君は絶叫する。
「女王様! 失礼いたします!」
 君は敢然とその二本の指を口に含む。そして口腔内で舌を縦横無尽に蠢かせて、舐め尽くし、しゃぶり尽くしていく。指の間にも丁寧に舌を伸ばす。そして一本一本執拗に舌を大胆に這わせていく。
 神の領域の造形を自分の中に取り入れることで、その絢爛な世界観に同化していく光栄を君は感じている。尊い楽園の幽香に包まれながら五本の指にむしゃぶりつき、堪能しきると、君は舌を足の甲や裏にもゆっくりと這わせていく。女王様はそんな君を呆れきった顔で眺めながら、首輪のリードを引き寄せ、空いている方のまだブーツを履いている左脚の爪先で、ビクンビクンと躍動している仮性包茎のペニスを擦る。そして尖った爪先を君の包皮に押し付け、そのままずり下げる。
「あ、あーん」
 君ははしたない声を漏らして腰を捩る。女王様の足先によって君の包皮は剥かれて、ピンクの亀頭が露出する。その先端から滴る透明な液が糸を引いて床に垂れる。君は腰から脱力しそうになりながらも、なんとか踏み留まっている。女王様はそんな君を追い込むように、ブーツの足裏でペニスを擦り、徐々にその速度を上げていく。
「あんあんあんあん」
 君はおみ足への奉仕は継続したまま腰を弾ませてそのペニスへの刺激を甘受しつつ、たまらず哀願する。
「女王様、お願いでございます、どうか、どうかオナニーをさせてください!」
「まだダメ」
 女王様は無情にも即座に却下し、それでも尚、ブーツでペニスを擦り続ける。君の腰は今や完全に浮き上がっている。そして女王様のブーツのスライドに合わせて自らも淫らに腰を振る。
「ああ女王様、気持ちいいです、ありがとうございます」
 首輪を着けて女王様にリードを持たれながら尻を浮かせておみ足をしゃぶり、ペニスをブーツの底で擦り上げられ、その動きに同調するように腰を振っている、無様で、憐れな、人間であることを放棄したような君の姿が、大きな鏡に映っている。

「もう充分でしょう」
 女王様は唐突に、一方的に言って、君のペニスから足を下ろし、君の口からおみ足を回収した。そしてリードのハンドルを手放して床に置き、お預けを食った犬のような状態の君に、命じた。
「シャワーブースに盥があるからお湯を汲んで、箪笥の一番上の中にタオルが入っているから持っていらっしゃい。で、わたしの足を洗いなさい、おまえが奉仕したままでは汚くてブーツが履けないわ」
「はい!」
 さっと立ち上がり、君は首輪に繋がるリードを引き連れながらシャワーブースへ走る。途中で邪魔になったのでそのリードを自分の首に何重にも巻いた。折れ戸を開けて中に入り、壁に立て掛けてあった木製の盥をフロアに置くと、シャワーを出し、適温になるのを待って、その湯を入れた。そうして汲み終えると、いったんその盥を女王様の足元へ運び、改めて階段箪笥まで戻り、一番上の抽斗を開けた。すると、中には白いタオルが何枚も丁寧に畳まれて収められており、君はその一枚を取って急いで女王様の許に戻る。そしてリードを首から外してそのハンドルを女王様に捧げ、御前に跪く。
 女王様がリードのハンドルを受け取り、無言のまま君の前に足を差し出す。
「洗いなさい」
 再び舐めたくなったが、ぐっと堪え、君は両手で足を持った。
「失礼いたします」
 君は女王様の足を盥の中の湯に浸し、丁寧に掌で洗った。先程自分が狂ったように舐めてしゃぶった足の指の一本一本を入念に湯で流した。そうして足の裏の踵まで洗った後、白いタオルを手に取ると、まるで高価な陶磁器を扱うように慎重に女王様の足を拭いた。
 やがて水滴を綺麗に拭き取ると、盥を退けて、女王様の足を床にそっと置いた。タオルを畳み、盥の縁に掛ける。
「履かせなさい」
 足を再び君の前に突き出し、女王様がブーツを履かせるように命じた。
「はい、失礼いたします」
 君は傍らに脱がれているブーツを持ち、粗相のないようにゆっくりと履かせ、ファスナーを引き上げた。

 再びブーツを履いた女王様は、君の首輪に繋がるリードを持ったまま立ち上がり、壁際に置かれた木製のキャビネットへと歩いた。君も四つん這いで続く。女王様はキャビネットの前で止まると、扉を開き、中からモンラッシェ型の大きめのワイングラスを取り出した。そしてキャビネットの上のティッシュの箱も持ち、靴音を響かせながら椅子の近くまで戻り、立ち止まった。その後ろで君も止まり、お座りをする。女王様は振り返り、少し腰を屈めると、お座りをしている君にグラスを手渡した。君は正座したまま女王様を見上げ、その無色透明のクリスタル製ワイングラスを両手で受け取った。
「待て」
 女王様はそう命じると、ティッシュの箱を床に置いてから、君が体を強張らせて正座しているその前で、おもむろに赤いエナメルのハイレグショーツをするりと脱いだ。外国人=パイパンという勝手なイメージが君にはあったのだが、イヴリン女王様はそうではなく、金色の薄いアンダーヘアーの面積は日本人とあまり変わらず、綺麗に整えられていた。君の目は生まれて初めて生で見る外国人女性の股間に吸い寄せられている。
 女王様は脚を若干開き、君を見下ろして命じる。
「下にグラスを持っていらっしゃい」
「はい」
 君はワイングラスを両手で包み込むように持って、女王様の股間の真下で掲げる。やがて、絶対秘仏が祀られた厨子を想起させる聖なる亀裂から、聖水が勢いよく迸り出た。
 聖水は軽やかな音を響かせながら飛沫を上げてワイングラスの中に注ぎ込まれ、泡立ち、強く香り立つ。しばらく抽出が続き、やがて勢いが弱まり、止まった。クリスタル越しに、なみなみと湛えられた聖水の温もりが君の手に伝わる。
 ワイングラスの中で煌めきを放つ聖水は微かに泡を漂わせていたが、やがて沈静に向かい、端正な琥珀色に鎮まり艶めく。その色はまるで最高級のジャスミンティーのように透き通っている。美しき支配者から下賜されたそれはこの世界で最も高貴で誇り高い飲み物だった。
 女王様はティッシュで簡単に股間を拭くと、それを適当に捨ててショーツを履き、リードのハンドルは持ったまま腰に手をあてて君を見下ろしながら、命じた。
「飲みなさい」
「いただきます!」
 君は一度、両手で持つグラスを聖裂に献杯を捧げるように掲げ、クリスタルの縁に唇をつける。芳醇な強い香気が鼻腔を突き抜け、君は揺めきながら、少しずつ、まろやかさを充分に堪能するように、喉を鳴らして聖水を拝受する。
 女王様がそんな君を醒めた眼で軽侮している。君はその視線によってペニスの芯が痺れるのを感じつつ、豊潤な果実酒を想わせる濃厚で温かい聖水を舌で転がしながら、心ゆくまで味わい、戴いていく。
 官能的な苦味が喉を通過し、食道を下り、胃に収まっていく。女王様の体内で生成された清廉で純粋な流動体が君を内側から清めていく。
 君の中で浄化の欣悦が炸裂し、ペニスが限界までそそり勃つ。しかし無情にも飲めば飲むほどグラスの中の聖水は減っていき、やがてほとんどなくなってしまっても、一滴も残すまいという固い決意のもと、君は尚も未練がましくグラスを傾け、全て飲み干した。
「ご馳走様でございました。ありがとうございました」
 君は最大の謝意を伝え、空になったグラスを床に置くと、両手をつき、頭を下げつつ腰を折り、額を床につけた。
「美味しかった?」
 椅子に座り脚を組んで女王様が訊き、君は顔を上げると、声を張ってこたえた。
「はい! 最高のお聖水でございました。ありがとうございます!」
「よかったわね」
 君の目の前には肉感的なおみ足が優艶に組まれ、女王様の声が降り注ぐ。君はもうどうしても我慢できず、捨て犬のような憐れな目で女王様を見上げて懇願してしまう。
「イヴリン女王様、一度だけ、一度だけ、一度だけで結構でございますから、どうか、どうか太腿様に抱きつかせてください! お願いします! お願いでございます!」
「仕方ないわね」
 女王様はそう言うと、すっと立ち上がり、左脚を少し後ろへ引いて、僅かにそちらへ重心を移動させた。自然と右脚が誇示される。無言のまま顎をしゃくって君を促す。
「ありがとうございます!」
 君は狂喜を爆発させて腰を浮かすと、ルネッサンス期の美術作品に匹敵する官能を纏ったイヴリン女王様の白く肉感的な太腿に抱きついた。そして五感以上のあらゆる感覚を総動員してその感触に耽溺する。
「ああイヴリン女王様……素敵でございます……素晴らしいです……ああ夢のようでございます……」
 君は女王様に首輪のリードを持たれながら、聳え立つ太腿に縋りつき、その奇蹟の感触に恍惚とした表情を浮かべつつ両手を肌に這わせ、しっかりと、しかしソフトに頬擦りをする。そうしながら吸いつくような肌の質感と肉感と潜熱に、大いなる慈悲の実在を体感する。本当はその白い肌を舐めたかったし、そのまま更に上昇し股間部に顔を埋め聖水の残り香と聖裂の馨香を享受したかったが、そんな贅沢が許されるはずもないので、なんとか堪え、夢現の曖昧な境界線上で、このまま死んでもいい、と心の底から素直にそう思う。
「もういいでしょ」
 女王様は淡白に言い、脚を引く。もちろん君は感謝しながら撤退する。
「ありがとうございました」
 額を床につけて深く平伏する。
「じゃあ、オナニーしなさい」
 女王様が唐突に命じた。君は目を爛々と輝かせて即答する。
「はい! オナニーの御許可、ありがとうございます!」
 君は腰を浮かせて膝で立つと、とっくに限界まで勃起しているペニスを右手で握り、猛然とその手を動かす。女王様はリードを持ちつつ、そんな君の股間にブーツの爪先を差し入れ、その甲で、気まぐれに下から陰嚢をポンポンと蹴り上げている。
「ああ」
 君はその刺激に跳ねながら、尚も扱く。そんな君の顔に女王様が、ペッと唾を吐く。
「ありがとうございます!」
 君は空いている左手で頬に付着した唾を顔全体に伸ばし、淫楽の深淵に浸る。
 もう完全に腰が浮き上がっている。息も荒い。上方から注がれる女王様の軽蔑しきった冷たく青い虹彩の眼差しに縛り上げられながら、射精の衝動が呆気なく迫り上がってきて、君は哀願する。
「イヴリン女王様! もう射精しそうでございます! どうか射精の御許可をお願いいたします!」
「もうイクの?」
「申し訳ございません、も、もう耐えられないです」
 君は謝りつつももう手の動きは止まらない。
「あ、ああ、ああああ、イヴリン様、イヴリン様、イヴリン様ーーー」
 君は何かの呪文のように女王様の名を連呼する。
「イケ! ドM!」
 女王様が唇を歪めて吐き捨て、一際強烈なビンタを張る。
「あ、あ、あ、ああああああ、イ、イ、イヴリン女王様ーーーーー!!」
 君は絶叫し、全力でペニスを擦り上げ、そして盛大に白濁液を噴出させた。この瞬間のために一週間オナニーを我慢していた大量の精液は、黄ばんだ照明に煌めきながら宙を飛び、女王様のブーツの爪先の数センチ手前の床に墜落した。
 華々しくも虚しい射精を果たした君は脱力し、額に滲む汗を手の甲で拭い、大きく肩で息をする。まるでエクササイズのような調教だった。そんな風に君が若干の感慨に耽っていると、女王様がリードをぐいっと引いて、命じた。
「御挨拶」
「はい!」
 君は一瞬にして現実に引き戻され、姿勢を正すと、一度ぴんと背筋を伸ばしてから、深々と平伏した。
「イヴリン女王様、御調教をありがとうございました」
 君の最深部から服従と屈服の歓びが何の矛盾もなく衝き上げてきた。ビンタを張られ続けて火照る頬の熱が嬉しかった。君は心の底からイヴリン女王様の調教に感謝していた。
 女王様は言葉でこたえる代わりに、ブーツの底を君の後頭部に置き、ぎゅうと強く圧した。君の脳裏に隷属の記憶が深くインストールされる。そして、女王様はその足を下ろすと、少し屈み込み、君の首輪を外す。
 長いブロンドの髪が君の前で揺れて、ヘアムースのムスクの香りがふっと漂った。

 支配者モードを解除したイヴリン女王様が、「使って」とティッシュの箱を君に与えた。君は「ありがとうございます」とこたえて受け取り、数枚抜き取ると、それで自分の出したものの後始末をした。ペニスに付着している精液の取残を除去し、床の精液も拭き取る。そうしていると、女王様の声が高みから降り注いだ。
「帰りはうちの車で送らせるわ、帰る準備ができたら通用口で待っていて」
 君は作業を中断して女王様を見上げる。
「わかりました、ありがとうございます」
 送ってもらえるなんて聞いていなかったので、少々戸惑いつつも、君は礼を述べた。
「シャワー使いたかったら使ってもいいわよ」
 しかし君はイヴリン女王様の余韻に少しでも浸っていたたかったので、そのような意味を込めてこたえた。
「せっかくなので、このまま帰りたいです」
 唾に塗れた顔や体を洗い流したりせず、せいぜい自分のハンカチで拭うくらいに留めておいて、少しでも長くイヴリン女王様の存在の名残りを感じ続けていたかった。
「どうぞ、ご自由に」素っ気なく女王様は言った。「使ったティッシュは適当にそのへんにまとめて置いておいて、後で片付けさせるから」
「はい、わかりました」
 そうこたえた後、君は、叱られるかもしれないとは思ったが、このまま辞して後悔したくなかったので、ずっと心に引っかかっていたことに関して、怯えながらも意を決して請願した。
「あのう……」
「何?」
 女王様が軽く首を傾げる。
「先程イヴリン様がお使いになられ、そこにお捨てになられたティッシュを……頂いてもよろしいでしょうか?」
「ティッシュ?」
「はい、お聖水を戴いた際にお拭きになられた……」
「ああ……」女王様は苦笑する。「いいわよ」
 あっさりと許可が下りた。君は歓喜を爆発させながら、感謝し、平伏した。
「ありがとうございます!」
「じゃあ、さようなら」
 女王様は君の謝意など気にも留めず踵を返し、出口へ向かう。君はその大きな後ろ姿に深く頭を下げた。
「失礼いたします、本日は本当にありがとうございました」
 イヴリン女王様は何もこたえず、そのまま蔵を後にした。

 身支度を整えて蔵を出ると、雨に濡れない軒下に、靴と一緒に君の傘とキャリーケースが移動されていた。君は靴を履いてそれらを持ち、蔵から通用口まではたいした距離でもないので、傘は差さずにその屋根の下へ駆け込み、雨を避けて立った。上着のポケットの中にはもちろんイヴリン女王様の聖水が染み込んだティッシュがある。それは新しいティッシュで丁寧に厳重に包まれている。
 君が通用口の軒下に立つと、すぐに黒塗りの大きな自動車が現れて、目の前で止まった。それは旧いロールス・ロイスのシルバー・レイスで、君は驚いた。こんなすごい車、実物を見るのは初めてだった。007の映画でしか見たことがないのではないか、と君は思った。凄まじい風格だ。トヨタやホンダやニッサンやマツダでは未来永劫追いつけない気品に満ちている。磨き上げられた漆黒のボティが、雨に濡れながら艶やかに光っている。
 狭い一方通行の細い道を塞ぐように停車したロールス・ロイスの運転席のドアが開き、黒いスーツを着た初老の運転手が大きくて黒い傘を差して出てくると、通用口に立っている君に「お待たせいたしました」と頭を下げた。到着時に応対した男性とは別人だ。結局、あの案内してくれた男性とは、蔵の扉のところで別れた後はもう顔を合わせることがなかった。
「どうも」
 君も単なる礼儀として軽く頭を下げた。
 運転手は、君のキャリーケースを見て、「お持ちいたします」と言ったが、こんなもの他人に運ばせるようなものでもないので、辞退した。
「自分で持つので大丈夫です」
「わかりました」
 運転手はあっさりと撤退し、傘を差し掛けて君を車へと誘導した。
「どうぞ」
 運転手は後部のドアを開けた。君はクラシカルで豪壮な車内に乗り込んだ。隣のフロアに自分の傘とキャリーケースを置く。運転手がドアを閉じて、運転席に戻る。そして車内で振り向き、訊いた。
「お泊まりはどちらでございましょうか?」
 どう考えても分不相応なリアシートに君は妙に緊張しながらホテル名を告げた。
「かしこまりました」
 運転手は頷き、続けた。
「こちら、イヴリンよりお渡しするように、と。どうぞ」
 そう言って運転手は透明のビニールで個包装されているグレーの不織布のマスクを差し出した。
「どうも」
 君は意図がよくわからないままそのマスクを受け取った。
「お顔がずいぶん赤くなられてしまったので、車をお降りになられた後、よかったら着用されるように、とのことです」
「すみません、ありがとうございます」
 君は、なんて優しい心遣いなのだろう、と感動しながら、そのマスクを見つめた。確かにそうとうビンタを受けたので今でもほんのりと熱を感じるし、鏡で確認はしていないが、赤く染まっている、或いはもしかしたら若干腫れているかもしれない、そんな可能性は充分に想像できた。
「包装のビニールは後で片付けますから、開けたらシートに置いておいてください」
「わかりました」
「では、出発いたします」
 運転手は正面を向き、車を出した。やがて少し広い通りに出て、赤信号で停止した。君は小市民感を丸出しにしながら、恐る恐る運転手の背中に訊ねた。
「すみません、あのう、このお車代はいくらお支払いすれば……」
「お代は結構でございます」
 バックミラーの中で君を見つめ、運転手は微笑を浮かべながらこたえた。
「そうですか……では、お願いします」
「この時間ですと、もう道も空いておりますでしょうし、三十分もかからずに着くと思います」
「わかりました」
 君は革張りのシートに深く身を埋めた。
 信号が青になり、ロールス・ロイスは再び発進し、夜の中をゆったりと走っていく。車内にはモーツァルトの交響曲第40番が控えめな音量で流れている。
 ガラスを斜めに流れる水滴越しに、君は雨に浸された暗い古都の街並みを眺めた。そして、ビジネスホテルではなくてそれなりにちゃんとしたホテルを予約しておいてよかった、と思った。
 ビジネスホテルの車寄せに──そんなものないかもしれないが──ヴィンテージのロールス・ロイスは似合わない。

“爛れた悠久” への 2 件のフィードバック

  1. 白人女性を崇拝する者にとって、
    夢のような素晴らしい作品をありがとうございます。

    自分は、唾フェチでもあるので、
    白人女性に侮蔑されながら
    顔に唾を吐きかけられるシーンは最高の至福です。

    白人女性を女王様にした作品は稀少なので
    また書いていただければ有難いです。

    1. 感想、ありがとうございます。

      あくまでも作る側の事情なのですが、外国人が出てくるお話はコミュニケーション的に「言語」というなかなかな障壁があり、設定や書き方がまあまあ難しいので、上手くできたかどうか自分ではよくわからないのですが、楽しんでもらえたならよかったです。

      また何かネタが浮かんだら書いてみます。

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